第3話 修復師と踊る
錆荒野の空は、今日も重苦しい鉛色に沈んでいた。
風が唸りを上げるたび、微細な鉄粉を孕んだ砂塵――通称『錆嵐』が、波のように押し寄せてくる。かつての大戦で砕け散った兵器の残骸が、長い年月をかけて風化した死の灰だ。何かに遮られることのない荒野では、この砂塵こそが旅人の命を削る最大の刃となる。
そんな過酷な不整地を、移動書斎『オールド・ベル』は一定のテンポで歩みを進めていた。外装の装甲板を砂粒が叩くパラパラという無機質な音が絶え間なく響き、巨大な多脚が岩盤を踏み砕く重低音が空気を震わせている。
しかし、機内の居住区画は奇跡的なほど平穏だった。テーブルに置かれたティーカップの水面すら揺れていない。
とはいえ、外装の物理的な汚れはどうしようもない。
「これじゃ、ろくに前が見えねえな」
分厚い鉄扉が開き、防塵コートと分厚いゴーグルを身につけたガレットが機内へと戻ってきた。命綱のフックを外し、真っ黒に汚れた布切れをバケツに放り込む。彼は手作業で、分厚いガラス窓や排気口にこびりついた鉄粉を拭い落としてきたのだ。
「しかし、外であれだけ足場が悪くても、機内はほとんど揺れねえな。相変わらず大したもんだ」
ガレットが感心したように言うと、作業机に座っていたアルドが、スパナを手にしたまま得意げに鼻を鳴らした。
「オールド・ベルの演算能力を舐めるな。岩盤の凹凸や傾斜を秒間数千回の演算で予測し、無数の脚のサスペンションを独立制御させてる。だから居住区は常に完全な水平が保たれるんだ」
「なるほどな。つまり、アルドじゃなくてベルが凄いってことだ」
からかうようなガレットの言葉に、アルドは何か言い返そうと口を開きかけたが、結局忌々しげに手元のスパナを鳴らすにとどめた。
不満げに黙り込んだアルドをよそに、ガレットはコートの砂を払いながら、労うように天井の集音マイクに向かって声をかけた。
「まあいいさ。だが外の汚れは酷い有様だぜ。関節部のギアに砂が噛まないよう、後でこまめに特製オイルを注してやらないとな」
『ご配慮に感謝いたします、ガレット。ですが、現状の砂塵濃度であれば、各部シーリングはあと40時間は持ちこたえます』
「そういう問題じゃねえよ。手入れは早めにして損はねえんだ」
合成音声の冷たい返答に肩をすくめつつ、ガレットは濡れたタオルで顔の汚れを拭った。
アルドは油まみれのウエスで手を拭いながら、立ち上がった。
「それにしても、人間がいちいち外に出て窓を拭くなど、ひどく非効率だな。なら、飛んでくる砂粒を機体の多脚で全部『回避』すれば汚れないはずだ。今すぐ歩行制御のシリンダーに、超精密な予測回避の論理コードを直接刻み込んで上書きしよう」
その唐突な提案に、ガレットは目を丸くした。
「おいおい……精霊だっけか? 機械に宿って動かしてるよく分からねえモンに、そんな曲芸みたいなことさせられるのか?」
「前にも説明しただろ? 世間が『精霊』と呼んでありがたがっているものは、元々大戦時の兵器を制御していたソフトウェアの俗称に過ぎない」
アルドはガレットの素朴な疑問を一蹴し、迷うことなく立ち上がった。
「中身は空っぽの演算領域だ。ただの物理的な回路の書き換えで、新しい動作を定義してやるだけのこと。センサーの感度を限界まで上げ、全方位から飛来する砂粒の軌道を演算して、機体が当たらない位置へ脚を動かし続ければいい」
彼はスパナで床下の制御盤の分厚いカバーを乱暴に開けた。むわっとした熱気とともに、油と蒸気の匂いが立ち昇る。
アルドは特殊な魔導インクが入った小瓶を取り出すと、鈍く光る歩行制御シリンダーの表面に、躊躇なく新たな術式を描き込み始めた。細かな歯車と蒸気の管が入り組む隙間を縫うように、彼の指先が、異常なほどの正確さと速度で複雑な幾何学模様を紡ぎ出していく。
---
数分後。
ガタッ、と。これまで完璧な静寂を保っていたリビングの床が、唐突に斜めへ傾いた。
「……おい、なんだ!?」
ガレットが壁に手をついて身構えた瞬間、オールド・ベルの巨体が常軌を逸した動きを始めた。
ズダンッ、ダダンッ、ダンッ!
まるでタップダンスを踊るかのように、あるいは反復横跳びをするかのように、数トンもの巨体が左右へ高速でステップを踏み始めたのだ。
アルドの論理コードは、文字通り『完璧すぎた』。飛来する数万の砂粒を一つ残らず演算し、そのすべてを回避しようとした結果、移動書斎としての居住性を完全に無視した超高速の乱数機動が引き起こされたのである。
「馬鹿野郎、カップが落ちるぞ! おい、この中は魔法で広げた別の空間なんじゃなかったのか!? なんで外みたいに揺れてやがる!」
ガレットがテーブルにしがみつきながら叫ぶ。
「当然だ! 位相拡張の術式は、オールド・ベルの安定した水平姿勢をアンカーにして空間を維持してるんだ!」
アルド自身も予想外の揺れに耐えきれず、制御盤の縁にしがみつきながら悲鳴を上げた。
「本体がここまで激しく揺さぶられたら、空間の繋ぎ目が破綻する! このままだと書庫の二階部分が崩落して、俺の貴重な初版本コレクションが物理的に押し潰されるぞ!」
「お前の本より俺の温室のトマトを心配しろ!」
『マスター。私が踊り子に見えますか?』
部屋全体に、ひときわ冷ややかな合成音声が響き渡った。
「待て、ベル! 計算上は完璧なはずだ、あと少しで処理が追いつくから……!」
『機体フレームの著しい損耗、および位相拡張空間の崩壊リスクを検知。非効率な自滅行為と判定し、当該術式を強制初期化します』
バチィッ! という鋭い破裂音とともに、床下のシリンダーから青白い火花が散った。
ベルが内部から意図的な魔力ショートを起こし、アルドが書き込んだばかりの魔導インクを強引に焼き切ったのだ。焦げ臭い煙とオゾンの匂いがわずかに上がり、機体の狂ったようなステップがぴたりと止まる。
空間のひずみのような嫌な軋み音も消え、再び、いつものどっしりとした重厚な足跡を刻む歩行へと戻った。
『あんな非効率な回避運動を続ければ、関節部が5分で焼き付き、位相空間は8分で圧壊します。焦げ付いたシリンダーは、後でご自身の手できちんと清掃・修復しておいてくださいね』
ひときわ冷たく言い放つベルの声に、アルドは黒く焦げたシリンダーを見つめながら口を尖らせた。
「コードの処理速度は足りてたはずなのに……。機体側のハードウェア性能が追いつかないなんて」
「精霊をこき使おうとするからバチが当たったんだ」
ガレットが鼻で笑いながら、再び分厚いコートを羽織る。
「ほら、お前はさっさとその焦げ跡を掃除しろ。俺は地道に窓を拭いてくる」
そう言ってガレットは再び命綱を手に取り、鉄扉を開けて機外へと出て行った。
---
しばらくして。
ガレットの手作業によって、リビングの窓ガラスを覆っていた泥と鉄粉が綺麗に拭き取られた。
重苦しい灰色の雲の切れ間から、わずかな光が差し込んでくる。
「……おい、アルド。見ろ」
外から戻ってきたガレットが、窓の向こうを指さした。
拭き上げられたガラス越しに広がる、果てしない錆荒野の地平線。その先に、天を突くような巨大な人工物のシルエットが、ぼんやりと浮かび上がっていた。
大戦時の遺構――目的の観測所だった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「続きが気になる!」「この関係性が好き」と思ってくださった方は、ぜひ広告下部にある【ブックマークに追加】や、下部の【ポイント評価(★をタップ)】で応援していただけると嬉しいです!




