第30話 鉛色の海への船出
鉛色の海岸線に、金属が叩き割られる音が響き渡っていた。
オールド・ベルが停泊する荒れ地から少し離れた廃港跡の一角に、異様な鉄の塊が姿を現しつつある。昨日までは赤錆びた調査船の残骸が散乱するだけの船の墓場だったが、今はその死骸の間に、一隻の無骨な船が骨格を露わにしていた。
船体のベースは、企業連が乗り捨てた調査船のうち最も状態の良い船殻に、アルドが分厚い鋼板をバーナーで溶接し、無数の無骨なリベットを打ち込んで仕立て直したものだ。継ぎ接ぎされた装甲の隙間を縫うように、船全体を制御するための魔力経路が魔導インクで緻密に描き込まれている。元の船体が持っていた流線型の船首はそのままに、両舷には巨大な推進外輪が据え付けられている。直径だけで人の背丈をゆうに超えるその外輪は、分厚い鋼板を放射状に組み上げて作り上げた水掻きを何枚も備えており、まるで巨大な歯車がむき出しで船体に食い込んでいるような、物騒きわまりない外観をしていた。
「ガレット、もう3度だ。左舷に寄っている」
船体の下に潜り込んでいたアルドが、船底から顔だけ出してそう言った。泥と鉄粉と魔導インクで顔中が縞模様になっており、目だけが異様に輝いている。
「ああ? だったらお前が上で支えてみろ。この外輪がどんだけ重いか、分かって言ってるのか」
ガレットは船殻の上に立ち、外輪の支柱を巨大なパイプレンチで押さえ込みながら忌々しげに返した。外輪の自重がレンチ越しに両腕へ伝わり、力を抜けば盛大に傾いて船体ごと横転しかねない。
「分かってるよ。だから左に3度だと言ってる。外輪の推進角が狂えば泥の中で直進すらできなくなるんだ。ここだけは妥協できない」
「……ちっ」
ガレットは歯を食いしばり、全体重をかけてレンチをじわりと押し込んだ。ギギ、と鋼が軋む音がして、分厚い外輪がわずかに角度を変える。
「そこだ。止めろ」
アルドが船底から身を乗り出し、支柱の根本のボルト穴に分厚い留め具を噛ませて、巨大なナットをレンチで力任せに締め上げた。ガキリ、と硬質な金属音が響き、鉄と鉄の接合部が物理的に固定される。
ガレットはレンチから手を離し、ぐったりと肩を落とした。
「……で、こんなバカでかい水車を両舷につけて、何をどうする気だ」
「外輪だ。水車じゃない」
「俺にはどっちも同じに見えるがな」
アルドは船底から這い出し、自分が造り上げた船を見上げた。泥まみれの手の甲で額を拭い、満足げに目を細める。
「あの泥の粘性と比重をねじ伏せるには、スクリューじゃ駄目なんだ。泥が絡みついて回転軸がねじ切れる。企業連が沈めてきた船の大半は、それで推進器ごと自壊した」
アルドは外輪の水掻きの一枚を手のひらで叩いた。低く重い金属音が響く。
「外輪なら掻き出す方向に力がかかるから、泥を抱え込まずに弾き飛ばせる。しかも駆動軸が船体の外にあるから、泥による異物詰まりで内部の魔力経路を巻き込んで破断するリスクもない。効率は悪いが、壊れない。それがこいつの設計思想だ」
「効率が悪い上に、燃費も最悪だろうが」
「だから限界制御がいるんだろ」
悪びれもせずそう返すアルドに、ガレットは深いため息をついた。
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船体の中枢に据え付けられた制御コンソールには、魔導インクで描かれた複雑な回路図が蜘蛛の巣のように走っていた。
企業連の調査船から回収した操舵盤をベースに組み上げられたその中心には、分厚い鉄箱を丸ごとはめ込むための無骨な四角いソケットが口を開けている。
アルドは無骨な鉄箱――船体後部へ強固にワイヤーで縛り付けたオールド・ベル本体から、甲板を這わせて中枢まで引っ張ってきた極太の有線ケーブルの先端にある「物理制御モジュール」を、両腕で重そうに抱え上げた。大戦期の技術の結晶でありながら、見た目はただの黒ずんだ金属の直方体にしか見えない。
「ベル。聞こえてるか」
腰の通信機に向かって声をかけると、オールド・ベルの機内から合成音声が応答した。
『ええ。マスターの荒い呼吸音までしっかり届いています。有線による直結通信は極めてクリアですから、どうぞ遠慮なく接続なさってください』
「ああ、行くぞ」
アルドは重いモジュールを巨大なソケットに押し込んだ。ガチャリ、と分厚い金属の噛み合う音。
端子が接触した瞬間、魔導インクの回路が脈打つように一斉に発光した。青白い光が基盤の表面を走り、船体の配管を伝って船全体へと広がっていく。
「ベル、限界制御を展開しろ。お前が読み込んだロジックを、この船の魔力経路に乗せる」
『了解。――論理配列、展開します』
コンソールに描かれた魔導インクの回路が、一段激しく脈動した。安全マージンの閾値を動的に書き換え続けるための複雑な論理配列が、モジュールを経由して船体の魔力経路へと一気に流し込まれていく。アルドが設計した回路の上を、ベルのロジックが走り抜けていく。
『……なるほど。マスターが敷いたこの魔力経路、限界制御の配列を流すことを前提に設計されていたわけですか。魔力炉が自壊する直前の臨界点を、外部負荷に応じてリアルタイムに再定義し続ける。安全装置を外すのではなく、安全装置そのものの定義を毎瞬書き換える。気が触れた設計思想ですが、論理としては破綻していません』
「褒めてるのか貶してるのか、はっきりしろ」
『事実を述べているだけです。さあ、点火してください。この程度の並列処理で私の演算領域が飽和するとでも?』
アルドは船尾に鎮座する、企業連の巨大な魔力炉の点火弁に手をかけた。
ガレットは船の縁を掴み、無言で身構える。
カチン。
弁が開いた。
最初は低い唸りだった。それが数秒で腹の底を揺さぶる重低音へと膨れ上がり、船体全体が細かく振動し始める。排気管から吹き上がった蒸気が灰色の空に白い柱を立て、外輪の巨大な歯車がギシギシと軋みながらゆっくりと回転を始めた。
『魔力炉、定常燃焼を確認。出力、定格の40%で安定……いいえ、安定させています。泥の粘性抵抗に合わせて冷却バルブの開閉を毎秒120回、炉内圧力の微調整を並列処理中。現状、極めて退屈な負荷です』
「退屈で結構だ。まだ泥に入ってすらいないんだからな」
アルドはコンソールに張り付き、計器の針の揺れを見つめている。
「よし。ガレット、係留索を外せ。出る」
ガレットは黙って船首の太いロープを解いた。
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船が灰の海へと滑り出した瞬間、すべてが変わった。
ドロ、という鈍く重い抵抗が、船底から船全体を掴むように這い上がってくる。
陸にいた時の滑らかな回転が嘘のように、外輪が悲鳴じみた金属音を上げて速度を落とした。分厚い鉛色の汚泥が水掻きに絡みつき、駆動軸に凄まじい負荷がのしかかる。
船体がぐらりと前のめりに傾いた。
『負荷急騰、推進抵抗が陸上テスト値の11倍を突破――炉内圧力、臨界警告域に到達。安全弁作動まで残り3秒』
ベルの合成音声が、初めてわずかに早口になった。
「安全弁を切るな。閾値を書き換えろ。限界制御だ」
『了解。臨界閾値を動的再定義、安全マージン演算を並列処理に移行します――冷却弁の開閉周期を毎秒340回に引き上げ、排熱圧力を0.3秒周期で再計算。……通りました。炉は保っています』
魔力炉の唸りが一段高くなり、排気管から吹き出す蒸気の量が倍に膨れ上がった。外輪が再び回転速度を取り戻し、ドチャ、ドチャ、と分厚い泥を力強く掻き出し始める。
鉛色の汚泥が外輪に叩かれて重い飛沫となり、左右に扇状に飛び散った。水の飛沫のような軽やかさは欠片もない。泥が塊のまま空中に放り出され、ベチャリ、と船体の甲板に落ちて張り付く。
だが、船は進んでいた。
企業連の最新鋭船が安全装置に縛られて立ち往生し、朽ち果てていった灰の海の上を、継ぎ接ぎだらけのスクラップ船が轟音を上げて掻き分けている。
「……進んでるぞ」
ガレットが、信じられないものを見るように呟いた。
アルドは計器から目を離さず、口元だけで笑った。
「進んでるな」
『当然です。私の演算を舐めないでいただきたい』
ベルの声にはいつもの慇懃無礼な響きがあったが、どこか弾んでいた。
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