第3話 初めての「ありがとう」は居心地が悪い
第3話 初めての「ありがとう」は居心地が悪い
三倍に増やされた野草スープから逃げ回った翌朝、アレンは庭へ続く回廊を歩いていた。空は磨いた硝子のように青く、石柱の間から入り込む春風が、淡い金色の髪を揺らしている。今日は濃い緑色の上着に象牙色のズボンを合わせ、足元には朝から三人の従者に磨かせた黒い革靴を履いていた。
アレンの肩には、クルミの殻で作った籠を背負ったティカが座っている。籠の中には野草スープの残りを固めた黒緑色の団子が三つ入り、歩くたびに何とも言えない苦い匂いを放っていた。アレンは三歩進むごとに顔をしかめ、城壁の外へ捨ててこいと命じたが、ティカは非常食だから駄目だと言い張った。
「王宮の厨房には、パンも肉も菓子もある。そんなものを非常時に食べるくらいなら、俺は飢えるほうを選ぶ」
「昨日は、おいしいと言ってくださいました」
「薬として悪くないと言ったのだ。俺の言葉を勝手に甘く煮るな」
「苦いお薬ですから、言葉くらい甘くしたほうがいいですよ」
後ろを歩くヴィンスが、笑いを咳でごまかした。灰色の近衛服はいつものように皺一つなかったが、腰の革袋は昨日より膨らんでいる。アレンが中身を尋ねると、胃薬のほかに砂糖菓子を入れたと答えた。
「殿下のスープへ巻き込まれたときの備えです」
「俺のスープではない!」
「では、私が団子に名前を書いておきますね」
「野草団子に俺の名を書くな!」
三人が回廊を曲がると、風に乗って焼いた林檎とシナモンの匂いが届いた。厨房では昼食用の菓子を作っているらしく、開いた窓から粉をこねる音が聞こえてくる。アレンの腹が小さく鳴ると、ティカはすぐに籠を開けようとした。
「今のは腹の音ではない。遠くで雷が鳴った」
「雲が一つもありませんよ」
「俺が違うと言ったら違う!」
アレンは歩調を速め、ティカから顔を背けた。野草スープを飲んでから胃の具合がよくなり、今朝は焼きたてのパンを二つも食べている。それでも焼き林檎の匂いへ鼻が向いたことを知られるのは、なぜか負けたようで気に入らなかった。
回廊を抜けた先には、王城で最も広い中庭があった。赤、黄、白のチューリップが列を作り、その奥では薄紫の藤が木棚から房を垂らしている。蜜を集める蜂の羽音と、土を掘り返す鋤の音が重なり、庭師たちの麻の服からは乾いた草と汗の匂いがした。
中庭の中央には何も置かれていない円形の石床がある。正確には、石床の半分ほどが薬草の花壇に重なっていた。アレンはそこへ、南方の職人が彫った自分の騎馬像を設置させる予定だった。
「まだ台座すらできていないではないか」
アレンが声を上げると、庭師たちは一斉に手を止めた。最年長の庭師グレゴールが、土のついた帽子を脱いで駆け寄ってくる。白くなった髭には小さな枯れ葉が絡み、膝には長年土仕事をしてきた者らしい茶色い染みが染みついていた。
「申し訳ございません、殿下。この場所には王立施療院へ納める薬草が植えられております。花の時期が終わるまで、あと二月ほどお待ちいただけませんでしょうか」
「二月だと? 騎馬像は来月の俺の誕生日に披露する予定だ」
「ですが、今年は雨が少なく、薬草の収穫量が減っております。ここまで潰しますと、熱病の薬が足りなくなります」
「ほかの場所で育てればいいだろう。今日中に全部抜け」
アレンが命じると、庭師たちは顔を見合わせた。誰も動こうとしないため、アレンは自分の命令が軽く扱われたと思い、靴の踵で石床を鳴らした。ヴィンスが何か言いかけたが、アレンは片手を上げて黙らせる。
「聞こえなかったのか。この花壇を潰せと言った。できないなら、俺が踏み潰してやる」
アレンは薬草園へ足を踏み入れようとした。そこには白い小花をつけた熱冷まし草や、丸い葉から爽やかな香りを放つ腹薬草が、畝に沿って並んでいる。土の上には貝殻を砕いた白い粉がまかれ、雨の少ない日にも乾かないよう、細かく裂いた藁が敷かれていた。
「殿下もお花摘みを手伝ってくださるのですね!」
肩から飛び立ったティカが、花壇の奥へ向かった。アレンが呼び止めるより早く、彼女は赤い斑点のついた青紫色の花を見つける。ほかの薬草とは離して植えられ、根元には赤く塗った杭が立てられていた。
「きれいなお花です。殿下のお部屋に飾りましょう!」
「待て、ティカ! それに触るな!」
グレゴールの顔から血の気が引いた。花の名は火傷草といい、正しく乾燥させれば痛み止めになるが、生の汁には皮膚を焼くほど強い毒がある。小さな妖精が触れれば、指先から毒が回ると聞いた瞬間、アレンの体は考えるより先に動いていた。
アレンは花壇へ踏み込み、ティカを左手でつかんだ。右手で火傷草を払いのけると、折れた茎から透明な汁が飛び、手袋へ染み込んだ。指先に針を刺されたような痛みが走り、次の瞬間には熱した鉄を押し当てられたような熱さが手の甲まで広がった。
「殿下!」
ヴィンスがアレンを抱えるようにして花壇から引き戻した。グレゴールは井戸水を桶へくみ、革手袋を切り裂いて、アレンの手を水へ沈める。冷たい水に触れても熱は引かず、指はみるみる赤く腫れていった。
「ティカは……どうした」
「ここにおります。怪我はありません」
ヴィンスが答えると、アレンは左手を開いた。手のひらの中で、ティカが尻餅をついている。どんぐりの帽子は飛んでしまったが、羽にも服にも火傷草の汁はついていなかった。
「何をしているのですか、殿下! 素手で触れてはならないと、杭にも印をつけておりましたのに!」
グレゴールは叱るような声を出したあと、相手が王子であることを思い出し、慌てて口を閉じた。アレンは水桶へ浸した手を見下ろし、自分でもなぜ間に入ったのか分からず、奥歯を噛んだ。人間ならともかく、昨日出会ったばかりの小さな妖精一匹のために、利き手を傷つける理由などないはずだった。
「おまえが勝手に触ろうとしたからだ。俺は、おまえを助けたかったわけではない」
「それでも、殿下の手が私を守ってくれました。ありがとうございます」
ティカは両腕でアレンの親指を抱えた。いつものように都合よく解釈して笑うのではなく、緑色の瞳いっぱいに涙をためている。涙がアレンの爪へ一粒落ち、火傷草の熱とは違う温かさが残った。
「世界一やさしい王子様は、本当にいたのですね」
「俺は、そういう意味でやったのではない」
「はい。それでも、ありがとうございます」
同じ言葉を二度も言われ、アレンは返事を失った。褒美を期待する家臣の賛辞や、機嫌を取ろうとする侍従のお世辞なら、毎日聞いている。けれど、小さな妖精が指にしがみつきながら伝える言葉には、代わりに何かを求める響きがなかった。
庭園の東屋へ移ると、城の治療師が駆けつけた。老治療師は薬草を練った灰色の軟膏を塗り、包帯を指の一本ずつへ巻いていく。卓上には庭師たちの昼食だった黒パンと豆の煮込みが置き去りにされ、木の椀からは月桂樹の香りが細く立っていた。
「三日は指を動かさないでください。腫れが引くまでは、剣も筆も持ってはなりません」
「三日も書類仕事をしなくていいのか」
「殿下、少しうれしそうですね」
ヴィンスに指摘され、アレンは眉をつり上げた。包帯だらけになった右手は白い芋虫のようで、威厳のかけらもない。ティカが包帯へ赤い花を描こうと木炭を持ち出したため、アレンは左手で彼女をつまみ上げた。
「じっとしていろ。今度、勝手に危険なものへ触れたら、籠に閉じ込めるぞ」
「心配してくださっているのですね」
「管理すると言っている」
「はい。愛のこもった管理ですね!」
「愛はこもっていない!」
言い争う二人を見ながら、グレゴールは火傷草の無事な株を調べていた。周囲にはアレンの革靴で踏まれた跡が残っていたが、大切な根の部分は避けられている。グレゴールは土を払いながらアレンの前へ進み、深く頭を下げた。
「殿下、ティカ様をお救いくださったことだけではございません。火傷草も薬草園も残してくださいました。ありがとうございます」
「残したのではない。途中で騒ぎになっただけだ」
「それでも、施療院へ薬を届けられます。この草から作る薬を待っている者が大勢おります」
グレゴールの爪には土が入り、手の甲には古い切り傷がいくつもあった。その手で帽子を胸へ当て、もう一度頭を下げている。アレンは居場所をなくしたように東屋の椅子から立ち上がり、包帯を巻いた右手を背中へ隠した。
「もういい。何度も同じことを言うな」
「殿下は、ありがとうがお嫌いなのですか?」
ティカに尋ねられ、アレンは返事をしなかった。ありがとうと言われるたび、胸の中へ自分のものではない服を押し込まれているようだった。着心地は悪いのに、脱いで捨てるのも惜しいという、これまで知らなかった感覚が残る。
午後になると、騎馬像の設置を請け負った石工が庭へやってきた。台座用の白い石を載せた荷車が二台、門の前で待っている。石工は予定どおり薬草園を取り壊すのかと尋ね、アレンの判断を待った。
「騎馬像は中止だ。石は持って帰れ」
アレンが答えると、石工だけでなく、庭師たちも一斉に顔を上げた。ティカはアレンの肩に座り、包帯を汚さないよう、切った林檎を小さくちぎって口へ運んでいる。林檎にはシナモンが振られ、昼前に焼いていた菓子と同じ甘い香りがした。
「よろしいのですか。殿下の十八歳のお誕生日を記念する像と伺っております」
「自分の顔なら鏡で見られる。庭へまで置く必要はない」
「殿下、朝はご自分のお顔を長い間見ていますものね」
「余計なことを言うな、ティカ」
石工が帰ったあと、アレンは薬草園を見回した。火傷草の赤い杭は低く、ティカだけでなく、幼い見習い庭師なら誤って触れるかもしれない。危険だと分かっていたなら、もっと分かりやすく囲うべきだとグレゴールへ言いかけ、薬草園の予算が足りないと聞かされた。
「ならば柵を作れ。石工が持ってきた白い石も一部買い取り、火傷草の周りへ敷け。誰が見ても近づいてはいけないと分かるようにしろ」
「ですが、その費用を庭園の予算から出しますと、夏の水代が不足いたします」
「俺の衣装代から出せばいい」
ヴィンスが腰の革袋へ手を伸ばしかけ、そのまま止めた。胃薬を飲むほどのことではないと思い直したものの、聞き間違いではないかとアレンの横顔を見ている。アレンはその視線に気づき、機嫌を損ねたように顎を上げた。
「何だ。言いたいことがあるなら言え」
「いえ。何もございません」
「なら、なぜ笑っている」
「春の陽気のせいでしょう」
ヴィンスは口元を引き締め、革袋から手を離した。ここで褒めれば、アレンは恥ずかしさをごまかすために命令を撤回するかもしれない。庭師たちも同じことを察したのか、礼を言わず、黙って柵を作る場所を測り始めた。
その日の夕方、アレンは包帯を巻いた手を抱えながら自室へ戻った。机の上には支出帳簿が積まれ、朝の紅茶は飲まれないまま冷えている。表面には薄い膜が張り、添えられていた焼き林檎も水分を失って端が縮んでいた。
ティカはアレンの肩から机へ降りると、昼間拾った赤い花びらを包帯の結び目へ一枚差し込んだ。火傷草ではなく、庭の隅に咲いていた安全な雛罌粟の花びらだった。鮮やかな赤が白い包帯の上で揺れている。
「今日は、ありがとうございました」
「三度目だぞ。もう言うな」
「では、明日の分として言います」
「明日も言うつもりか」
アレンは花びらを取り外そうと指を動かし、治療師に動かすなと言われたことを思い出して手を止めた。仕方がないという顔を作り、そのまま椅子へ腰を下ろす。ティカはアレンが花びらを捨てなかったことを確認すると、満足そうにどんぐりの帽子を枕にして帳簿の上へ寝転がった。
窓の外では、庭師たちが薬草園の周囲へ仮の縄を張っていた。土と若葉の匂いに、夕食として焼かれている鶏肉の香ばしい匂いが交じる。アレンは包帯の赤い花びらをしばらく見つめたあと、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「……どういたしまして、でいいのか」
ティカの羽がぴくりと動いたが、顔は上げなかった。聞こえないふりをしている口元が、わずかに笑っている。アレンは耳まで赤くすると帳簿を開き、左手ではうまくめくれない紙へ、八つ当たりするように指を押しつけた。




