三 誰が持ち帰るのか
村役場の会議室には、見慣れない若い女性が一人いた。道の駅の物販について、生産者と役場が集まる打ち合わせだった。大隅がいる。義一も建物側の説明のために来ている。
役場の担当者である遠藤和男が資料を配り、その若い女性は少し離れた席でノートを開いていた。
「こちら、秋庭信乃さんです」
遠藤が紹介した。
「東京の大学で地域政策を学んでいて、今回はゼミの調査で倉淵へ来ています。箱宮市のご出身です」
信乃は立ち上がった。
「秋庭信乃です。今日は勉強させていただきます。よろしくお願いいたします」
声は若い。それでも、年長者の多い会議室で気後れしているようには見えなかった。
大隅が笑った。
「学生さんか。若い人にも道の駅を使ってもらわないとな」
「はい」
信乃はそれだけ答え、ノートへ視線を戻した。
会議は遠藤の説明から始まった。物販では農産物と加工品を中心に扱う。倉淵塗は地域を代表する工芸として売り場の一角で扱う。季節ごとの企画展示も考える。匠には、どれも棚に何を置くのか決まっていなくても言える話に聞こえた。
「倉淵塗としては、椀、盆、小皿、箸を中心に考えています」
大隅が言った。
「小物も何点か検討します」
遠藤がメモを取る。
「価格帯は?」
「千円台から用意できればいい」
匠は顔を上げた。
「何を千円台で作るんですか」
「これから決める」
「開業まで、そんなに時間がありません」
「だから決めるんだ」
大隅が言った。
「おまえも何か作ってるんだろ」
「まだ出せません」
「なら、出せるものから話すしかない」
匠は続きを口にできなかった。見せられる小物は、まだなかった。
遠藤の前では、農産物、加工品、食堂の資料が順に開かれた。数や搬入日が決まるたび、表の欄が埋まっていく。倉淵塗の小物だけは、品名も価格も空いたままだった。
会議の終わりに義一が棚の配置案を示すと、匠は口を挟みかけた。だが、先に置く商品を決めなければ、棚の位置を変えてもらう理由を示せなかった。
会議が終わり、義一は遠藤に呼ばれて廊下へ出た。匠が椅子を戻していると、信乃が近づいてきた。
「上杉匠さんですよね」
「そうです」
「何か作っていらっしゃるんですか」
「なぜ?」
「先ほど、大隅さんがそうおっしゃっていたので」
「まだ商品じゃないです」
信乃は手元の資料へ目を落とした。
「倉淵塗の沿革資料に、昔の小物として『赤馬』という名前がありました。もしかして、それですか」
匠は顔を上げた。
「知ってるんですか」
「名前だけです。意味まではわかりません」
信乃がノートを開いた。
「少し、お話を聞いてもいいですか」
「俺に聞くんですね」
「本人に聞かずに決めつける方が失礼なので」
匠は少しだけ笑った。
「どうぞ」
信乃は日付を書いた。
「道の駅では、どんな人が買うと考えていますか」
「それを聞くために東京から来たんですか」
「いえ。私もわからないので聞いています」
「地域政策を勉強してるんでしょう」
信乃は鉛筆を紙から離さなかった。
「倉淵塗は勉強していません」
信乃は平然と言った。
「わからないから来ました」
匠は返事に詰まった。少し前なら、外から来た学生に何がわかると思っただろう。けれど信乃は、わかった顔をして来たわけではなかった。
匠は、百貨店で手に取られた椀が棚へ戻されたことを話した。食洗機の話で止まった指と、値札を見て小鉢を戻した夫婦のことも伝えた。
「では、道の駅では違うものを?」
「そのつもりです」
「赤馬?」
「まだ決めてません」
匠は鞄から、布に包んだ試作を取り出した。橘の赤馬を写しすぎた最初の一体ではない。脚を太くし、腹を丸くした四体目だった。信乃が手を出しかけ、止めた。
「触っても?」
「どうぞ」
信乃は両手で受け取った。手の中で一度回す。底をのぞき、横から見て、指先で背の丸みをなぞった。
「軽いですね」
「そうですね」
「何に使うんですか」
「使いません」
答えてから、匠は自分の言葉に引っかかった。
信乃が赤馬を横へ向けた。
「飾る?」
「たぶん」
たぶん。何に使うのか。誰が買うのか。何も決まっていない。
信乃が赤馬を返した。
「かわいい、と言っていいものなんでしょうか」
「それも、わかりません」
「難しいですね」
「ええ」
信乃はノートに何かを書いた。匠はその文字が気になった。
「何を書いたんですか」
「『受け取る。向きを変える。底を見る』」
「それだけ?」
「今やったことだけです」
匠は赤馬からノートへ目を移した。
「感想は?」
信乃はノートへ目を落とした。
「別に書きます。混ぜると、後で自分に都合よく読んでしまいそうなので」
匠は赤馬を布へ戻した。
工房へ帰る途中、自分の赤馬を信乃が手の中で回したことが残った。百貨店では、椀も小鉢も手に取られ、結局棚へ戻された。信乃も赤馬を返した。もしこれが売り物だったら、その先はどうなるのだろう。
工房へ戻り、匠は赤馬を掌へ載せた。信乃は「買う人」を聞いた。匠は橘の赤馬を思い出した。あれは買われたものではない。源一郎が橘のために彫り、戦地へ持たせたものだった。
一方、あたご温泉へ向かう湯治客は、旅の途中で赤馬を買っていった。どちらも、手にした人と一緒に倉淵を離れている。
匠は作業帳を開いた。紙の上に一行だけ書いた。
誰が持ち帰るのか。
その下は、まだ空けた。
数日後、信乃から連絡があった。古い観光案内に赤馬の記載が見つかったという。工房へ来た信乃は、コピーを三枚持ってきた。信乃が最初に見せた古い案内には、短く書かれていた。
赤馬。倉淵塗の小さき守り馬。湯治の道中、旅の守りとして求める者あり。
信乃は、それとは別の紙も出した。
「天台寺でも聞いてきました。ただ、住職さんも、どこまでが記録でどこからが言い伝えかは分けて考えたいとおっしゃっていました」
「見せてください」
昔、倉淵には多くの馬がいた。
戦国の頃には軍馬を求めて土地を争った者もいた。
大きな地震で山が崩れ、人と馬が失われた。
犠牲者を弔うため都から僧が来た。
僧が夢枕の仏に従い、北向きの寺を建て、申の方角へ赤い馬を置いた。
その後、無数の光る馬が天へ上がり、星になる夢を見たと伝えられている。
村では、その星々を赤馬星と呼んだ。
匠は途中から、並んだ文を黙って追った。昔、源一郎から聞いた話が混じっている。子どもの頃は、寺の昔話として聞き流した。寺の赤馬と旅の赤馬の関係は住職にも尋ねた。だが、そこへ赤馬星の伝承まで重ねて考えたことはなかった。
匠が顔を上げた。
「写真、もう一度見たいです」
「天台寺の?」
信乃が聞き返すと、匠は頷いた。
信乃は天台寺で複写させてもらった写真を鞄から取り出し、作業台に置いた。
匠は灯りを近づけ、今度は形全体ではなく細部を追った。右前脚が欠けている。胴の横にも、汚れとも塗りむらとも取れる暗い跡があった。
源一郎は、この赤馬を見たことがあったのだろうか。そう思って、作業台の下の書類箱を引き出した。黄ばんだ紙片を一枚ずつめくっていくと、赤馬という文字のある紙が二枚あった。一枚の端に、擦れた墨で源一郎の字が残っていた。
右前脚、古傷あり。胴、塗り残り星形に見える。
匠は写真と見比べた。
「これ、同じところですね」
信乃も写真へ顔を寄せた。
「おじいさまが見た時には、もう欠けていたんですね」
「たぶん」
「最初からこういう形だったわけではない?」
「脚は違うと思います」
匠は写真の右前脚を見た。
「塗りの方はわかりません。じいちゃんも『星形』じゃなくて、『星形に見える』って書いてる」
信乃がノートへ書き写した。
「赤馬星と関係がある可能性は?」
「それもわかりません」
匠は首を振った。
「今の俺がそう見たいだけかもしれない」
写真を机へ置く。古いものには、作った時の形だけが残っているわけではない。欠ける。擦れる。塗りも変わる。橘から預かった小さな赤馬もそうだった。
その夜、匠は赤馬の試作を一体削り直した。寺の赤馬の太い胸は写さなかった。橘の赤馬の細い脚も写さなかった。掌に載せ、親指を自然に背へ置ける丸みだけを探した。




