第28話 灰の海
荒野を這うようなオールド・ベルの駆動音が、規則的な振動となって車内に響いている。
無骨な機内の壁面に寄りかかりながら、ガレットは窓の外を流れる単調な景色から視線を外し、呆れたように口を開いた。
「おい待て、海って……あの『灰の海』のことか?」
「灰の海以外にどこがあるんだよ」
操縦席で計器類を調整していたアルドは、手元の作業を止めずに平然と返す。
「あんな泥の海に行ってどうするんだ」
ガレットが眉間に皺を寄せ、その真意を問う。
「前にエネルギー変換研究所の湖で、ベルの物理モジュールをボートに繋いで操作させただろ。あの時から考えてたんだよ。ベルの演算能力を外部の機体に流用する『オリジナル機体』の制御ロジックをな」
アルドは振り返り、以前の強酸湖での出来事を引き合いに出す。彼の目には、修理屋としての日常業務とは違う、技術屋としての純粋な探究心が浮かんでいた。
「それがどうして灰の海に行くことに繋がるんだ」
いまいち要領を得ないといった様子のガレットに対し、アルドは作業台の上に広げた古書のページ――手に入れたばかりの『限界制御理論』の術式――を指で弾き、笑みを浮かべた。
「この『限界制御』とベルの演算を組み合わせれば、あの泥の抵抗すらねじ伏せる大出力のロジックが組めるはずだ。あそこは、そいつを試すのに打ってつけの場所だからさ」
『また水の上を走れるんですね! それはぜひ試さないといけません』
アルドの言葉に反応し、コンソールの奥からベルの合成音声が嬉々として響き渡った。限界出力を制御する快感を知ってしまった彼女は、アルドの悪巧みに完全に乗り気である。
「は? テストなら荒野でやれ」
即座に結託した一人と一機に対し、ガレットは呆れ果てて声を荒らげた。
「あそこは企業連のバカでかい船でさえ沈む泥の地獄だぞ。あんなもん、鉄クズの墓場だ。航路開拓局の連中が、旧大陸に眠る見えない利権を手に入れようと、進めないとわかっていても予算と最新の船を湯水のように注ぎ込んでは泥に沈め続けてる。俺たち傭兵の間じゃ『無謀な道楽』って笑い話になってる場所だぞ」
「だから面白いんじゃないか。あいつらの最新技術でも越えられない壁を、俺たちの手でぶち抜く」
アルドの揺るぎない眼差しと、コンソールでチカチカと明滅するベルのインジケーター。ガレットは深く長いため息をついた。
「……またお前らの実験に付き合わされるのか」
ガレットは首の後ろをボリボリと掻き、それ以上の反論を飲み込んだ。
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そこからの数日間に及ぶ単調な旅路の中、窓の外を流れる景色は徐々に生気を失っていった。
乾いた土の色は次第に赤黒い錆色へと変わり、時折見えていた枯れ草すらも完全に姿を消す。外の異常な湿度と重金属濃度をベルのセンサーが警告し始めた頃――オールド・ベルの多脚が、それまでの土とは違う、ぬちゃりとした粘質な地面を踏みしめて停止した。
機体の分厚い防弾ガラスの向こうに広がっていたのは、海という言葉から連想される青さとは無縁の、そして生命の息吹など微塵も感じさせない異様な光景だった。
波は、ひとつとして立っていない。
見渡す限りの地平線を埋め尽くしているのは、ぬらぬらと鈍く光る鉛色の汚泥だった。かつての大戦で流れ込んだ文明の灰、重金属、そして大量の魔導廃液が化学反応を起こし、途方もない年月をかけて蓄積した死のスープ。風が吹き抜けても表面がわずかに波打つだけで、水面特有の軽やかな飛沫は一切上がらない。世界そのものがそこで腐り落ちてしまったかのような、圧倒的な静寂と停滞感が支配している。
アルドは分厚いコートの襟を立て、ハッチを開けて外に出る。むっとした、金属が腐ったような重い匂いが暴力的に鼻を突いた。
彼は足元に転がっていた拳大の鉄のスクラップを拾い上げ、数歩先の鉛色の海面に向かって放り投げた。
ドチャッ。
鈍く、重苦しい音が響く。スクラップは水しぶきを上げることも、すぐに沈み込むこともなく、奇妙な粘性に弾き返されるように一瞬だけ留まった。やがて、目に見えない無数の手が引きずり込むように、泥がゆっくりと咀嚼しながらその塊を呑み込んでいく。
「見ろ。波ひとつ立たねえ」
後から降りてきたガレットが、その異様な光景を前に忌々しげに吐き捨てる。
「水じゃなく、泥と重金属のスープだ。俺たちの足も届かなきゃ、浮くことすらできねえぞ」
自力走破など物理的に不可能。それが、灰の海が突きつけてくる無言の絶望だった。
「ああ。見事なゴミの山だ」
アルドは無言でうなずき、沿岸部に視線を巡らせる。
泥の海との境界線である廃港跡には、無数の残骸が横たわっていた。風の力だけでこの粘性を掻き分けようとして泥に囚われた大昔の帆船や、無理に推力を出そうとして座礁し、そのまま乗り捨てられた企業連の巨大な調査船。どれも赤黒い錆に覆われ、まるで泥の海にすがりつく墓標のように見えた。
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「どうする? ここで引き返すか?」
試すようなガレットの問いに対し、アルドは企業連の調査船の残骸を指差し、口角を上げた。
「冗談だろ。俺だって勝算なしにこんな地獄までは来ないさ。これでも元・企業連勤めだからな。航路開拓局がどんなバカげたスペックの船を泥に沈めてきたのか、耳にしたことはある」
アルドは泥に半分埋もれた巨大な船体を値踏みするように見つめる。
「あいつらが捨てていった頑強な船体と、まだ生きている高出力のパーツ。あれをニコイチで組み上げればいい」
「船を造るってのか? その航路開拓局のバカげたスペックの船でも、泥の抵抗に負けたんだろうが」
呆れ顔のガレットをよそに、アルドは泥に半分埋もれた巨大な推進シャフトに歩み寄る。それは、ちょっとした建物ほどのサイズがある企業連の最新鋭船の残骸だった。これほどの質量と推力を誇るはずの金属が根本からねじ切れ、さらにその奥の機関部が異常な過熱によって内側から黒焦げになっているのを観察し、手の中で愛用のスパナを鳴らした。
「あいつらの船は自壊を防ぐための安全用のリミッターに縛られてるからだ」
技術屋としての知識が、残骸から過去の絶望の痕を読み解く。
「無理な負荷がかかれば、安全装置が働いて出力が落ちる。だから泥の粘性に勝てずに止まる。……まあ、本当はもっと複雑な構造なんだが、お前にわかるようにざっくり言えばそういう理屈だ。だが、ベルの演算処理能力と限界制御理論を組み合わせてそのリミッターを外し、泥をねじ伏せる大出力を流し込み続ければ……進む船が造れる」
理論上は可能だ、とアルドは断言する。それは、安全装置という概念を窓から投げ捨てる、狂気の沙汰とも言える綱渡りの目算だった。
それを聞いたガレットは、再び深いため息をつきながらも、ゴキリと太い首の骨を鳴らした。
「……なるほどな。諦める気がないってことはよくわかった。また泥だらけの荒仕事になりそうだな」
「まずは一番重要な、大型魔力炉を手に入れる。行くぞ」
オリジナル船の心臓部をサルベージするため、アルドとガレットは泥に半分埋もれ、薄暗く口を開けた廃船の奥深くへと足を踏み入れていった。
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