第27話 それぞれのコンパスが指す方へ
乾いた風が、分厚い帆布を縫い合わせた巨大なテント群を揺らして吹き抜けていく。
無数の車両と幌馬車が数珠繋ぎになった遊牧街は、荒野の厳しい日差しを遮るように停泊していた。重工都市のように空を黒く染める煤煙はなく、聞こえてくるのは意図的に出力を絞り切ったエンジンのくぐもった振動音ばかりだ。何もかもが機械を長持ちさせるために自制された、穏やかで、ひどく息の詰まるような景色だった。
アルドが直したばかりの修復本を抱え、トビーはその静かな生活の輪の中へと歩み去っていく。彼が自らインクで黒く塗りつぶした『適用外』のページは、もう二度と開かれることはない。
その実直な背中がテントの陰に消えるのを待っていたかのように、少し離れたスクラップの山の裏から小柄な影が姿を現した。
「……せっかくアルドが直したのに、わざわざ一番ブン回せるところを黒塗りにしてフタをするなんて、あいつ正気か?」
肩をすくめながら声をかけたのは、ルカだった。彼女はトビーが消えた方向を親指で指し、アルドへ同意を求めるように首を振る。
「さてな。俺はここの連中が何を考えていようが興味はない」
アルドはそっけなく返し、作業着のポケットに両手を突っ込んだ。
「出せる力があるのにわざと落とすなんて、オレには分かんねえな。荒野じゃあ、少しでも出力をケチった奴から順に、砂に飲まれて死ぬんだぜ? 使いこなす気が無いなら、最初から拾うなよな」
鼻を鳴らしたルカは、落ちていた鉄の棒切れを軽く蹴り飛ばした。
「オレなら、自分の感覚一つで1馬力も残さず使い倒してやるけどな。……アルドだって同じなんじゃないのか?」
煤で汚れた口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
アルドは黙ってルカを見下ろした。彼女の纏う、ギリギリを生き抜く危うい熱量。それは先ほど修復した『最初期の論理書』から漂っていた、あの時代の技術者たちの荒々しい息遣いにひどく似ていた。
安全のために出力を絞り、薄い息をして生きる遊牧街の大人たちよりも、この薄汚れた子供の方が、よほどあの分厚い論理書を正しく理解しているように見えた。
「……あいつらの生き方、俺たちには息苦しいよな」
アルドの口から、自然とシニカルな笑みがこぼれる。
そして傍らのガレットへと振り返った。
「なあ、ガレット。ここは空気が美味くない。もう十分だ。……ここから出て行こうと思うんだが、良いか?」
唐突な提案に、ガレットは微かに眉を動かしただけで、すぐに口角を片方だけ上げた。
「珍しいものは手に入るし、修復師の商売だって上手くいってたように見えたんだがな。……まあ、お前のガラクタが売れないんじゃしょうがねえか」
ガレットは小さく肩をすくめた。
同意を得たアルドは、再びルカへと向き直る。
「お前もどこか行きたいところがあるなら、乗せて行ってやるよ」
しかしルカは、アルドの提案に軽く笑って首を横に振った。
「あいつら頭は固えけど、世話になった義理もあるからな。もらった恩くらいは返しとくさ」
そう言い残すと、ルカは「またな、アルド、おっさん」と手をひらひらと振り、遊牧街のテント群へと背を向けた。
アルドは黙って分厚い金属ハッチを閉ざす。
数ヶ月を過ごした巨大なテントの列から離れるように、多脚の重い駆動音が荒野に響き渡る。オールド・ベルは再び、何もない荒野へと歩み出した。
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機内には、オールド・ベルの規則的な演算音が響いていた。
『マスターにしては頑張ったと思いますけど、やはりこらえ性が無いんでしょうね』
「そう言ってやるなよベル。アルドが頑張ってたのは見てただろ」
操縦桿を握るガレットが、ニヤニヤと笑いながら口を挟む。
『ええ、ですからマスターにしては頑張ったとは思いますよ。評価に値するかは別ですけど』
「お前ら、さっきから『頑張った』『頑張った』ってうるさいぞ。子供扱いするな」
悪びれない二人の連携に、アルドはわざとらしく顔をしかめる。
「子供扱いするなってな。『ここは空気が美味くない』とかカッコつけてたが、結局のところ、お前のわがままであの街から出てきただけじゃねえか」
ガレットが前を向いたまま肩を揺らして追撃する。図星を突かれたアルドは、少しだけバツの悪そうな顔でそっぽを向いた。
「……悪いとは俺も思ってるさ。だが、お前らだってあの窮屈な生活には納得してなかっただろ」
『ええ。マスターの暴走を管理するのは私の役目ですが、最初から限界を諦めている連中に合わせるのは退屈ですからね。……そろそろ、この辺で許してあげましょうか、ガレット』
「そうだな」
ガレットが同意するように短く笑うと、スピーカーから流れる合成音声が、どこか楽しげな響きを帯びた。
『とはいえ、あの論理書から読み込んだ最初期の『限界制御理論』は欠損のない完全な状態でした。これほど素晴らしい術式が手に入ったのですから、結果としては大金星ですね、マスター』
「そうだろ。安全マージンなんか一切取らず、過剰出力を限界までねじ伏せる。現代じゃ失われた最高の術式だ」
作業台の前に座るアルドは上機嫌に手元のスパナを軽く鳴らし、不敵にニヤリと笑う。
「知識ってのは、自分を縛るためじゃなく、限界まで使い倒すためにあるんだ」
「わかったわかった。……ところで、どこに向かうんだ? 当てはあるのか?」
前方のガレットが、呆れたような声で問いかける。
アルドは、まるで近所の散歩にでも行くような気軽さで答えた。
「丁度いい術式が手に入ったからな。前から試したいことがあったんだよな。海にでも行くか」
その言葉に、ガレットは無言で天を仰いだ。
深く、重いため息が一つ。ガレットは呆れたように、オールド・ベルの操縦桿を倒した。
次なる目的地への予感を漂わせながら、多脚の巨大な機体は再び、砂埃を上げて荒野を進んでいく。
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