第26話 私はこういうおとぎ話、結構好きですよ
幾重にも這い回る真鍮色の配管と、明滅する無数の計器類。
オールド・ベル機内の工作室は、古い機械油の匂いと乾いた紙の埃の匂いが常に立ち込めている。外の遊牧街に響く息も絶え絶えな駆動音とは対極にある、巨大な魔力炉が発する力強く安定した鼓動。その重低音は、分厚い装甲の内側を心地よいノイズの海へと変えていた。
騒がしくも規則的なその空間の中央。手元灯の薄暗い光だけが落ちる作業台に向かい、アルドはただひたすらに没頭していた。
彼の視線の先にあるのは、もはや石のブロックのように癒着した紙の塊だ。
アルドはピンセットの先を微塵も震えさせることなく、崩れかけた紙の繊維をミリ単位で拾い上げている。腐食した紙の隙間に極細の注射針を滑り込ませ、特殊な魔導インクを慎重に流し込む。紙の繊維がインクの成分と反応してわずかに柔らかくなった瞬間を見計らい、一枚ずつページを剥離し、剥がれた端から定着スプレーを吹き付けていく。瞬きすら忘れたかのように、ただ指先だけを正確に動かし続ける。
修復の過程で、アルドの目は自然とその紙面に記された文字や数式を追っていた。
(……美しいな)
煤にまみれた紙片から浮かび上がってきたのは、現代の遊牧街で使われているようなどんくさい安全策など微塵もない、極限の配列だった。安全限界マージンを意図的に削り落とし、出力を限界のその先まで引き出すための純粋で無駄のない限界制御理論。大戦期の技術者たちが、自らの腕を信じ抜いて組み上げた、暴力的なまでに美しい数式の羅列だった。
数時間後。アルドは最後のページに定着液を吹き付け、深く息を吐き出した。凝り固まった首の筋を鳴らし、満足げに手記の仕上がりを確認する。
だが、修復師としての仕事はこれで終わりではない。
休む間もなく新しい羊皮紙の束を引き寄せると、インク壺にペンを突っ込み、修復したばかりの美しいロジックを自らの手で猛烈な速度で書き写していく。他人の思想や歴史そのものには興味がないアルドだが、紙に刻まれた『文字の記録』を失わせることだけは、修復師としての本能が許さなかった。
完成した分厚い写本を抱え、アルドは機内の奥にある書庫の扉を開けると、そこへ無造作に放り込んだ。
ガコン、と重厚な扉が閉まる。直後、機内の至る所に組み込まれた微小な歯車が一斉に回転音を立て、オールド・ベルによるスキャンと解析が始まった。
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『ああ……なんて残酷で、美しい矛盾なのでしょう』
やがて、頭上から降ってきた合成音声は、いつもの機械的なノイズが消え、ひどく艶を帯びていた。
「何がだ。また、いつもの面倒な仕様か」
『この手記に記された、あまりにも純粋な限界制御のロジックと……外の連中が掲げる、出力を絞るルールという教義のことです。以前、マスターが修復して私が読み込んだ、この街の古い日記群と照合したところ、ひとつの物語が浮かび上がりました』
オールド・ベルの機内灯が、まるでうっとりとした吐息のようにゆっくりと明滅を繰り返す。彼女はおとぎ話を読み聞かせるような口調で、歴史の真実を語り出した。
『昔々のことでした。あるところに、制御と出力の限界を求めて果てしない荒野を旅する、誇り高き技術者たちの一団がいました。彼らはこの手記にあるような美しく純粋なロジックを操り、誰も見たことのない景色を夢見ていたのです』
アルドはペンを置き、作業台に肘をついて天井のスピーカーを見上げた。
『しかし、荒野は過酷でした。限界を攻める機材は激しく摩耗し、やがて炉の暴走によって一人、また一人と死者が倒れていきました。夢見る技術者たちは現実を知り、生き延びるための妥協として……出力を抑える、哀しい安全策を取るようになったのです』
「……なるほどな」
『ええ。しかし皮肉なことに、その安全策によって彼らの移動生活は安定しました。すると今度は、都市の底辺労働に見切りをつけた流民や放浪者たちが、その豊かさに惹かれて次々と群れに合流し始めたのです。それが今の遊牧街の始まりでした』
そこで一度言葉を切ったベルのスピーカーから、甘く熱を帯びたノイズが、艶めかしい吐息のように漏れ出した。
『大勢の非技術者が混ざり合い、過酷な移動生活の中で世代が代わるにつれ、かつての高度な技術も、安全策の理由すらも忘れ去られました。残されたのは「出力を出すと人が死ぬ」という結果だけ。いつしかそれは、「出力を出すこと自体が悪である」という恐ろしい教義へと姿を変えてしまったのです……』
合成音声が、深い感嘆の余韻を残して響く。
『生き残るための苦肉のパッチが、いつの間にか絶対のルールとして誤読され、今の彼らの首を絞めているだなんて。ああ……なんという皮肉で、残酷なおとぎ話なのでしょう』
「ただのバグだな」
アルドは口の端を吊り上げて皮肉げに笑った。
「妥協の産物が、時を経て神聖な教義にすり替わる……なんとも人間らしくて滑稽な歴史だ」
『彼らに、その歴史の真実を説いてあげる気は?』
「バカバカしい。他人の思想なんざ、俺の知ったことか」
アルドは冷たく吐き捨てた。
『では、なぜわざわざ彼らの手記を完璧に修復してあげたのですか?』
「ただの好奇心だ。純粋な記録が風化して消えるのが我慢ならなかっただけさ。外の連中がどんな勘違いの中で生きようが、勝手にさせておけばいい」
修復を終えた原本の手記を厚手の布で包み終えた、ちょうどその時だった。
外から、遠慮がちに分厚いハッチを叩く音が響く。
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「ほら、直ったぞ。インクが完全に乾くまではページを強く擦るな」
ハッチを開け、強風の吹く機外へ出たアルドは、受け取りにやってきたトビーの胸に布包みを押し付けた。
「あ、ありがとうございます……! まさか、あの石の塊みたいな状態から本当に直るなんて」
トビーは弾むような手つきで布をめくり、真新しい状態に戻った先代の手記を開いた。
だが、修復された鮮明なページを目で追った瞬間、彼から喜びの表情がすっぽりと抜け落ちた。
スッと血の気が引き、大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るように紙面の上を右往左往する。やがて、本を持つ彼の手がカタカタと震え出した。
「こんな……限界まで出力を引き上げるパラメータ……安全マージンすら一つもないなんて……」
トビーは恐怖に引き攣った声で呟く。
「こんな暴力的な制御ロジック、あり得ない。これじゃあ一瞬で暴走して、すべてが壊れてしまう……!」
彼は慌てたように懐を探り、黒いインクの小瓶と太いペンを取り出した。
そして、アルドが数時間かけてミリ単位で完璧に修復したばかりの美しいロジックの上に、一切の躊躇なく太い黒線を引いていく。
「ここは適用外……これも、危険すぎる……先代たちは、こんな恐ろしい悪魔の記述に惑わされていたのか……」
荒い呼吸を繰り返しながら、トビーは震える手で次々とページに太い黒線を引いていく。
数時間かけて取り戻された美しく緻密な数式の群れが、ひどく安っぽいインクの染みに呑み込まれ、再び永遠の暗闇へと塗り潰されていく。
ペン先が紙を削る不快な摩擦音だけが、風の音に混じって虚しく響いていた。
しかし、アルドはそれを止めることも、歴史の真実を突きつけることもしなかった。ただ無言で腕を組んだまま、オールド・ベルの巨大な装甲に背中を預け、目の前で行われる異様な封印作業を冷ややかに見届けるだけだ。
やがて、危険と判断した箇所をすべて塗りつぶし終えたトビーは、まるで大仕事でも終えたかのように深く息を吐き、額の汗を拭った。そして、アルドに向かって約束の報酬である物資の袋を差し出した。
「ありがとうございました、アルドさん。これで、安全な記録だけを後世に残せます」
「……ああ。毎度あり」
晴れやかな顔で笑うトビーは、真っ黒に汚れた手記を大切そうに抱え、砂埃の舞うキャラバンの列へと帰っていった。
見送るアルドの手には、彼が置いていった僅かな物資の袋だけが残されている。
吹き荒れる乾いた風の中、アルドは踵を返し、再び厚いハッチの奥――純粋な論理だけが眠る自分だけの書斎へと静かに姿を消した。
その一連のやり取りと、トビーの自制の行動、そしてアルドの無言の態度を。
少し離れたスクラップの山の陰で、ルカが腕を組みながらじっと見つめていた。
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