一 棚に戻る椀
箱宮の青葉百貨店で開かれた郷土工芸展は、地下の食品売り場ほどには人が来なかった。上杉匠は、倉淵塗の棚から三歩ほど離れた場所に立っていた。
朱の椀、黒塗りの盆、菓子皿、小鉢。工房から運んできた時には充分な数に見えたが、白い展示棚へ並べると、隣の区画にある絵付けの陶器や藍染の布に比べて、妙におとなしく見えた。漆の表面は照明を受けて艶めいていたが、それだけで人を引き寄せるわけではなかった。
昼前、一人の女性が足を止めた。五十代くらいだった。朱の椀を両手で持ち上げ、顔をわずかに傾けて光の映り方を確かめてから、指で縁をなぞった。
「きれいね。軽いし」
「ありがとうございます」
「これ、毎日使っても大丈夫?」
「はい。ただ、食洗機は避けていただいた方が長く使えます」
女性の指が止まった。
「ああ。食洗機、駄目なの」
「絶対に駄目というわけではありません。でも、漆には負担がかかります」
「そうよねえ」
女性は笑った。
「朝なんか全部一緒に入れちゃうから」
椀が棚に戻った。置く手つきは丁寧で、布の上で音もしなかった。匠は女性が去ってから、その椀を少しだけ右へ回した。値札が正面から見えすぎていた。
午後にも似たことがあった。若い夫婦が小鉢を手に取り、夫が底の値札を見てから、何も言わずに妻へ渡した。妻は数字に目を落とし、「いいものなんだろうけど」と言って元の位置へ戻した。
二人はそのまま棚を離れ、隣の売り場で色違いのマグカップを二つ選んでレジへ向かった。迷う様子はなかった。
匠には聞こえていた。悪いとは言われていない。高すぎるとも、使いにくいとも、古いとも言われていない。それでも、買われなかった。
夕方になり、会場の客がさらに減ると、匠は売れ残った品を箱へ戻し始めた。椀を薄紙で包み、盆の間へ緩衝材を入れる。箱の中で縁同士が当たらないよう、向きを少しずつ変えた。紙の擦れる乾いた音が、閉場前の売り場に続いた。
祖父の源一郎なら、包み方が甘いと言ったかもしれない。匠が弟子に入ったばかりの頃、源一郎は一度包んだ椀を全部開かせたことがある。
「客に渡す前に傷つける職人があるか」
それだけ言った。匠はその日の夜まで包み直した。
今ならわかる。包むところまでが仕事だった。では、棚に置いた後は誰の仕事なのだろう。匠は最後の朱椀を箱へ入れ、蓋を閉じた。
翌朝、倉淵の工房で箱を開けた。山側の窓から冷えた空気が入り、乾いた木の匂いに漆の匂いが混じった。百貨店では明るく見えた朱が、ここへ戻ると落ち着いて見える。
椀を棚へ戻す。箱を畳む。作業台を拭く。それだけで、昨日の催事がなかったかのようになった。
壁際には、源一郎が使っていた古い刷毛が残っていた。毛先が割れ、柄には漆が黒く固まっている。もう使えない。
作業台の下には、源一郎の仕事帳や注文控えを収めた木の書類箱があった。帳面は今も仕事に使っている。箱の底には、古い新聞の切り抜きや走り書きの紙片が、整理しかけたまま残っていた。
道具は使うほど傷む。紙には、何のために残したのかわからないものもある。匠はそうした紙片を、まだ捨てられずにいた。
源一郎の仕事帳には、木地や塗りの注文に混じって、人の名が何度も出てくる。倉淵塗は、村の名刹・天台寺で僧侶が使う椀や膳を、土地の木地師と塗師が作ったことに始まると伝えられている。倉淵は漆まで土地で採れる数少ない産地で、江戸期には箱宮藩の庇護を受けながら技術を積み上げてきた。けれど、近年は家庭で漆器を使う機会そのものが減り、仕事が減るにつれて木地師も塗師も少なくなっていた。
匠が工房に入ってから、倉淵塗の仕事が一つの工房だけで閉じていないことはすぐにわかった。木地を挽く者がいて、山で漆を掻く者がいる。塗りに使う道具にも、それを作り、直す人の仕事がつながっていた。源一郎の頃には、必要になれば声をかける相手が村の中にいたという。今の匠は、仕事を受ける前に、誰へ頼めるかを一度考えることが増えていた。
注文が減れば、作る側も減る。作る側が減れば、注文が来ても以前と同じようには回せない。椀一つなら自分の手元で仕上げられても、その前後にある仕事まで一人で代われるわけではなかった。仕事帳に並ぶ名前のうち、今も同じ仕事を続けている人と、もう頼めない人の区別が、匠にはつくようになっていた。
源一郎は、天台寺から頼まれた椀や膳の修繕も手がけていた。古い塗りの状態を見極め、使い続けられるように手を入れる。新しく作る仕事だけが倉淵塗ではない。けれど、直せる人が残っていることも、直す道具や材料が手に入ることも、匠が子どもの頃ほど当たり前ではなくなっていた。
百貨店から戻ってきた椀は、きちんと作れている。それでも売れなかった。作る技術が残っていることと、その仕事がこの先も続くことは、同じではなかった。
父の義一なら、もう使えない刷毛や、何のためのものかわからない紙まで取っておく理由がわからないと言うかもしれない。義一は倉淵塗を継がず、建築を学んで倉淵を離れ、箱宮市内で設計事務所を持った。
匠も箱宮市内で生まれ育った。倉淵は、子どもの頃から祖父の源一郎に会うため何度も通った場所だったが、育った町ではない。
匠は中学を出る頃には、源一郎のところへ入るつもりだった。義一は高校へ行けと言った。仕方なく匠は進学した。だが、半年もたなかった。
学校を辞め、源一郎の工房へ入ると言った時、義一は食卓の向こうで長く黙った。
「半端な覚悟で職人などできない」
「半端じゃない」
「十五や十六で何がわかる」
「父さんはやらなかっただろ」
そこから先は、今でも思い出したくなかった。最後に義一が言った言葉だけは残った。
「そこまで言うなら、うちの子じゃない」
源一郎が亡くなってから、必要なことなら話すようになった。親子に戻ったわけではない。少なくとも匠は、そう思っていた。
昼前、工房の外で車が止まった。義一だった。五十代に入った義一のこめかみには、白いものが混じるようになった。それでも背筋は伸び、丸めた図面を小脇に抱えた姿には、現場を歩き慣れた設計士のきびきびしたところがあった。
靴には白い土がついていた。入口で新聞紙を広げ、靴底を拭く。その手つきだけは、匠が子どもの頃から変わらない。
「役場?」
「ああ」
「道の駅ですか」
義一が図面を作業台の端へ置いた。椀から少し離した場所だった。
「造成が始まる。売り場側も詰めるらしい」
倉淵に新しい道の駅を造る計画は、村ではもう知らない者の方が少なかった。正式な登録はまだ先で、役場では翌二〇〇二年夏の登録発表を見込み、十一月十三日の「うるしの日」に開業する予定を立てていた。国道沿いに駐車場を設け、農産物と加工品を売る。食事ができる場所も造る。倉淵塗も扱う。
人が来る。物が売れる。役場の説明を聞けば、話は簡単だった。
「見てもいいですか」
義一が図面を広げた。匠は手を洗ってから近づいた。物販、休憩、食堂、情報、事務室、搬入口。細い線の中に、人のいない建物があった。
「倉淵塗は?」
「今はこのあたりに置く予定だ」
義一が物販の壁側を示した。
「農産物とは分ける?」
「大きくは分けない。売り場全体の中で工芸品の棚を取る案だ」
「これだけ?」
「最初から専用エリアを取れるほどの品数はないだろう」
言い方は冷たくなかった。だから余計に腹が立った。事実だった。
その時、工房の戸が開いた。
「おう、義一さんまでいたか」
入ってきたのは大隅吾郎だった。倉淵塗の生産者組合で長くまとめ役をしてきた職人だった。源一郎より少し若く、義一より上の世代になる。今も椀と盆を卸している。匠が弟子になった頃から、出来を見ると「まだ若い」と言った。
「道の駅の図面だろ」
大隅が遠慮なく覗き込む。
「棚は取れそうか」
「この辺りになると思います」
義一が答えた。
「充分だ。最初から欲張っても仕方ない。椀と盆を揃えて、菓子皿と箸。あとは土産に買いやすい小物が少しあればいい」
匠は百貨店の箱を見た。
「昨日、青葉の工芸展に出しました」
「ああ」
「見てはもらえました。でも、ほとんど売れてません」
「百貨店と道の駅は違う」
大隅は即座に言った。
「道の駅へ来る人間は、その土地の物を探す。倉淵塗と書いてあれば手に取る」
「手に取った後は?」
「品がよければ買う」
「昨日も手には取ってました」
大隅の眉が少し上がった。
「食洗機の話で手が止まった。値札を見て戻した客もいた。毎日使うには気を遣うし、値段も安くない。そういうふうに見られてるんだと思います」
「だから小物も置くんだ」
「何を?」
「それを若い者が考えるんだろう」
大隅は笑った。
二十四歳の匠は、倉淵塗の職人の中では確かに若い。十六で源一郎の工房に入り、修業を始めてから八年になる。源一郎が亡くなってからは、まだ教わりたいことをいくつも残したまま、一人の職人として仕事を続けてきた。
「俺たちが全部考えたら、おまえらの仕事がなくなる」
匠は笑えなかった。倉淵は細工上手の商い下手、と子どもの頃から何度か聞かされた。半ば自嘲のように使われる言葉だった。昨日、百貨店で棚に戻された朱椀が頭に浮かんだ。
「それで売れるんですか」
大隅の顔から笑いが消えた。
「何が言いたい」
「椀を並べる。盆を並べる。倉淵塗と書く。それで売れなかったら、また場所のせいにするんですか」
「匠」
義一が名前だけ呼んだ。大隅は怒鳴らなかった。図面から顔を上げ、工房の棚を見た。
「俺らが若い頃はな」
声が低くなった。
「倉淵塗って名前を、外で覚えてもらうところからだった。椀も盆も持って歩いた。百貨店にも出した。贈答に使ってもらえるようになるまで、ずいぶんかかった」
大隅は匠を見た。
「それを、おまえは簡単に古いと言うのか」
「言ってません」
「顔に出てる」
大隅は図面をもう一度見た。
「ただ、青葉で売れなかったからって、今までやってきたことまで間違いだったことにするな」
帰り際、大隅は棚の椀を一つ見た。
「これは悪くない」
「知ってます」
「そういうところだけ源一郎さんに似たな」
戸が閉まった。匠はしばらく黙っていた。義一が図面を巻いた。
「言いすぎたと思うか」
「思いません」
「なら、顔に出すな。仕事で言え」
匠は睨んだ。
「父さんまで説教ですか」
「違う。俺もあの人とは、同じ道の駅をつくる側だ」
義一は図面を筒へ戻した。
「小物を考えるなら、橘さんに聞いてみろ」
「橘さん?」
「親父と同じように、昔の倉淵塗を知ってる。昔の売り物なら、俺より詳しい」
義一が工房を出ると、砂利を踏む音が遠ざかっていった。匠は棚の朱椀を一つ手に取り、縁に指を沿わせる。手のひらへ吸いつく漆の肌も、指先に重さを感じさせない軽さも、昨日の客が確かめていったものだった。
悪くない。それは昨日の客も知っていた。匠は椀を棚へ戻した。その隣に、何があれば手が止まるのか。まだ、形は見えなかった。




