第2話『君に伝えたかったこと』
『婚約者のレティシア・ヴァレンティアは十八歳で悪役令嬢となり処刑される』
――運命の書には、そう記されていた。
◇
婚約破棄から三ヶ月。
私は辺境伯領の小さな図書館で働いていた。
「先生ーー!」
「本読んで!」
「この字、なんて読むの?」
子供達が今日も元気に駆け寄ってくる。
「順番です」
そう言うと、不満そうな声が上がる。
けれど少しすると、皆きちんと列へ並んだ。
私は思わず笑う。
王都では、私は王太子妃候補だった。
感情を出してはならない。
完璧でなければならない。
そう教えられて育った。
けれどここでは違う。
子供達は失敗した私を笑わない。
ただ「先生」と呼んでくれる。
王都では知らなかった。
ありのままの私を必要とされている喜びだった。
「レティシア様のおかげですよ」
老婦人が微笑んだ。
「孫が本を読むようになりましてね」
「ありがとうございます」
感謝の言葉。
穏やかな日々。
婚約破棄されたあの日には想像もできなかった暮らしだった。
けれど……
夕暮れになると。
私は決まって窓の外を見る。
西の空。
王都がある方向を――
◇
部屋の中。
「静かな夜……」
私は引き出しを開けた。
中には青い髪飾り。
十五歳の誕生日にティベルトがくれたものだ――
『似合うと思った。いや、違う。その……受け取ってくれ』
耳まで真っ赤にしていた。
今思えば笑ってしまう。
「……本当に不器用だったわね」
小さく笑う。
だが。
笑みはすぐに消えた。
婚約は終わった。
彼は私を捨てた。
それが事実だ。
そう何度も言い聞かせてきた。
なのに。
どうして忘れられないのだろう。
婚約破棄の日。
最後に見た彼の顔が脳裏をよぎる。
血の気のない顔。
苦しそうな呼吸。
そして。
『よかった……君は、生きろ――』
あの言葉。
まるで。
別れの言葉のようだった。
今さら思い出しても意味はない……
それでも私は髪飾りを引き出しへ戻せなかった。
◇
翌日。
一台の馬車が図書館の前で止まった。
王家の紋章。
それを見た瞬間――
嫌な予感が走った。
胸がざわつく。
馬車から降りてきた従者は、木箱を抱えていた。
「レティシア様へ」
差し出された箱。
王家の封蝋。
私は思わず息を呑む。
婚約破棄以来。
初めて届いた王都からの贈り物だった。
「誰からですか?」
掠れた声で尋ねる。
従者は少しだけ目を伏せた。
そして静かに答える。
「王太子殿下より」
心臓が大きく跳ねた。
ティベルト。
その名前だけで胸が苦しくなる。
なぜ今さら。
婚約は終わったはずなのに。
私は震える指で箱に触れた。
その時だった。
「それと」
従者が封筒を差し出す。
「こちらも預かっております」
私は受け取った。
見慣れた筆跡。
ティベルトの字だった。
だが。
違和感があった。
文字が乱れている。
線が歪んでいる。
まるで。
見えないまま書いたような文字だった。
嫌な予感が膨らむ。
「殿下はもう文字が読めません。ほとんど目が――」
「そ、そんな……一体、殿下に何が」
思わず尋ねる。
従者は答えない。
苦しそうに唇を噛む。
「お願いです。教えてください……」
私が重ねて問うと。
従者は震える声で言った。
「私も詳しくは存じません。ただ……」
そこで言葉を止める。
目を伏せる。
そして――
今にも泣きそうな顔で続けた。
「王都では皆、覚悟しております」
背筋が冷えた。
……覚悟?
「どういう意味ですか」
返事はなかった。
従者は深く頭を下げる。
それだけだった。
私は箱を抱えたまま立ち尽くす。
開けるべきなのに。
開けるのが怖い。
この箱の中には。
知ってしまえば二度と戻れない何かが入っている気がしていた。
その時――
箱の隙間から一枚の紙が滑り落ちた。
私は反射的に拾い上げる。
そこには震えた手で文字が書き記されていた。
『十八歳の誕生日おめでとう』
『もし君がこれを読んでいるなら――』
『私の命は、もう長くない』
あの日……
あの人は本当に――死ぬ覚悟だったのだ。
心臓を震えさせながら続きを読む。
『だから最後に一つだけ謝らせてほしい』
『婚約破棄の日』
『君が泣かなかった時』
『少しだけ安心した』
『これで君は強く生きてくれると思ったから』
『でも、ごめん』
『君に嫌われたことだけは』
『ずっと怖かった』
『だから、最後の最後に手紙を書きました』
箱が手から滑り落ちた。
私は理解してしまった。
ティベルトは私を捨てたのではない。
私に嫌われることを選んだのだ――
まだ開いていない箱の中には、殿下が残したものが入っている。
私へ遺したものが。
涙で視界が滲む。
その時だった。
箱の内側に貼られた一枚の紙が目に入った。
震える指で剥がす。
『君が生きていてくれるなら』
『嫌われたまま死んでも構わない』
私は息を呑んだ。
その文字は途中から滲んでいた。
まるで涙で書かれたように。
そして最後に。
『でも、本当は』
『君に伝えたいことがあったんだ』
そこで文章は終わっていた。




