第29話 用心棒以外の仕事の方が多いのは分かっている
灰色の泥が、長靴の底に重くへばりつく。
一歩足を踏み出すたびに、ズブり、という粘り気の強い不快な音が足元から響いた。水分の多い泥ではなく、鉛色の塗料をそのままぶちまけたような、極めて粘性と比重の高い汚泥だ。
半分以上がその泥に埋もれた企業連の調査船は、遠目には座礁した小山のようだったが、裂けた外装から内部に入り込むと、そこは巨大な鉄の胃袋そのものだった。
ドロドロの汚泥と、肺にこびりつくような重金属と赤錆の匂いが充満している。ひんやりとした空気が、ただの廃墟ではなく「死んだ兵器」特有のざらついた冷たさを孕んでいた。
ガレットは油塗れのグローブ越しに、入り口付近のひしゃげた隔壁を軽く叩いた。カン、と頼りない音が響き、細かい赤錆の粉がパラパラと崩れ落ちて足元の泥に吸い込まれる。
彼は無意識のうちに天井の梁を見上げ、金属の腐食具合から崩落の危険性がないか素早く視線を走らせた。足元の泥の深さ、有毒ガスが滞留しそうな窪み、いざという時の退路。生存者としての本能が、常に周囲のリスクを嗅ぎ取っている。
「おい。毎回言うが、少しは周囲を警戒して進め。お前は不用意に進みすぎなんだ」
ガレットが油断なく慎重に足場を確かめながら肩越しに注意するが、後ろを歩くアルドの足取りは不気味なほど軽かった。
「何度言っても直らねえな……」
小さく毒づくガレットをよそに、アルドは分厚いコートの裾が泥に浸かることなど微塵も気にする様子はなく、崩落の危険など最初から存在しないかのように、背後から爛々と目を輝かせて薄暗い残骸の奥を覗き込んでいる。
「見つけたぞ」
ガレットが安全確認のために立ち止まるより早く、アルドが弾んだ声を上げた。彼は用心棒の制止を待たずに横をすり抜け、一直線に暗がりへと向かっていく。
ガレットが舌打ちをして後を追うと、アルドの視線の先には、壁面と半ば同化するように癒着した、見上げるほど巨大な鉄の塊があった。表面には無数の太い管が血管のように這い回り、分厚い装甲板で覆われている。企業連の大型魔力炉と、それに付随する推進器の駆動パーツ群だ。
アルドは泥だらけの表面を素手でうっとりと撫で回し、ボルトの隙間に視線を落とし込んでいた。
「魔力炉の基部はデリケートな術式配線が走ってる。衝撃を伝えて断線させないように、綺麗に切り離してくれ」
アルドはさも当然のように、何年、あるいは何十年も泥と塩分に浸かって完全に癒着した鉄の塊を指差して言った。
ガレットは小さく息を吐き出す。
(言うのは簡単だが、この分厚い装甲板を、まるで薄皮を剥ぐように優しく切り離せってのか)
だが、文句は口に出さない。ここで「無理だ」と言えば、この無茶な技術者が自分で工具を持ち出し、最悪の場合、不手際で船体ごと崩落させかねないからだ。
ガレットは金属の継ぎ目と、親指ほどもあるボルトの腐食具合を黙ってねめ回し、腰の工具袋から最適な長さのバールとハンマーを無言で引き抜いた。
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ギギギギギィッ……!!
悲鳴のような金属音が、暗い船内に何度も響き渡る。
ガレットはただ力任せに鉄を叩き壊しているわけではない。錆びた鉄板の繊維のような「目」を読み、バールを差し込む最適な支点を探り当て、テコの原理で少しずつ癒着を剥がしていく。
ある程度隙間ができると、今度は手動ウィンチの出番だ。ガレットは崩落の危険がない頑丈な太い柱を見極め、そこにワイヤーを巻き付ける。対象の重心と、重力を最も効率よく分散する角度を計算して配置する。長年の荒野でのサバイバルで培われた、彼なりの物理法則との対話だった。
ウィンチのハンドルを回すたび、ワイヤーが限界まで張り詰め、ガレットの前腕の筋肉が岩のように隆起する。
「ふぅ……っ」
ガレットは手を止め、額から滴る汗を泥まみれの袖で拭った。ひんやりとした船内にもかかわらず、彼の体からは凄まじい熱気が立ち昇っている。
ワイヤー越しに伝わる馬鹿げた質量を肌で感じながら、ガレットは傍らで外した配線の保護作業をしているアルドに声をかけた。
「なあ、単に泥の上を進めるか試すだけなら、もっと小さくて軽い船体を造れば済む話だろ。なんでわざわざ、泥に沈むようなバカでかい魔力炉や装甲を掘り出してまで、『重い船』にこだわるんだ?」
アルドは手元の作業を止めなかった。ぼろ布で極細の魔力経路の端子を慎重に包み込みながら、事も無げに返す。
「ちょっと浮かんで遊ぶだけならそれでもいいさ。だが、ここは遮るものがない海だぞ。少しでも風が吹けば、この重い泥全体が山みたいにうねって押し寄せてくるんだ」
アルドが顎で、外に広がる灰色の外洋を示す。
「軽い船体じゃ、あの粘度の高いうねりに呑まれて一瞬でひっくり返る。第一、この泥の異常な抵抗をねじ伏せる大出力を出すには、企業連のバカでかい魔力炉を限界駆動させるしかない。こんな重い炉が軽いボートに積めると思うか? 限界制御を試すには、そもそもこの炉を積載できるだけの『重い船』が必要なんだよ」
ガレットはウィンチのハンドルから手を離し、忌々しそうに小さく鼻を鳴らした。
泥の波に潰されないための巨大なエンジン。そして、その巨大なエンジンを積んで沈まないための、巨大な船体。
理屈は通っている。あの灰色の海を乗りこなすための絶対条件として、ぐうの音も出ないほど正しい。だが、その正しさを証明するための途方もない肉体労働を、用心棒の筋肉一つで解決しようとするこの男の執念には、呆れを通り越して乾いた笑いすら込み上げてくる。
「……なるほどな。違いねえ」
ガレットは再びウィンチのハンドルを握り込み、全体重をかけて巻き上げた。ガチャン、と重いギアの音が一つ鳴り、強固な癒着がまた一つ、けたたましい音を立てて引き剥がされた。
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数時間が経過した。
灰色の光が差し込む廃船の外へ、巨大な魔力炉がゆっくりと引きずり出される。
ガレットの全身は鉛色の泥にまみれ、両腕はもはや自分の意志とは無関係に震えそうになるほど重かった。息を荒くして泥濘む足場に立ち尽くすが、肺に取り込む生ぬるい空気さえも心地よい。厄介な荒仕事をやり遂げた確かな疲労感が、全身の筋肉を熱く包み込んでいる。
同じく泥にまみれたアルドも、泥濘の上に鎮座するパーツの塊を見上げていた。
「完璧だ。これで最高の船が造れる」
その横顔には、新たな実験材料を手に入れた技術者としての、欲望を満たした深い笑みが刻まれている。
解体作業が終わり、ガレットは重いウィンチと工具袋を肩に担ぎ直して、グローブにこびりついた泥を忌々しげに払った。
「おい。帰ったらまずは熱いシャワーを浴びさせろ。……あと、温室のトマトがそろそろ色づく頃だ。誰かさんの泥遊びのせいで、あれの世話が遅れちゃ堪らねえからな」
アルドは泥だらけのパーツを見つめたまま、悪びれる様子もなく返す。
「ああ。うちの口の悪い精霊もどき様が、お前のためにボイラーを温めて待ってるはずさ」
ガレットは口角をわずかに上げると、オールド・ベルから延々と伸ばしてきた主牽引ワイヤーが、ジリジリと張り詰める音を聞いた。
遥か彼方、鉛色の海と荒野の境界に停泊している見慣れた巨大な多脚機。あそこには、ひねくれた合成音声が管理する、いつでも使える熱いシャワーがあり、自分の手で丹念に育てている野菜がある。
「……まあ、悪くない暮らしだ」
泥まみれの用心棒は誰にともなく小さくこぼし、パーツの横転を防ぐためのガイドワイヤーを肩に食い込ませた。
遠く離れたオールド・ベルの強大な動力が唸りを上げ、見上げるほどの鉄の塊が、ゆっくりと泥を掻き分けて進み始める。二人はその横で必死に姿勢制御の体重をかけながら、灰色の泥の上に深く、重い足跡を残して歩いていった。
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