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第10話 小さな羽が守ったもの

第10話 小さな羽が守ったもの


ローレンスの指が大使の杯へ届くより早く、ティカの小さな体が横からぶつかった。硝子杯は白い卓布の上へ倒れ、赤い葡萄酒が燭台の火を映しながら広がる。ローレンスの袖から落ちた黒い瓶も床へ転がり、蓋の隙間から飛び出した一滴が、ティカの背中へ降りかかった。


「ティカ!」


アレンは倒れた椅子を飛び越え、落下するティカへ両手を伸ばした。彼女の体は手のひらへ収まったが、いつもの若草と森の蜜の匂いではなく、焦げた鉄に似た刺激臭が鼻を刺す。若葉色だった羽は端から黒く変色し、乾いた紙のように縮み始めていた。


「触れてはなりません、殿下!」


ヴィンスが布を持って駆け寄った。けれど、アレンはティカを放そうとしなかった。毒が自分の指へついても構わず、親指で彼女の頬についた葡萄酒を拭う。


ティカの瞼は閉じたままで、唇の色も薄くなっていた。胸がかすかに上下していることだけを確かめ、アレンは何度も名を呼ぶ。羽からこぼれた金色の粉は光を失い、手のひらへ触れる前に黒い灰へ変わった。


「起きろ。俺の命令が聞こえないのか」


返事はなかった。アレンの指先へ、細い腕が力なく当たっている。朝になると頬を蹴り、野草スープを飲めと騒いでいた体が、今は指一本持ち上げられない。


ローレンスは混乱に乗じ、晩餐室の脇扉へ走った。拘束していた近衛の腕を振り払い、倒れた椅子や卓を盾にして逃げる。ヴィンスは追おうと剣へ手をかけたが、アレンはローレンスの背中を一度見ただけで、ティカを胸へ抱き寄せた。


「追わなくてよいのですか、殿下」


「今は、どうでもいい」


「公爵を逃がせば、殿下の無実を証明する機会を失います」


「証拠も王位もあとだ。治療師を呼べ。ティカを助けろ」


アレンの声は大きかったが、誰かを罰するための怒鳴り声ではなかった。国王が近衛へローレンスを追うよう命じ、エレノアは残された帳簿と毒瓶を回収するよう侍従たちへ指示する。大使セヴランは袖で自分の杯を覆い、誰にも触れさせないまま、毒の証拠として保管すると申し出た。


王族付きの治療師が晩餐室へ駆け込んできた。夕食の途中だったらしく、白い上着の釦を一つ掛け違え、顎には豆の煮汁がついている。老治療師はアレンの手の中へ薄い布を敷き、ティカの胸へ小さな硝子板を当てた。


「息はございます。しかし、毒が羽から体へ入っております」


「薬を使え。火傷草のときに使ったものでも、俺に飲ませたものでも何でもいい」


「妖精と人間では、体の作りが違います。人間の解毒薬を使えば、この小さな体には薬のほうが毒になります」


「では、どうすればいい!」


老治療師は、黒くなっていく羽を見つめた。王城の記録では、妖精が毒に侵された例は一度しかない。その妖精は森の奥にある精霊の泉へ運ばれ、夜明けの光が水面へ差す前に泉へ浸して助かったという。


「今から森へ向かえば、間に合うのか」


「分かりません。精霊の泉は場所を変えるとも聞きます。森に詳しい者の案内が必要です」


アレンは立ち上がった。ティカを両手で包み、胸元へ近づける。彼女を冷やさないよう、白い卓布を引き裂いて小さな体へ巻いた。


エレノアが帳簿を抱え、アレンの前へ立った。銀色のドレスの裾には葡萄酒がかかり、青い矢車菊の髪飾りも半分ほど解けている。彼女はローレンスの拘束と毒物の調査を続けるため、アレンには城へ残ってほしいと告げた。


「あなたがいなければ、第二王子府の捜索を認められません。ローレンスが証拠を処分する前に、押さえる必要があります」


「分かっている」


「使節への説明も必要です。ここで姿を消せば、逃亡したと思われます」


「それも分かっている」


「では、どちらを選ぶのですか」


アレンはティカへ視線を落とした。黒くなった片方の羽は先端から形を失い、細かな光となって消えている。もう片方の羽にも黒い筋が伸び始めていた。


「ティカを選ぶ」


「殿下」


「証拠も王位も要らない。あいつを助けてくれ。俺一人では森へたどり着けない」


アレンは大理石の床へ膝をついた。ティカを潰さないよう片手で胸へ抱き、もう片方の手を床へつく。額が冷たい石へ触れるほど深く頭を下げた。


晩餐室にいた貴族たちは息をのみ、国王も言葉を失った。民どころか父王にも頭を下げなかったアレンが、泥と葡萄酒で汚れた床へ額をつけている。蝋燭から落ちた蝋がすぐそばで固まっても、顔を上げなかった。


「エレノア、頼む。俺の代わりに証拠を守ってくれ。ローレンスが逃げたなら、城門を閉じろ。俺が戻るまで王子府もすべて調べていい」


「すべてを公開すれば、毒殺未遂とは別の不正まで見つかるかもしれません」


「構わない。俺がしたことも隠すな」


エレノアは床へ片膝をつき、アレンと同じ高さまで腰を落とした。ローレンスを告発するだけでなく、アレン自身の過去も調べるという条件を確認する。アレンがうなずくと、彼女は自分のハンカチで、ティカの顔についた黒い雫をそっと拭った。


「城のことは、私が引き受けます。ですから、必ずティカ様を連れて戻ってきてください」


「ありがとう」


アレンはようやく顔を上げた。額には床の汚れがつき、礼服の膝も赤い葡萄酒で濡れている。以前の彼なら着替えを命じるところだったが、そのまま晩餐室を飛び出した。


ヴィンスはすでに厩舎へ使いを出していた。王城で最も速い栗毛の馬へ鞍を載せ、自分の灰色の外套を外してアレンへ渡す。アレンは外套の内側へティカを包み、胸元に小さな隙間を作って息ができるようにした。


「私は殿下と参ります」


「おまえまで城を離れれば、エレノアを守る騎士が減る」


「近衛騎士の役目は、殿下のおそばにいることです」


「なら、城へ残れ。今夜の俺は、王子としてではなく、ティカを助けてもらう一人の男として森へ行く」


ヴィンスは反論しようとして、アレンの胸元を見た。外套の隙間から、黒くなった羽が少しだけ見えている。彼は腰から短剣を外してアレンへ渡し、さらに自分の革袋から包みを一つ取り出した。


「干し肉と黒パンです。途中で倒れられては困ります」


「胃薬は入っていないだろうな」


「一粒だけ入れてあります。殿下が戻るまで、私は胃を痛める暇もなさそうですので」


いつもなら余計なものを入れるなと怒鳴るところだった。アレンは革袋を受け取り、ヴィンスの肩を一度叩く。感謝の言葉を言う前に、厩舎の外から庭師グレゴールの声が聞こえた。


グレゴールは作業着のまま走ってきた。晩餐会へ証言に来ていたため、帽子にはまだ庭の土がついている。彼は王都の北門から森へ入る道では間に合わないと言い、薬草を採る者だけが使う古い獣道を地面へ棒で描いた。


「川沿いを進み、白い樺の木を左へ曲がってください。その先に、根が二つに分かれた樫があります」


「そこが泉か」


「いいえ。そこから先は人間の道ではありません。ティカ様が目を覚ませば、泉まで導いてくださるはずですが」


「目を覚まさなかったら?」


グレゴールは答えず、アレンへ小さな革袋を渡した。中には解毒作用のある乾燥薬草と、火を起こすための石が入っている。妖精へ直接使うことはできないが、アレンが毒に触れて倒れたときには役立つという。


「殿下、手袋をしてください。ティカ様を助ける前に、殿下が動けなくなってはなりません」


「手袋では、息をしているか分からない」


「では、せめて傷のある指には触れさせないでください」


アレンは火傷草で赤みが残る右手へだけ手袋をはめた。左手は外套の内側へ入れ、ティカの体を支える。小さな胸が動いていることを指先で何度も確かめた。


馬で城門を出ると、夜の風が頬へ刺さった。初夏を前にした時期でも、雨上がりの空気は冷たい。道端には昼間の露店が残した藁や野菜の葉が落ち、片づけを終えた市場からは、消した炭と魚の塩漬けの匂いが流れてきた。


北の通りへ出たところで、荷車が道を塞いでいた。アレンが馬を止めると、御者台からバルトが下りてくる。晩餐会の証言を終え、リオと一緒に市場へ戻る途中だった。


「森へ行かれるのでしょう」


「なぜ分かった」


「その顔を見れば分かります。祝祭の日よりも、ひどい顔をしています」


バルトの荷車には、売れ残ったパンの籠と、小麦粉の空袋が載っていた。リオは眠そうに目をこすりながら、干し林檎を口へ入れている。アレンの胸元から見えるティカの羽を見つけると、すぐに御者台から飛び下りた。


「妖精のお姉ちゃん、どうしたの」


「毒を浴びた。夜明けまでに、森の泉へ連れていく」


「この馬だけでは、途中の湿地を越えられません。昨夜の雨で道がぬかるんでいます」


バルトは荷車の後ろに積んでいた幅の広い板と、車輪へ巻く縄を見せた。パンを地方へ運ぶとき、泥道へ沈まないために使うものだという。彼は荷車を森の入口まで出すと申し出た。


「だが、おまえは俺を許していない」


「今も許しておりません」


「なら、なぜ助ける」


「ティカ様には、市場のならず者から息子を守っていただきました。それに、許せない相手が困っているときは、見捨ててもよいという決まりはありません」


バルトは空の小麦袋を畳み、ティカの敷物として荷車へ広げた。粉の匂いが残る袋の上へ外套ごと寝かせると、ティカの体が揺れずに済む。リオは自分の首へ巻いていた赤い布を外し、小さな掛け布の代わりにティカへ載せた。


「これは貸すだけだよ。元気になったら返して」


「必ず返させる」


アレンは馬から下り、荷車の後ろへ乗った。バルトが手綱を握り、リオが灯りを持つ。栗毛の馬を荷車の横へつなぎ、三人は北門から森へ向かった。


王都を出てしばらくすると、背後から複数の馬の足音が聞こえた。黒い外套を着た男たちが六人、松明を掲げて追ってくる。ローレンスの従者が城門の閉鎖前に抜け出し、毒殺計画を知るティカとアレンを消そうとしていた。


「バルト、荷車を止めるな!」


アレンは栗毛の馬へ飛び乗り、短剣を抜いた。正面から戦えば、人数の差で押し切られる。道の脇には、雨で水を含んだ深い畑と、職人街の清掃で見たものと同じ細い排水溝が伸びていた。


「リオ、荷車の後ろにある小麦袋を投げられるか!」


「中身は空だよ!」


「空だからいい。道へ広げろ!」


リオが小麦袋を投げ、アレンは短剣で袋をつないでいた縄を切った。白い布が濡れた道へ広がり、先頭の馬の目を覆う。馬は驚いて進路を変え、後ろの二頭とぶつかった。


残る三人が荷車へ迫った。アレンは道端の排水溝へ馬を寄せ、男たちが追ってきた瞬間、泥水を蹴り上げる。馬の脚を取られた二人が畑へ落ち、最後の一人だけが剣を抜いて向かってきた。


「王子一人で、何ができる!」


男の剣が振り下ろされ、アレンは短剣で受けた。腕へ重い衝撃が走り、栗毛の馬が大きくいななく。もう一度剣が来る前に、バルトが荷車の上から硬くなった黒パンを投げた。


黒パンは男の額へ当たり、鈍い音を立てた。男が体勢を崩した隙に、アレンは短剣の柄で手首を打ち、剣を落とさせる。リオは荷造り用の縄を放り、三人で男の腕を縛った。


「市場のパンを馬鹿にするな。古くなると武器にもなる」


バルトは息を切らしながら、残った黒パンを籠へ戻した。アレンは以前なら食べ物を投げるなと叱るところだったが、今はその硬さへ初めて感謝した。ところが、剣を受けたときに栗毛の馬が前脚を傷め、走れなくなっていた。


「馬はここへ置いていけません。私が付き添います」


バルトは荷車の馬も疲れているため、これ以上速く進むことはできないと告げた。夜明けまでは、あと二刻ほどしかない。アレンはティカを外套へ包み直し、自分の足で森へ入ることを決めた。


「リオ、道案内の灯りを貸してくれ」


「僕も行く」


「森の中は危険だ。ここで父親と馬を見ていろ」


「でも」


「ティカから預かった布を返す役目があるだろう。ここで待っていてくれ」


リオは赤い布をティカへ巻き直し、松明をアレンへ渡した。バルトは硬いパンと干し林檎を革袋へ詰め、背負わせる。アレンは二人へ頭を下げ、グレゴールから聞いた獣道へ走り出した。


森の地面は雨水を含み、一歩ごとに靴が沈んだ。低い枝が頬を打ち、茨が外套の裾を引っ張る。松明の火は湿った風に何度も消えかけ、濡れた苔と腐葉土の匂いが息をするたび胸へ入った。


外套の中から、細い光が一粒こぼれた。アレンが足を止めて確かめると、ティカの左の羽が半分ほど消えている。右の羽も黒くなり、小さな肩から光の粒が剥がれ始めていた。


「ティカ、起きろ。道を教えろ」


返事はない。アレンは暗い森を見回し、白い樺の木を探す。似たような幹が何本も立ち、どれがグレゴールの言った木か分からなかった。


「俺一人では無理だ。おまえがいなければ、どこへ行けばいいかも分からない」


アレンは濡れた倒木へ腰を下ろし、ティカの頬を指でなでた。以前なら、道を知らない案内人を罵り、別の者を呼べと命じていただろう。だが、今は代わりなどどこにもいない。


そのとき、近くの草むらから金色の光が一つ浮かんだ。小さな蛍のような光は、アレンの周囲を一周してから、森の奥へ進む。続いて二つ、三つと光が現れ、細い道の上へ並んだ。


「ティカの仲間か」


光は答えなかったが、アレンが立ち止まると戻ってきた。彼は光を追い、ぬかるんだ地面を走る。途中で革靴が片方脱げたが、拾う時間もなく、裸足のまま石と枝を踏んだ。


根が二つに分かれた樫を越えると、森の空気が変わった。濡れた土の匂いへ、若葉と白い花の甘い香りが混じる。木々の間には、季節を越えて咲いた鈴蘭が白い花を並べ、その先で淡い光を放つ水面が見えた。


精霊の泉だった。丸い泉の中央から透明な水が湧き、岸辺には青い勿忘草と黄色い金鳳花が咲いている。夜空の月が水面へ映り、風もないのに細かな波が広がっていた。


アレンは外套を脱ぎ、ティカを両手へ載せた。左の羽はほとんど形を失い、背中には黒い筋が残っている。胸の動きも、指で注意深く触れなければ分からないほど小さくなっていた。


「着いたぞ。泉だ。目を開けろ」


ティカは動かなかった。アレンは靴を履いていない足のまま泉へ入り、膝の高さまで進む。水は雪解けの川のように冷たく、傷ついた足へ触れるたび鋭い痛みが走った。


泉の中央まで来ると、アレンはティカを水面へ浮かべた。小さな体は沈まず、白い卓布とリオの赤い布に包まれたまま、月の光を受けている。しかし、黒い毒は消えず、羽からまた一粒の光がこぼれた。


「なぜ戻らない。ここが泉なのだろう」


アレンは両手で水をすくい、ティカの羽へかけた。水面に波が広がるだけで、何も起こらない。もう一度、さらにもう一度かけても、黒い色は薄くならなかった。


泉の向こう岸に、一本の若木が立っていた。十年前より大きくなり、幹はアレンの腕ほどの太さになっている。根元には、幼いころ泥を洗ったときと同じ形の白い石が半分埋まっていた。


ティカが命を救われたと信じている木だった。けれど、アレンは木を助けようとしたわけではない。泥で汚れた靴を従者へ叱られるのが嫌で、水をかけただけだった。


「ティカ、聞け。おまえは間違っている」


アレンの声が泉へ落ちた。返事はない。それでも、今まで隠してきたことを、すべて伝えなければならないと思った。


「俺は木を助けたかったわけじゃない。靴の泥を落としただけだ。水筒も従者から奪った。水が足りなくなって、その従者は帰り道で喉を乾かしていた」


手ですくった水が、指の間からこぼれた。アレンは何度も瞬きをしたが、視界は滲んだままだった。頬を伝った雫が顎から落ち、泉の水へ混じる。


「おまえが信じたような、やさしい人間ではなかった。商人へ泥を浴びせた。侍女が手を切っても放っておいた。自分の像を建てるために薬草園を潰そうとした」


ティカの体から、また一粒の光が離れた。アレンは逃がすまいと両手で囲むが、光は指を通り抜けて消えていく。掌へ残る体が、少しずつ軽くなっていた。


「俺が変わろうとしたのも、最初は自分が死にたくなかったからだ。おまえを利用して、断頭台から逃げようとした。助かったら森へ追い返すつもりだった」


アレンはティカを胸へ押し当てた。白い卓布が涙と泉の水を吸い、薄く透けている。王子の礼服も泥と血で汚れ、胸元に縫いつけられていた青い宝石は、森を走る途中で一つ失われていた。


「それでも、おまえは俺を信じた。俺が自分で信じられないものを、ずっと信じていた」


ティカの指が、かすかに動いた。アレンは息を止め、顔を近づける。薄く開いた緑色の瞳が、月明かりを一筋だけ映していた。


「……殿下」


「ここにいる。泉まで来た」


「お靴が……片方、ありません」


「今は靴の話をするな」


「また、泥だらけですね」


ティカの口元がわずかに上がった。アレンは笑うこともできず、濡れた前髪を乱暴にかき上げる。涙を見られないよう顔を背けたが、ティカの小さな手が頬へ触れた。


「俺は、あの木を助けるつもりではなかった」


「でも、お水をもらった木は、うれしかったのです」


「偶然だ」


「最初は偶然でも、木は大きくなりました。私も、殿下に会えました」


ティカの声は途中で途切れ、目が再び閉じかけた。アレンは泉の水をすくい、若木の根元へ向けて流した。両手では届かないため、何度も水を運ぶ。


「だったら今度は、喜ばせるつもりで水をやる」


アレンは泉と若木の間を往復した。冷たい水で腕の感覚がなくなり、裸足の傷から赤い色が流れても止めない。若木の根元へ水が染み込み、濡れた土から春の匂いが立ち上がった。


「今度は偶然ではない。俺が、この木に育ってほしいと思って水をやった」


アレンはティカの前へ戻り、水の中へ両膝をついた。小さな手を自分の指で包み、額へ押し当てる。断頭台を避けたいのでも、立派な王子だと証明したいのでもなかった。


「だから、そばで見ていてくれ。俺がまた間違えたら怒れ。野草スープを飲ませてもいい。ヴィンスに苺をやっても、もう止めない」


ティカの羽から、最後の光が落ちかけた。アレンは指で受け止めようとしたが、触れることはできない。光は泉へ沈み、月の映っていた水面で小さく弾けた。


「お願いだ。俺を選んでくれ。もう一度、自分で決めて、俺のそばにいてくれ」


アレンの涙が、ティカの胸元へ落ちた。続いて泉の水へ一滴、二滴と沈む。静かだった水面から淡い緑色の光が立ち上り、若木の根元へ伸びていった。


濡れた幹から新しい芽が一つ開いた。泉の周囲に咲く鈴蘭が、風もないのに一斉に揺れる。水中を走った緑色の光はアレンの膝を通り、ティカの小さな体を包み込んだ。


黒くなっていた毒の筋が薄れ、消えかけた左の羽に細い輪郭が戻った。最初は糸ほどだった光が少しずつ広がり、若葉色の羽を作っていく。ティカの体から失われていた金色の粉も、一粒ずつ泉の上へ浮かんだ。


アレンは息をすることも忘れ、その光を見つめた。ティカの胸が一度、大きく上下する。次の瞬間、彼女は泉の水を吸い込み、小さなくしゃみをした。


「寒いです!」


「ティカ!」


アレンは彼女を両手ですくい上げ、胸元へ抱き寄せた。力を入れすぎて潰しそうになり、慌てて掌を開く。ティカは咳き込みながら起き上がり、まだ半分透けている羽を確かめた。


「殿下、泣いていますか?」


「泉の水が顔にはねただけだ」


「空からも泉のお水が降るのですね」


「今は黙っていろ」


ティカは弱い力で飛び上がり、アレンの鼻先へ抱きついた。羽はまだ十分に動かず、すぐに滑り落ちそうになる。アレンは両手で受け止め、今度は逃げられる隙間を残しながら胸元へ包んだ。


東の空が少しずつ白くなり、木々の間から朝日が差し始めた。光を浴びた泉には、アレンの泥だらけの姿と、手のひらで目を覚ましたティカが映っている。若木の枝では、濡れた葉の上に小鳥が一羽止まり、羽についた雨粒を払っていた。


「世界一やさしい王子様は、やっぱり本当にいました」


「まだ言うのか。俺は自分のために、おまえを助けたかっただけだ」


「はい。私がいないと困るのですね」


「野草スープを作る者がいなくなるからだ」


「では、帰ったら元気三倍スープを作ります!」


アレンは顔をしかめたが、今度は捨てるとは言わなかった。革袋からヴィンスの黒パンを取り出し、半分を口へ入れる。雨を吸ったパンは柔らかくなり、胃薬の苦い匂いが少し移っていた。


残り半分を小さくちぎり、ティカへ差し出す。ティカは両手で受け取り、泉の水へ浸してからかじった。二人とも泥だらけで、王城の晩餐会とは比べられない粗末な朝食だったが、アレンは一欠片も残さず飲み込んだ。


「城へ帰るぞ。待っている者がいる」


「ローレンス様を断罪するのですか?」


「まず、おまえがリオへ布を返す。それからヴィンスへ胃薬を返して、エレノアへ礼を言う。ローレンスのことは、そのあとだ」


アレンは立ち上がり、ティカを肩へ載せた。左の羽はまだ小さく、金色の光も弱い。それでも彼女は自分でアレンの襟へつかまり、戻る場所を選ぶように肩へ腰を下ろした。


森の出口へ向かう前に、アレンは若木の根元へもう一度だけ泉の水をかけた。靴の泥を落とすためではない。育ってほしいと考え、自分の手ですくった水だった。


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