第6話 泥水を浴びた商人に、王子が頭を下げる
第6話 泥水を浴びた商人に、王子が頭を下げる
妖精ほどの大きさになった騒動から三日後、アレンは朝食の席で、一枚の黒パンと向き合っていた。窓辺の鉢では赤いゼラニウムが雨粒を載せ、開け放した窓から濡れた土と刈った芝の匂いが入ってくる。銀皿には炙った腸詰め、半熟卵、山羊の乳で作った白いチーズも並んでいたが、ティカは両腕で黒パンを押し、アレンの前へ少しずつ近づけていた。
「今日のお昼は、このパンを持って市場へ行きましょう!」
「なぜ市場へ行くのに、城のパンを持参する。市場で買えばいいだろう」
「では、市場のパンと食べ比べをしましょう。硬さ、香り、投げたときの飛び方を調べます!」
「最後の項目は何の役に立つ」
ティカは答えず、黒パンの端をかじった。前歯を立てても表面がへこむだけで、なかなか欠けない。彼女はパンへ両足を突っ張り、顔を真っ赤にして引っ張ったが、最後には後ろへ転がった。
アレンはその姿を見て鼻で笑い、自分でパンをちぎった。焼いてから一日しかたっていないため、中はまだ柔らかい。蜂蜜を薄く塗ってティカへ渡すと、彼女は両手で抱え、頬を膨らませながら食べ始めた。
「市場を見たいなら、役人に報告書を書かせればいい。わざわざ歩く必要はない」
「大きな人には見えないものが、たくさんありますよ」
アレンは蜂蜜の匙を置いた。小さくなった夜、使用人の足元で震えたことを思い出す。報告書を書かせたところで、報告する者が気づかなかったものは、最初から紙に載らない。
「分かった。ただし、おまえは籠に入っていろ。市場で飛び回って、また妙な薬を拾われては困る」
「デートですね!」
「視察だ」
「市場でパンを食べる視察デートですね!」
「余計な言葉をつけるな!」
アレンは市民へ顔を知られているため、商人の息子に変装することになった。いつもの金糸の礼服ではなく、古い茶色の上着、生成りのシャツ、膝に継ぎ当てのある黒いズボンを身につける。倉庫から借りた服には乾いた石鹸と木屑の匂いが染みつき、袖は少し短かった。
鏡の前に立ったアレンは、何度も袖口を引っ張った。胸元に宝石も刺繡もなく、革靴にも銀の留め具がついていない。どこから見ても王子には見えず、本人は裸で立っているように落ち着かなかった。
「もう少しましな服はないのか」
「庶民へ変装するのですから、十分でしょう」
ヴィンスは行商人の護衛を装い、擦れた革鎧と灰色の外套を着ていた。髪もいつものように整えず、額へ一房垂らしている。腰には剣を下げているが、紋章の入った鞘は布で覆ってあった。
「この上着は誰のものだ」
「厩舎で働く青年から借りました。休日に母親が繕ってくれたそうです」
アレンは膝の継ぎ当てへ目を落とした。布の色は合っていないが、縫い目は細かく、簡単にはほつれそうにない。以前なら貧相だと笑っていたはずなのに、誰かが夜の灯りの下で一針ずつ縫った姿を考えると、乱暴に扱う気になれなかった。
ティカは小さな柳の籠へ入り、頭へ白い雛菊を飾っていた。籠には朝食の黒パン、森の木の実、念のためだという野草団子が詰め込まれている。蓋を閉めようとすると、ティカは空気穴から顔を出した。
「殿下、おやつは銀貨二枚までですよ」
「なぜ、おまえが俺の財布を管理する」
「お金をたくさん持つと、殿下はすぐ使ってしまいます」
「今日は金貨を一枚と銀貨を十枚しか持っていない」
ヴィンスは言葉を失い、アレンの手から金貨を取り上げた。市場で働く者の日当は銅貨十枚前後であり、金貨一枚を持ち歩けば変装の意味がない。結局、アレンの財布には銀貨二枚と銅貨二十枚だけが残された。
「これでは、菓子を十個も買えないではないか」
「普通は十個も買いません」
「食べるのではない。味見して、気に入らなければ捨てる」
「その発言だけで王子だと見破られます。今日は気に入らないものも飲み込んでください」
アレンは不満そうに財布を腰へ下げた。しかし、ティカが籠から「私の野草団子も飲み込んでください」と言ったため、それだけは全力で拒否した。
城の裏門から王都へ出ると、細い道の両側に石造りの家が並んでいた。二階の窓から洗濯物が渡され、白いシャツや子どもの靴下が春風に揺れている。窓辺には黄色い金盞花が植えられ、軒下では雨宿りをしていた雀が水たまりの水を飲んでいた。
市場へ近づくにつれ、音と匂いが濃くなった。胡椒、乾燥させた肉、焼いた玉葱、蜂蜜菓子、馬糞、魚の塩漬けが混じり合い、あちこちから値段を呼ぶ声が飛んでくる。アレンは城の祝宴よりも品数が多いと思ったが、買い物客の籠は驚くほど軽かった。
一人の女が小麦粉の袋を持ち上げ、値札を見てから元へ戻した。その隣では、年老いた男が銅貨を何度も数え、太い人参を一本だけ買っている。母親に手を引かれた幼い子どもは、焼き菓子の匂いへ顔を向けたが、何も言わずに通り過ぎた。
「なぜ誰も買わない。これほど品物があるのに」
「小麦の値段が去年の倍になったからです」
ヴィンスは乾物屋の値札を見ながら答えた。北部の不作に加え、王家が祝祭費を補うため、春から小麦へ臨時税を課している。報告書には「税収は予定どおり」とだけ書かれ、その金を支払う者の食卓までは記されていなかった。
「俺の祝祭費のためか」
「殿下だけのためではありません。ですが、あの日のパレードも含まれています」
籠の中で、ティカが黒パンを抱き締めた。いつもなら何か明るい言葉を口にする彼女も、今日は市場を行き交う人々の籠を見て黙っている。アレンは金貨一枚で何が買えるかではなく、自分が一度の祝祭で何人分の食事を使ったかを考え、上着の袖口を握った。
市場の奥へ進むと、端のほうに古びた荷車が一台止まっていた。曲がった板の上には、色の濃い小さなパンが十個ほど並べられている。表面は乾いてひび割れ、焼きたての香りも残っていなかった。
荷車の横に立っていたのは、春の祝祭で泥水を浴びた商人バルトだった。茶色い上着の肘には新しい継ぎ当てがあり、前掛けには小麦粉ではなく、荷車の車輪を直した黒い油がついている。隣では息子のリオが、硬いパンを布で拭いていた。
「昨日のパンです。スープへ浸せば食べられます。銅貨一枚で二つです」
リオは通行人へ声をかけたが、立ち止まる者はいなかった。銅貨一枚なら安いはずなのに、それさえ惜しむ人々が足早に通り過ぎていく。売れ残ったパンの一つは端が欠け、欠けた部分から乾いた中身がこぼれていた。
アレンは物陰へ下がり、ヴィンスの腕をつかんだ。あの日、罰金として銀貨五枚を取り上げた相手である。泥水を浴びせたことも、売り物を駄目にしたことも、未来の断頭台も一度に思い出し、首元がきつくなった。
「なぜ、あの男は古いパンを売っている」
「罰金を支払ったため、十分な小麦を仕入れられなかったのでしょう。あの日の損失も補償されておりません」
「だが、銀貨五枚だぞ」
「彼らには、何日分もの仕入れ代です」
金額は帳簿で見ていたはずなのに、荷車の上で硬くなったパンを見るまで、その意味が分からなかった。アレンは腰の財布を探ったが、入っているのは銀貨二枚だけだった。ヴィンスへ金貨を返すよう求め、止められる前にバルトたちのほうへ歩いた。
「そのパンを全部もらおう」
声を変えたつもりだったが、普段の命令口調が残っていた。バルトは見慣れない若者を警戒しながら、パンを布袋へ詰め始める。リオはアレンが差し出した金貨を見ると、袋を渡さず、小さな手で押し返した。
「お釣りがないよ」
「釣りは要らない。取っておけ」
「パン十個に、そんなにもらえない」
「俺がやると言っている」
「父ちゃんは、働いて売った金しか受け取るなって言ってる。施しを受けたら、次の日も誰かがくれるのを待つようになるって」
リオは金貨を返すと、荷車の取っ手を握った。右手の薬指が不自然に曲がり、力を入れると小さく震えている。祝祭の日に倒れた荷車を起こそうとして、車輪の下へ手を挟んだのだと、バルトが低い声で説明した。
「医者には見せたのか」
「診察には銀貨が要ります。動かせますから、働くには困りません」
「曲がっているではないか」
「曲がっていても、荷車は押せるよ」
リオは肩へ力を入れ、荷車を少しだけ前へ動かした。車輪が石の窪みへ落ちると、細い腕が大きく揺れる。アレンは手を貸そうとしたが、何と声をかければいいか分からず、差し出しかけた手を下ろした。
「では、仕事を頼む。俺たちを市場の中へ案内しろ。その代金としてなら受け取るか」
リオはバルトの顔を見た。バルトはアレンの靴や手を確認し、金持ちの道楽ではないかと疑っている。それでも、銅貨五枚なら案内すると答えた。
「金貨ではないぞ。銅貨五枚だ」
「分かっている」
「途中でいらないと言っても、半分は払ってもらう」
「契約に厳しい子どもだな」
「約束を破る大人が多いからだよ」
アレンは返す言葉を失い、リオのあとを歩き始めた。籠の穴から顔を出したティカが、「案内人さん、よろしくお願いします」と手を振る。リオは妖精を見て驚いたものの、ティカから木の実を一つもらうと、城では見られないような笑顔を見せた。
ところが、魚屋と香辛料店の間へ差しかかったとき、三人の男が道を塞いだ。革の胴着は汚れ、腰には短い棍棒を下げている。先頭の男は荷車のパンを一つ取り、石のように硬いと笑いながら地面へ落とした。
「バルト、今週の場所代がまだだぞ」
「市場組合へは、決められた使用料を払っている。おまえたちに渡す金はない」
「組合の金は組合の金だ。ここで商売を続けたいなら、俺たちにも払え」
男はリオの肩を押した。小さな体が荷車へぶつかり、積まれていたパンが石畳へ転がる。アレンの頭には、泥水を浴びたパンを拾っていた同じ背中が浮かんだ。
「拾え」
アレンが言うと、男は自分に命じられたとは思わず、リオへ顎をしゃくった。アレンは一歩前へ出て、落とされたパンを指さす。茶色い上着を着ていても、命令するときの声だけは王城にいたころと変わらなかった。
「おまえが落とした。おまえが拾え」
「何だ、こいつ。商人の小僧か?」
男がアレンの胸倉をつかもうとした。ヴィンスは剣へ手をかけたが、市場の中で抜けば周囲を巻き込む。アレンは男の腕を避け、香辛料店の前へ積まれていた胡椒袋を足で押した。
袋の口が開き、細かな胡椒が男たちの顔へ舞い上がった。ティカも籠から飛び出し、両手いっぱいの金色の粉をまき散らす。胡椒と妖精の目くらましを浴びた三人は、くしゃみをしながら互いにつかみ合った。
「ヴィンス、今だ!」
ヴィンスは剣を抜かず、鞘に入れたまま一人目の膝裏を払った。二人目の腕をねじ上げ、三人目の棍棒を蹴り飛ばす。市場の見回り兵が駆けつけたころには、男たちは荷造り用の縄でまとめて縛られていた。
「ひきょう者! 胡椒を使うとは何事だ!」
「目の前に使えるものがあっただけだ。負けた者が戦い方へ文句を言うな」
アレンは鼻をこすり、自分までくしゃみをした。ティカは得意げに彼の肩へ着地したが、羽にも胡椒がついていたため、大きなくしゃみをする。勢いで後ろへ飛ばされたティカを、アレンは両手で受け止めた。
その拍子に、アレンの頭を覆っていた古い帽子が落ちた。さらに男につかまれた上着の襟が開き、中へ隠していた王家の印章が石畳へ転がる。ヴィンスが拾おうとしたが、その前にバルトが印章を見た。
「あなたは……第二王子殿下」
市場のざわめきが止まった。野菜を選んでいた女も、魚をさばいていた店主も、荷車を引いていた老人も、アレンへ顔を向ける。すぐに頭を下げる者もいたが、多くはその場に立ったまま、泥水を浴びたバルトとアレンを見比べていた。
バルトは息子を背中へ隠した。あの日と同じように、また罰せられると思ったのだろう。リオも曲がった指を胸元へ引き寄せ、アレンから目を離さなかった。
「変装して、私たちを笑いに来たのですか」
バルトの声は震えていたが、目は伏せなかった。アレンは王子として命じれば、周囲の者を全員ひざまずかせられると知っている。けれど、自分が小さくなった夜に見上げた靴底を思い出すと、その命令を口にできなかった。
アレンは帽子を拾わず、泥のついた石畳へ片膝をついた。次に、もう片方の膝も下ろす。継ぎ当てのあるズボンへ雨水と魚屋の流した水が染み込み、生臭い冷たさが肌まで伝わった。
「おまえの露店を壊した。罰金を奪い、息子の暮らしまで苦しくした」
バルトは何も言わなかった。アレンはリオの曲がった指を見てから、石畳へ両手をつく。王子が民の前で頭を下げるなど、教えられた礼法には存在しなかったため、自分が正しい形で謝れているのかも分からなかった。
「返すだけでは償いにならないが、まず返させてくれ。罰金は利息をつけて返す。潰した商品と荷車の修理代、リオの治療費も俺が払う」
「金を返せば、なかったことになるのですか」
「ならない」
「私が、殿下を許すと言わなかったら?」
「それでも返す。許してもらうためではない。俺が返さなければならない金だからだ」
自分の声が石畳へ落ち、周囲の店の壁へ小さく反響した。アレンは顔を上げず、返事を待つ。膝の下では尖った小石が布越しに食い込み、魚の鱗が手のひらへ張りついていた。
しばらくして、リオがアレンの前へ歩いてきた。小さな靴の先が視界に入り、硬くなったパンが一つ差し出される。アレンが顔を上げると、少年は笑っていなかった。
「これを買って。みんなと同じ値段で」
アレンは財布から銅貨を出し、パン一つ分だけ渡した。リオは銅貨を光へかざして確かめ、前掛けの小さなポケットへしまう。その様子を見ていたバルトは、深く息を吐いた。
「私はまだ、あなたを許せません」
「ああ」
「ですが、話は聞きます。今の言葉を守るかどうかも見ます」
「それでいい」
アレンは立ち上がり、泥のついた膝を払おうとした。ところがティカが飛んできて、服についた魚の鱗を一枚拾う。それを銀色の勲章みたいできれいだと言い、アレンの胸元へ貼りつけた。
「殿下、今日は泥まみれでも立派です!」
「魚臭い勲章をつけるな」
「では、私がもらいます」
「おまえも臭くなるぞ」
二人が魚の鱗を押しつけ合うと、市場のどこかから小さな笑い声が上がった。ヴィンスは剣を収め、見回り兵へならず者たちを引き渡す。兵の一人が、彼らは市場の役人へ金を渡し、長い間取り締まりを免れていたと明かした。
アレンは市場組合の帳簿を押収し、不当な場所代について調べるようヴィンスへ命じた。さらにバルトへ、同じような罰金を科された商人を知らないかと尋ねる。バルトはパン屋だけでなく、酒場の女主人、荷運び人、果物売りも王族や貴族の機嫌を損ねたという理由で金を取られたと答えた。
「全員の名を書いてくれ。俺が科したものだけでなく、王族の名を使った罰金を全部調べる」
「一日では終わりませんよ」
「分かっている。一日で作った問題ではないからな」
バルトは汚れた前掛けから小さな帳面を取り出した。表紙にはパン生地の跡が白く固まり、頁の端は油で黒くなっている。彼は思い出せる名を書き始め、リオはその横で売れ残ったパンを並べ直した。
城へ帰る道で、アレンは買った硬いパンをかじった。歯を立ててもなかなか割れず、ようやく欠けた一片は口の中の水分をすべて吸い取った。城の焼きたてパンなら捨てていた硬さだったが、アレンは飲み込むまで何度も噛んだ。
「硬いですか?」
籠からティカが尋ねると、アレンはパンを見た。リオはこれを、スープへ浸せば食べられると言っていた。城の食卓では、朝焼いたパンさえ夜には使用人用へ下げられ、翌朝まで残ることはない。
「硬い。だが、食べられないわけではない」
「私の野草スープへ浸しましょうか?」
「それだけは断る」
「柔らかくなりますよ」
「パンではなく、俺の心が折れる」
ヴィンスが吹き出し、すぐに咳払いをした。アレンはにらんだが、以前のように処罰するとまでは言わなかった。ティカは野草スープとパンを組み合わせた新しい献立を考え始め、籠の中で楽しそうに鼻歌を歌っていた。
城へ戻ったアレンは着替えもせず、財務官の執務室へ向かった。濃紺の絨毯には泥の足跡が続き、すれ違った侍女たちは目を丸くする。胸元にはティカが貼った魚の鱗がまだ残り、雨と汗と市場の香辛料が混じった匂いをまとっていた。
財務官の机では、午後の茶と胡桃入りの焼き菓子が冷めていた。帳簿の横には、王家の春宴に使う葡萄酒の注文書と、小麦への臨時課税で得られる予定額が置かれている。アレンは宴会の注文書を取り上げ、半分に折った。
「春宴の予算を半分にする。外国産の葡萄酒と南国の果物は取り消せ」
「しかし、すでに招待状を発送しております。王家の威信に関わります」
「去年と同じ量の料理を出せとは書いていないだろう。花も庭のものを使え。氷の彫像は要らない」
財務官は椅子から立ち上がり、国王の許可が必要だと訴えた。アレンは小麦への臨時課税の書類を机へ広げる。税収の横には、春の祝祭と王族の宴会費へ充てるという記載があった。
「この税を止めろ」
「急にはできません。予定されていた収入がなくなれば、王家の行事を維持できなくなります」
「維持する必要があるのか。民がパンを買えないのに、俺たちが外国の酒を飲む行事を」
「王族の暮らしは、国の豊かさを示すものです」
アレンは市場で見た籠を思い出した。小麦粉を棚へ戻した女、人参一本だけを買った老人、焼き菓子の前を黙って通り過ぎた子ども。国が豊かだと示す宴の外で、その国の民は食べ物を買えずにいた。
「王族が民を飢えさせて、何を守るというんだ」
財務官は口を閉じた。ヴィンスもティカも、すぐには声を出さなかった。アレン自身も、自分の口から出た言葉を確かめるように、机の上の注文書を見下ろしていた。
「宴会予算を削った金で不足分を補え。それでも足りなければ、俺の宝石を売る。小麦税の停止案を父上へ提出するから、必要な書類をそろえろ」
「国王陛下がお認めにならなければ、どうなさいます」
「市場へお連れする。報告書ではなく、あの硬いパンを食べてもらう」
アレンは食べかけのパンを机へ置いた。乾いたパンくずが、きれいに整えられた税の書類へ落ちる。財務官は取り除こうと手を伸ばしたが、アレンが止めた。
「そのままにしておけ。数字の横に、何があるのか分かるようにな」
窓の外では、夕方の鐘が鳴り始めた。市場から持ち帰った香辛料の匂いが服に残り、空腹になったティカの腹が小さく鳴る。アレンは硬いパンを半分に割り、一方を彼女へ差し出した。
「野草スープへは浸すなよ」
「では、森の蜜をつけます!」
「月満草が混じっていないか、札を先に見せろ」
ティカが頬を膨らませ、ヴィンスは今度こそ声を上げて笑った。アレンは二人をにらみながら、自分の分のパンを口へ入れる。まだ硬く、少し焦げ臭かったが、今度は最後まで噛んで飲み込んだ。




