第1話『婚約破棄した王太子が血を吐いた』
婚約破棄されたその日。
私は知らなかった。
王太子ティベルトが――私を生かすために死のうとしていたことを。
◇
「本日をもって――」
そこでティベルトが咳き込んだ。
白い手袋が赤く染まる。
だが彼は誰にも見せないよう握り潰した。
「レティシア・ヴァレンティアとの婚約を破棄する」
王城の大広間に声が響いた。
ざわめきは起きなかった。
歓声もない。
誰も喜んでいなかった。
私はゆっくりと顔を上げる。
玉座の前に立つ王太子ティベルト。
その姿を見た瞬間、息を呑んだ。
顔色が悪い。
異常なほどに。
頬は痩せ。
唇から血の気が失われている。
胸がざわついた。
何かがおかしい。
私が知るティベルトはこんな人ではない。
誰より強く。
誰より誇り高く。
王国の誰もが次代の名君と信じていた人だった。
なのに今は。
まるで死を隠して立っているように見えた。
「レティシア・ヴァレンティア」
名前を呼ばれる。
私は背筋を伸ばした。
しかしティベルトは私を見ない。
一度も。
視線を合わせようとはしなかった。
「君を王都より追放する」
会場がざわめく。
宰相が前へ出た。
「レティシア・ヴァレンティア嬢は王太子妃として不適格である」
淡々と罪状が読み上げられる。
幼馴染エミリカへの嫌がらせ。
王妃教育の放棄。
王家への忠誠心の欠如。
――全て嘘だった。
反論はできる。
証人もいる。
だが。
私は口を開かなかった。
それ以上に、ティベルトの体調が心配だったから――
余計なことは言わずに静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
場内が静まり返る。
やがて。
一人の少女が前へ出た。
エミリカ。
私と同じティベルトの幼馴染。
次期王妃として紹介された。
その彼女もまた泣きそうな顔をしていた。
そして小さく呟く。
「どうしてそこまで……」
聞き取れはしなかったが、何故かそう言っているような気がした。
誰も幸せそうじゃない。
願われていた婚約破棄が決まったのなら。
もっと喜ぶべきではないか。
むしろ、誰かの葬儀のようだった。
違和感だけが膨らんでいく。
それでも――
追放が変わるわけではない。
王都での私の役目は終わったのだ。
私は一礼し。
大広間を去ろうとする。
その瞬間だった。
ガシャン!!
激しい音と共に悲鳴が鳴り響く。
私は思わず振り返った。
そして凍りつく。
「……ティベルト?」
ティベルトが壇上で倒れている。
エミリカと王妃が叫び、医師達は急いで駆け寄った。
「殿下!」
「進行が早すぎる!」
「すぐに医務棟へ運ぶ準備を!」
会場は一瞬で混乱に包まれた。
その中で――
私の目は別のものに釘付けになった。
床を転がる婚約指輪。
それは外されたと思っていた指輪だった。
内側には私の名前が刻まれている。
ティベルトは最後まで握りしめていたのだ。
胸が締めつけられる。
……私を嫌いになったのではなかったの?
その時だった。
ティベルトがゆっくりと目を開く。
婚約破棄後――初めて視線が重なった。
その瞳は。
泣きそうなほど優しかった。
かすかに唇が動く。
「よかった……君は、生きろ――」
そう言い残して、彼は意識を失った。
私は知らなかった。
この婚約破棄が。
私を捨てるためではなく。
私を生かすためのものだったことを。
そして三ヶ月後――
辺境伯領へ訪れたエミリカは、私にこう告げた。
「殿下は、あなたを生かすために死のうとしたの」
その時の私はその意味を理解できなかった。
けれど次の言葉で。
世界が止まった。
「殿下の余命は――あと三日よ」
エミリカは泣きながら答えた。
「あなたが生きる代わりに、殿下が死ぬ運命になったから」
王家に伝わる《運命の書》。
その一冊が、私たちの未来を狂わせたのだ。




