第15話 おとなしくお留守番しているんですから、暇つぶしくらい許されますよね
ジャックは岩陰から双眼鏡を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
二つの人影が、多脚歩行機の昇降リフトを降りて廃炭鉱街の方角へと歩き出す。大柄な男が買い出し用の特大の空袋をいくつも肩に引っ掛け、隣の痩身の技師が面倒くさそうに後をついていく。
昨日の接触で、彼らがこの街に数日しか滞在しないことは聞き出している。ジャンク屋に大量の資材を売り払っていたことから推測するに、過酷な探索から帰還した直後なのだろう。あの空袋の数を見る限り、今日は部品屋から食料品店まで街中を練り歩く大掛かりな物資補充になるはずだ。機体までの往復も含めれば、最低でも二時間は戻ってこない。
二つの人影が砂塵の向こうに完全に消えるまで、ジャックは微動だにしなかった。
それから更に10分。
(……よし)
ジャックは革手袋をはめ直し、岩陰から身を起こした。
巨大な多脚歩行機が、荒野のドックに静かに佇んでいる。無骨な装甲と、大地に食い込んだ歩行ギアの深い足跡。外から見る限り、何の変哲もない鉄くずの塊だ。
ハッチの前に立つ。
厳重な物理ロックが二重にかけられていた。まあ、当然だ。こんな荒野に機体を置いて出かけるなら、鍵をかけない方がどうかしている。
ジャックはコートの裏からピッキングツールの一式を取り出した。耳を装甲に押し当て、歯車とシリンダーの噛み合わせを音と指先の振動だけで読んでいく。一つ目のロックが外れる。二つ目。これは少し癖がある──いや、拍子抜けするほど素直だった。
(……随分と開けやすいな)
あまりにも手応えが軽すぎる。だが、これだけ古い外装の機体なら、内側のシリンダーが摩耗していても不思議ではない。
ジャックは微かな違和感を振り払い、分厚いハッチをゆっくりと押し開けた。
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薄暗い機内に足を踏み入れる。
そして、ジャックの全身が凍りついた。
「──は?」
声が勝手に漏れた。
小汚い装甲の内側に広がっていたのは、狭苦しいキャンピングカーの居住区でも、油まみれの機関室でもなかった。
上質なダークウォールナットの板張りの床。高い天井から下がる真鍮のランタン。磨き込まれた手すりが伸びる廊下の奥に、幾つもの扉が並んでいる。
小さな洋館の──エントランスホールだった。
ジャックは無意識のうちに一歩後退り、自分が入ってきたハッチを振り返った。外は間違いなく、錆びた装甲板と荒野の岩盤だ。振り向けば、洋館。
(……何だこりゃ。夢でも見てるのか?)
頬をつねる代わりに、靴底で床を踏み鳴らした。硬質な木材の、確かな感触が返ってくる。空気の匂いも違う。外の乾いた砂塵ではなく、古い木材と、かすかに甘い花の香り。
現実だ。
ジャックは武装に手をかけたまま、廊下の奥へと慎重に足を進めた。
最初に開けた扉の向こうは、キッチンだった。使い込まれた鋳鉄のストーブに、壁に掛けられたフライパンやレードル。乾燥ハーブの束が天井から吊るされ、調味料の瓶が棚に整然と並んでいる。まな板には包丁の跡が無数に刻まれていた。
ここで誰かが、毎日飯を作っている。確かな生活の痕跡が染みついた空間だった。
次の扉を開ける。
むわり、と湿った温かい空気が頬を撫でた。
温室だった。ガラスの天蓋の下で、トマトの苗が支柱に沿って青々と伸びている。隅にはハーブのプランターが並び、壁際には丁寧に手入れされた盆栽のような小さな木まであった。
(……鉄くずの中に、畑?)
ジャックの足取りが速くなっていた。警戒心より好奇心が前に出始めている。自分でもそれは分かっていたが、抑えが利かなかった。
そして──工作室の扉を開けた瞬間、ジャックの思考は完全に決壊した。
作業台の上に、アルドのガラクタが山積みになっていた。
先日、機体の外で木箱一つ分だけ見せてもらった、あの常軌を逸した精度の魔導具たち。それが、部屋の壁面を埋め尽くすほどの量で棚に並び、床にも溢れ、作業台の上にも無造作に転がっている。
ジャックの呼吸が荒くなる。手が震えた。
棚の一段一段を食い入るように見つめていく。
(……なんだこの歯車の噛み合わせは。ただの湯沸かし器のくせに、なんで三段階の圧力調整弁なんか組んでやがる……!)
用途不明の回転体に、無駄に複雑な排熱フィンを備えたシリンダー。どれもこれも実用性など欠片もなく、完全に目的と手段が逆転している。
ジャックはたまらず、喉の奥で歓喜の呻きを噛み殺した。
そして──部屋の奥。作業台の下に、無造作に横たえられた巨大な基盤が目に入った瞬間、ジャックの心臓が跳ね上がった。
(……まさか)
膝をつき、基盤の縁を確認する。
そこには雷鳴の谷の研究施設を示す管理刻印と、備品特有のシリアルナンバーが並んで打刻されていた。事前の調査で脳裏に焼き付けておいた情報と寸分違わない。
(これだ。これが、依頼の品だ)
あり得ない空間の異常さ。壁一面の宝の山。そして目の前に転がる依頼の本命。ジャックの頭の中で、プロとしての冷静な計算と、蒐集家としての昂揚と、空間の物理法則を無視された恐怖が、三つ巴で渦を巻いていた。
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ジャックは巨大な論理基盤の縁に手をかけ、歯を食いしばって持ち上げた。
数十キロはある。両腕が軋む。だが、今この瞬間に出口まで運び出してしまえば、任務は終わる。あの凄腕の用心棒と機内で撃ち合いになり、この愛すべきガラクタの山を吹き飛ばす羽目になるのだけは御免だった。
(出口は──こっちだ)
基盤を抱えたまま、記憶を頼りに廊下を急ぐ。だが、温室を抜けたはずの通路が、キッチンに繋がっていない。見覚えのない扉が並んでいる。
(おかしい。さっきはこの角を曲がれば──)
方向感覚が狂っている。異常な空間構成と、両腕の重みと、まだ収まらない動悸が、冷静な判断を根こそぎ奪っていた。
ジャックは目の前の扉を蹴り開けた。
そして、足が止まった。
エントランスではなかった。
見上げるほどの高さの書架が、左右に延々と続いている。天井は闇に溶けて見えない。革装の背表紙が壁面を埋め尽くし、真鍮の梯子が何本も架けられ、上へ上へと際限なく伸びていた。
巨大な書庫の──最奥だった。出口からもっとも遠い、行き止まり。
その時だった。
『おや』
静まり返った書庫の空気を、慇懃無礼な合成音声が切り裂いた。
『当機の見学ツアーはいかがでしたか?』
ジャックの背筋を、氷の指で撫でるような悪寒が走り抜けた。
声はどこから聞こえているのか分からない。天井からか、壁からか、書架の隙間からか。まるで空間そのものが喋っているかのように、四方八方から等しい距離で響いてくる。
『あんな簡単な入口のロックに手間取っていらしたので、思わず内側から開けて差し上げましたよ。手際の悪いお客様』
ロックが開けられたのは、自分の腕じゃない。その事実が、一瞬で脳髄を貫いた。
『それに、当機自慢の大書庫を見ないでお帰りになりそうでしたから。こちらへ続くように廊下も繋ぎ変えておきました』
泳がされていたのだ。最初から。入口のロックを解除した瞬間から、この行き止まりに辿り着くまでの全てが──。
ジャックは基盤を床に叩きつけるように放り出し、出口へ向かって反転した。
だが、駆け出そうとした彼の目の前で、重い金属音が響く。たった今くぐり抜けてきたはずの扉が、文字通り壁の一部へとスライドし、跡形もなく消え去った。
ジャックは完全に密室となった書庫の中で立ち尽くした。周囲は天井まで届く本棚と、逃げ場のない鋼鉄の壁。
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腰の銃を抜き、周囲の空間を睨みつける。
次の瞬間、足元の床板が唸りを上げた。
真鍮の歯車が回転し、床の隙間から太いワイヤーが蛇のように飛び出す。同時に、壁面の配管が弾け、高圧の蒸気が噴き出した。視界が白く染まる。
ジャックは反射的に横へ跳んだ。背中すれすれを、巨大な書架の暗がりから伸びた無骨なロボットアームの鉄爪が掠めていく。
(速い──)
二撃目。本棚の隙間から。三撃目。床から。四撃目は、逃げた先の背後の壁から。
読まれている。すべての動線が、完璧に予測されている。
ジャックが右へ跳べば右の書架からアームが伸び、左へ転がれば左の床板が割れてワイヤーが噴き出す。空間そのものが敵だった。この書庫のすべての壁、すべての床、すべての本棚が、一つの意志で制御されている。
五撃目の太いワイヤーが右足首に巻きつき、六撃目のアームが銃を握った手首を正確に捕らえた。ピッキングツールが床に弾かれて転がる。
あっけなかった。
両手両足を太いワイヤーで床の固定具に繋がれ、ジャックは仰向けに大の字で拘束された。胴体にも追加のワイヤーが巻かれ、指一本動かす余裕もない。
『そのまま圧死させる方が早いのですが、後でマスターに「血の掃除が面倒だ」と文句を言われるでしょうから』
頭上から降ってくる合成音声は、心底面倒くさそうだった。
『おかげで、生かしたまま無力化する無駄な演算に手間がかかりましたよ』
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天井から、工作用の細いロボットアームが一本、するりと降りてきた。
先端に取り付けられた精密ドリルが、ジャックの顔の真上で、チリチリと鋭い回転音を上げる。
『さて』
合成音声のトーンが、明らかに変わった。
先ほどまでの面倒くさそうな嫌味から一転、弾むような──楽しんでいるとしか形容しようのない声色に。
『不法侵入の目的を吐いていただきましょうか』
ドリルの先端が、ジャックの鼻先まで降りてくる。金属の回転音が、鼓膜のすぐそばで唸る。
『……あなたが先ほどまで大事そうに抱えていた、あの古臭い論理基盤を入手することが目的でしょうか?』
書庫に転がったままの巨大基盤を指し示すように、壁面のランタンが一つだけ明るく灯った。
ジャックは歯を食いしばった。答えない。
『おや、黙秘ですか。結構です』
天井から、さらに二本のアームが降りてきた。一本はメスのような薄い刃を、もう一本は万力のような把持器具を先端に備えている。三本のアームがジャックの顔の周囲に集まり、まるで外科医の手術用ライトのように等間隔で配置された。
『吐かなくても構いませんよ。当機は、お体に直接お伺いする方が得意ですので』
ドリルが、威嚇するように短い駆動音を鳴らす。メスが、ランタンの光を反射して鈍く光る。万力が、空を掴むように開閉を繰り返す。
三つの凶器が、ジャックの頭上で陽気に踊っていた。
この声の主は、今、間違いなく楽しんでいる。久しぶりの玩具を与えられた子供のように、心の底から。
(……まずいな、こいつは)
ジャックの額を、冷たい汗が伝い落ちた。交渉の糸口を探る。だが、相手の姿が見えない。声だけが、空間のどこからともなく降ってくる。まるで、この書庫のすべてがこいつの体であるかのような錯覚。交渉のテーブルにつく以前の問題だった。
『まず左腕から始めましょうか。マスターが帰ってくるまでには、まだたっぷり時間がありますから──』
メスの先端が、ジャックのコートの袖口に触れた。
その瞬間だった。
「──おいベル、ハッチのロックが開かねえぞ。何かエラーでも出たか?」
間の抜けた男の声が、機内のスピーカーから響いた。
三本のアームが、ぴたりと動きを止めた。
通信機越しの、アルドの声だった。
「アルド、これ内側から物理ロック掛かってないか」
続いて聞こえたのは、低くしゃがれたガレットの声だった。呆れたようなため息が混じっている。
「おいベル、聞こえてんだろ。また留守番させたからって拗ねてんのか。約束通り、お土産は買ってきてやったぞ。とびきり極上の魔導オイルだ。だから早く開けてくれ」
『…………』
スピーカーの奥から、深い──それはもう深い、沈黙が流れた。
ジャックの左腕を狙っていたメスの刃が、微かに、未練がましく震える。
だが数秒後。
機内のすべてのロックが一斉に解除される、重厚な金属音が響き渡った。三本の凶器は、先ほどまでの優雅な動きとは打って変わった猛スピードで、逃げるように天井の暗がりへと引き上げられていった。
エントランスのハッチが開く音がした。
重い足音が二つ、廊下を歩いて近づいてくる。やがて、書庫の扉が開いた。
「ただいまー。……なんだ、ベル、今日は妙に静か──」
ガレットの声が途切れた。
特上のオイルの缶と食材の袋を両手に提げたガレットと、その後ろから顔を出したアルドが、書庫の床で簀巻きのように転がっている男を見下ろしている。
ワイヤーで雁字搦めに拘束された「数日前に市場で絡んできた変なファン」が、仰向けのまま、二人と目を合わせた。
沈黙が、数秒。
「…………よう」
ジャックが、引きつった笑みを浮かべた。
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