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箱庭市  作者: チケイズム
第二章 赤馬星
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二 掌の赤馬

 橘誠二郎(たちばなせいじろう)の家へ行ったのは、その日の夕方だった。八十を越えた橘は、もうまとまった注文を取っていない。それでも倉淵塗の生産者組合では会長を務め、塗りや木地で職人同士の意見が割れれば、最後には橘のところへ話が持ち込まれた。

 源一郎と同じ時代から仕事をしてきた職人で、匠がまだ木地をまともに研げなかった頃には、仕上がった椀を一目見ただけで「下地からやり直せ」と言ったこともある。

 作業場は今も残っていた。砥石も小刀も、使う順番どおりに並んでいる。刃の減った小刀にも、柄の黒くなった刷毛にも、手入れを怠ったものは一つもなかった。橘は台の前に腰を下ろし、古い砥石を布で拭っていた。

「道の駅か」

「はい」

「大隅に何か言ったな」

「聞いたんですか」

 橘は笑った。

「昼に来た」

「早いですね」

「腹を立てた時のあいつは話が早い」

 匠は事情を話した。百貨店で椀が戻されたこと。新しい道の駅に同じ品を並べるだけでは、同じ結果になる気がすること。持ち帰りやすい小物が要ると思っていること。

 橘は布を置いたまま、黙って聞いていた。

「箸置きとかですかね」

「作りたいのか」

「まだわかりません」

「なら作るな」

 匠は顔を上げた。

「売り場の穴を埋めるためだけなら、何を作っても同じだ」

 橘は立ち上がり、奥の棚へ行った。小引き出しから茶色く変色した紙包みを取り出し、匠の前の台へ置く。

「これを見たことがあるか」

 紙の折り目を開くと、中から小さな赤い馬が出てきた。掌に収まる大きさだった。

 首は短く、腹は丸い。四本の脚は一本ずつ彫り分けてあるが、精巧な馬ではない。赤い漆はところどころ薄くなって下地の黒が覗き、背だけ妙に艶が残っている。誰かが何度も触った跡だった。

「赤馬」

 橘が言った。

「聞いたことくらいはあるだろ」

「祖父から」

「俺が子どもの頃には、もうほとんど作ってなかった。もっと前は、あたご温泉へ歩いて向かう人が倉淵で買っていったそうだ。旅の守りだとか、災難除けだとか言ってな」

「橘さんも売ったんですか」

 橘は掌の赤馬を見た。

「いや。俺たちの頃には、そういう土産物じゃなくなってた」

 橘は赤馬を匠の方へ向けた。

「若い職人が木を削る稽古に、昔の形を彫ることがあった。これは源一郎さんが、俺に持たせるために彫ったやつだ」

 匠は思わず橘を見た。

「じいちゃんが?」

「上手くないだろ」

 橘が笑った。

「今のおまえが作った方が、形だけならましだ」

 匠は赤馬を持ち上げた。軽い。椀とは違う。手の中で向きを変えるために作られたような丸みがある。

 橘は赤馬を見た。

「これは俺が持っていったものだ」

「どこへ?」

「戦地だよ」

 匠の指が止まった。

「源一郎さんが持ってけと言った。帰ってきたら返せとも言わなかった」

「ずっと?」

「ずっとだ」

 橘が背の艶を指で示した。

「これだけ触れば、こうなる」

 匠は赤馬を掌へ戻した。工芸展の椀は、客が手に取って棚へ戻した。この赤馬は、源一郎が橘のために彫った。それを橘が懐へ入れ、海を越えて持っていき、そして倉淵へ持ち帰った。

 最初から、渡す相手がいた。

「作ってみてもいいですか」

「俺に聞くことじゃない」

 橘は赤馬を見た。しばらくして、匠の方へ差し出した。

「持ってけ」

 匠は手を出さなかった。

「いいんですか」

「見るんだろ」

「写真でも」

 匠が言い終える前に、橘が返した。

「写真でわかるなら、職人はいらん」

 橘は赤馬を匠の掌へ置いた。

「源一郎さんが俺に持たせたものだ。俺はもう、充分持った」

 匠は赤馬を握らず、両手で受けた。

「必ずお返しします」

「返す時は、おまえのも持ってこい」

「同じものを作れってことですか」

「逆だ」

 橘は言った。

「同じものを作れば売れると思うなよ」

「わからなかったら?」

「また来い」


 工房へ戻った匠は、橘から預かった赤馬を作業台の端へ置き、すぐ木を選んだ。同じくらいの大きさに切る。首の傾き。腹の丸み。四本の脚。

 赤馬を手に取っては戻し、正面から見る。横から見る。底も見る。指で背の丸みを確かめる。源一郎が作った形を追うことに、迷いはなかった。夜までに一体できた。

 翌日、もう一体。三体目を削ったところで、匠は作業を止めた。机の上に並べる。どれも形は整っている。彫り跡は滑らかで、角の立ち方も正確だった。

 橘の古い赤馬より、ずっときれいだった。それなのに、何かが違った。匠は一体を掌へ載せた。脚が細い。今にも折れそうに見える。

 橘の赤馬を隣へ置く。赤い漆はところどころ薄くなり、角が丸い。背には、何十年も指で触れられた艶が残っている。

 匠は窓際へ二体を持っていき、光へ傾けた。橘の赤馬は、漆の剥げた境目が丸く落ち、木地そのものの角が取れている。腹の下の削り跡まで、擦れて滑らかになっていた。

 匠は二つの前脚を見比べた。橘の赤馬は、付け根から先まで擦れて角が落ち、わずかに痩せている。自分の試作は、その痩せた幅まで最初から形として写していた。そこでようやく気づいた。自分は、源一郎が作った形だけを写していたのではない。橘が持ち歩き、握り続けた年月まで、形だと思って写していた。

 旅の荷物へ入れるなら、この脚では危ない。匠は自分の赤馬を布で包み、軽く掌で押した。前脚がわずかにしなる。そこで手を止めた。

 売り場で子どもが握るかもしれない。鞄の中で荷物に挟まれるかもしれない。そのたびに「丁寧に扱ってください」と言うのなら、百貨店の椀と変わらない。

 三体を横へ置いた。半日後、首の長さを変えた。脚を短くし、腹を少し低くする。脚の間の彫り込みを浅くし、前脚二本、後ろ脚二本をそれぞれ厚みのある形にまとめる。

 形を変えるたび、橘の赤馬から遠ざかった。それでよかった。ただ、今度は何を残しているのかわからなくなった。赤く塗った木馬なら、何でも赤馬になるのか。夜になっても、匠には答えが出なかった。


 翌朝、匠は借りていた古い赤馬を布に包み、自分の試作を一体だけ持って橘の家へ行った。

「もう作ったのか」

「三つ」

「早いな」

 匠は包みを開き、まず古い赤馬を橘へ返した。それから、自分が最初に作った一体を台へ置いた。

「全部駄目です」

「それも早いな」

 橘が掌へ載せる。

「よく似てる」

「似すぎました」

「そうか」

 橘はそれ以上言わなかった。

「赤馬って、何だったんですか」

「何だったって?」

 匠は橘の掌の赤馬を見た。

「土産物なのか、お守りなのか。じいちゃんは、どういうつもりで作ってたんですか」

「本人に聞け」

「いないから聞いてます」

 橘は匠の試作を返した。

「なら、俺が源一郎さんの代わりに答えるのは違うだろ。天台寺へ行ったか」

 匠は返された赤馬を握らず、掌に載せたままだった。

「最近は行ってません」

「なら行け」

「寺の赤馬は、昔盗まれたって聞いてます。じいちゃんから」

 橘は頷いた。

「でも、寺に何か残ってるんですか」

「残ってないものもある」

 それだけだった。


 数日後、匠は集落の裏手から山道を上り、天台寺へ向かった。道の両脇に杉木立が続き、湿った土と苔の匂いが立ちこめている。源一郎は寺の椀や膳の修繕を頼まれることがあり、匠も子どもの頃に何度か源一郎についてきた。

 石段を上がりきった先に、小さな堂があった。住職は匠の顔を見ると、少し目を細めた。

「源一郎さんと来て以来ですね」

 堂の中には、低い古い台座があった。何も置かれていない。木は黒ずみ、長い年月で角が丸くなっている。匠が子どもの頃から、そこは空いていた。住職に尋ねると、赤馬が置かれていた場所だと教えられた。

「盗まれたのは、あなたが生まれる前です」

 住職は言った。

「小さな寺でしたからね。今のように防犯設備もありませんでした」

「写真はありますか」

「一枚だけ」

 古い写真を見せてもらった。橘の赤馬とは違った。ずっと大きい。首も太い。胸が前へ出ている。赤いはずの表面は、白黒写真の中で暗く潰れていた。

「これが赤馬の元なんですか」

「元、という言い方が正しいかはわかりません」

 住職は写真を見た。

「寺の赤馬と、旅の人が買った小さな赤馬が、いつから同じ話になったのか。それもはっきりしません」

 匠は写真をもう一度見た。わからない。その言葉に、かえって安心した。全部知っている人はいない。だったら調べるしかない。


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