八 残った仕事
一月下旬、市長査定が行われた。 庁議室の長机に副市長と財政部長、財政課長が並び、その向かいへ企画政策部長と榊原が座った。翔太は榊原の隣に着いた。検討チームの事務局として、事業の内容を説明する役だった。
信乃は上座で査定資料を開いた。財政課で保留となった九つ目の事業は、この日の最後に置かれていた。資料には、財政査定で指摘された事項に加え、会派説明の記録も付いている。
財政課長が三点を読み上げた。候補地調査という名目で一箇所だけの測量費を計上していること。当該用地は月極駐車場として貸付中で、その整理が要求に含まれていないこと。整備する施設の性格が定まっておらず、事業費の根拠を示せないこと。
「要求内容を直すとしたら、どうなりますか」
副市長が榊原に聞いた。
「測量と、候補地を前提にした技術検討は外せます。ただ、それだけなら候補地を残した基本構想です」
翔太は手元の積算表を開いた。
「その場合は、千五百万円です」
信乃は金額ではなく、事業概要の頁を見ていた。
「その基本構想は、八駅の調査より先に作るんですか」
「予算上は、同じ年度に並行して進める形です」
信乃は二本の要求書を見た。八駅を調べる事業と、九つ目を検討する事業。常任委員会の後に分けた二冊が、同じ卓上に並んでいる。
榊原は八駅側の要求書を開いた。
「もう一つあります。候補地そのものを外して、こちらと一本に戻す方法です。八駅の実態調査と、その結果を踏まえた基本方針の策定までを一つの事業に組み直します。新しい施設が必要かどうかも、その中で判断します」
副市長が二冊を見比べた。
「それなら、所信表明で言った調査自体は続けられますね」
「九つ目は、事業名からも外すんですか」
「外した方が筋は通ります。積算は組み直しになりますが、制度上はできます」
信乃は会派説明の記録を開いた。候補地が旧箱宮市の中心市街地活性化計画と重なっていたこと、その計画を県の側で秋庭県議が後押ししていたことも記されている。少し先には、黒川の「何が足りないのです」という問いと、自分の「そこを、説明できるところまで調べます」という答えがあった。
「一本に戻せば、予算にはできるんですね」
「できます。候補地も九つ目も前提にせず、基本方針を作る事業として組み直すなら」
信乃はしばらく二冊を見比べていた。
「でも、常任委員会で順番を問われて、会派説明では、この土地が以前の計画と重なっていたことまで分かりました。そのあとで一本に戻したら、『九つ目』のための予算を、形を変えて残したように見えませんか」
「基本方針まで組み直すなら、単なる名目変更ではありません。そこは説明できます」
「それは分かります。でも、今はその説明から始めるべきではないと思います」
信乃は九つ目の要求書を閉じた。
「この要求は落としてください」
財政課長の鉛筆が止まり、財政部長が全額かと確かめた。信乃は「はい」と答えた。
副市長が信乃を見た。
「市長。所信表明で『九つ目』まで言っています。ここで落とせば、撤回と受け取られます」
信乃は少し間を置いた。
「分かっています」
「九つ目と言ったのは私です。だからこそ、残すために要求の形を変えることはしたくありません。まず八駅を調べます」
信乃は八駅側の要求書を開いた。
「こちらは残してください」
「七百万円で再査定したものですね」
財政課長が確かめると、信乃はうなずいた。
「その結果を市として受け取ってから、次を考えます。場所が必要なのかも、それからです」
財政課長は九つ目の査定欄に線を引いた。それまで何度も書き直されてきた要求書は、その一本の線で翌年度予算から外れた。
査定を終えて企画政策課へ戻ると、榊原は九つ目の要求書を自席に置き、翔太を打合せスペースへ呼んだ。財政課へ返す査定資料と、残った八駅側の修正分を仕分ける必要があった。
榊原は二本の査定結果を見比べた。
「八駅の方は残ったな」
翔太は八駅側の要求書を開いた。常任委員会のあとに要求書を二本へ分けた時、この仕事まで九つ目と一緒に止まるかもしれないと思ったことを話した。現地を回ってからは、九つ目がどうなるかにかかわらず、八駅を調べる仕事は残したかった。
「最初は一本で通せると思ってた。委員会のあと、分ければ八駅側は残せるとも思った。だから止めなかった」
榊原は落ちた方の要求書へ視線を移した。
翔太も、二本に分けた時は八駅側を残すことしか考えていなかった。九つ目から八駅の調査を外したあと、何を根拠に候補地の調査を要求するのかまでは考え直さなかった。
「一本に戻す案も、ありましたよね」
榊原はすぐには答えなかった。
「あった。候補地を外して、八駅の調査と基本方針を一本にする方法はあった。それでも下ろしたのは市長の判断だ。ただ、査定までその案を出せなかったのは俺たちの問題だ」
「市長は八駅をあれだけ知っていた。そのうえで九つ目と言った。レクのあと、副市長からも箱宮側で使えそうな土地を見ておけと言われた。俺も、考えはもう少し先まで固まっているものとして受けた」
榊原は要求書の候補地欄を指で押さえた。
「ただ、土地を当たっておけという話と、一つの土地に測量費まで載せる話は別だ。そこで上へ返さずに進めたのは俺だ」
「僕も、場所を一つ置けば要求にできると思いました」
大浜の資料を最初に整理した時、翔太は製氷機の所有者欄へ「漁協」と入れ、榊原に消すよう言われた。推定で埋めるのは整理ではない。分からない欄は、空欄のまま出せと言われた。九つ目が何なのかも、最後まで分からないままだった。それなのに、いちばん大きな空欄に、番地を書いた。
「分からないままなら、要求にしない方がよかったんでしょうか」
「空欄のままじゃ、予算要求にはならない。だから、その前で戻すべきだった。何を調べる事業にするのかを市長に返して、方針から組み直す。そこは、お前一人で埋める仕事じゃない」
榊原は九つ目の要求書を引き寄せた。
「それとは別に、あの土地のことは俺の落ち度だ。三枝、台帳には何て書いてあった」
「中心市街地整備事業用地です」
榊原は一度うなずいた。
「俺もその記載は見た。合併で止まった旧市の事業用地のどれかだと思って、それ以上は追わなかった」
榊原はそこで言葉を切った。
「でも、あの計画は覚えている。俺が入って七年目の頃だ」
「覚えていたんですか」
「覚えていた。なのに、これがその用地かどうかを確かめなかった」
榊原は翔太を見た。
「お前は知らなかった。俺は知っていた。調べれば済んだ。調べろと言わなかったのは俺だ」
翔太は落ちた要求書の表紙を見た。関係課へ説明し、見積もりを取り、何度も書き直してきた。翌年度、この仕事は始まらない。
「調べる金が落ちるのは、めったにない」
榊原は言った。「議会に削られたんじゃない。市で下ろした。次に出すなら、なぜ今回は下ろしたのかから説明が始まる」
「八駅を調べた結果、本当に必要だと分かったら、また九つ目を要求できますか」
「出せる。その時は、前と何が違うのかまで説明する。そこからだ」
翔太は九つ目の要求書を財政課へ返す綴りへ移し、残った八駅側の要求書を自席へ持ち帰った。
二月、翌年度予算案が発表された。九つ目の駅に関する事業は、どの頁にもなかった。
記者発表の後、市政記者クラブの記者が信乃を呼び止めた。
「九つ目の道の駅は、事実上の白紙撤回ですか」
「候補地を調べる前に、既存の八駅を調べます」
「会派からの反対を受けたということですか」
「議会にかける前に、市で下ろしました」
「なぜですか」
信乃は少し間を置いた。
「順番を戻します」
翌朝の新聞には、「九つ目の駅、事実上白紙」という見出しが載った。
三月、第一回定例会の予算特別委員会。
翔太は資料席に、残った八駅側の要求書を一冊だけ置いた。
総括質疑に入ると、委員長が黒川の発言を許可した。
「九つ目の駅に関する経費が、予算案にありません。構想は白紙になったと理解してよろしいですか」
委員長に指名され、信乃が答弁書へ目を落とした。
「施設の候補地を先に示したことで、建設を前提とした構想だという受け止めを招きました。順序については見直す必要があります」
黒川は残った調査費の欄へ指を移した。
「こちらは残っていますね。それは、九つ目の駅がなくてもできる仕事ではありませんか」
「はい。だからこそ、先に行うべきだったのだと思います」
翔太の手元にも同じ答弁書がある。次の段落には、九つ目の構想とのつながりを説明する文章が用意されていた。
黒川はもう一度挙手した。
「調査の結果、新しい施設を造らないという結論もありますか」
委員長から再び指名された信乃は、今度は答弁書を見なかった。
「あります」
翔太は、次に読むはずだった段落へ鉛筆で線を引いた。
予算案は原案のまま可決された。残ったのは、八駅を調べる仕事だった。
三月末、地域拠点連携検討チームの最後の会合が開かれた。翌年度から企画政策課内に専任の担当を置き、高梨、神谷、寺島は必要に応じて調査へ関わり、翔太が事務局を担うことになった。
会合には、それぞれが持ち出していた資料が戻された。神谷は査定関係の綴りを閉じ、寺島は支所との連絡記録を返した。机の上に、検討チームで回してきた紙が種類ごとに積まれていった。
翔太は最後に、検討チームの発足時に自分が起こした設置文書を出した。所掌事項が三つ並んでいる。
資料の収集と整理。八駅分の資料は棚二段に収まった。部局をまたぐ課題の洗い出しと所管の整理。振り分けた案件は、それぞれの課の来年度の仕事になっている。翌年度事業の検討。二本出して、一本残った。
三つとも、やったと書ける。
寺島が積まれた紙の高さを手で示した。
「これだけ動かして、八つをどうするかは決まらなかったね」
「はい」
「最初に私が聞いたことだよ。そろえたあと、市は何をするんだって」
翔太は所掌事項の三行を読み直した。集めた資料を使って、市として何を決めるのかは、三つのどこにも書かれていなかった。
「次は、調査のあとに何を決めるのかまで書きます」
「そう書いてから集めた方が、私らも楽だったな」
寺島は笑って、連絡記録の綴りを抱え直した。
会合の終わりに、高梨が大浜のファイルを翔太へ返した。
「製氷機、部品交換は済んでる。所有者の確認はまだ」
翔太は要望書を開いた。部品交換の記録は加わっていたが、所有者の欄は空白だった。
「ここは、そのままですね」
「分からないものは、埋められない」
高梨は自分の資料を抱えて席を立った。
翔太は要望書をファイルへ戻した。大浜の所有確認も、翌年度へ引き継ぐことになった。
*
四月一日、翔太は企画政策課地域拠点連携推進担当の辞令を受け取った。席は同じフロアの中で数メートル移っただけで、机の上には八駅のファイルが積まれている。廊下では、新しく入った職員たちが列を作って歩いていた。
榊原が薄いファイルを一冊、机の上へ置いた。表紙には、「市内道の駅連携基礎調査事業 管理・運営実態調査業務委託」と印刷されている。中に入っていたのは、予算要求の段階で作った業務概要だけだった。翔太が頁を開くと、「既存資料の整理」「現地確認」「管理・運営状況の把握」と並び、その下に「運営者への聞き取り」とある。
小貝で聞くなら、まず坂井駅長だ。翔太は小貝のファイルを引き寄せた。事業報告書には売上、利用者数、出荷者数が並んでいる。坂井なら、売場の運営や施設の使い方、市との調整について説明できる。翔太は余白に、「坂井康夫 売場運営、出荷者数、施設改修」と書いた。
そこで鉛筆が止まった。小貝の売場で会った小野寺は、自分のことを「作ったものを持ってくるだけ」と言っていた。だが、あの日の小野寺は、漬物の袋を一つずつ手に取り、向きをそろえて棚へ置いていた。
翔太は業務概要の「運営者への聞き取り」に線を引き、その横へ「現地で話を聞く相手」と書き足した。人数も立場も、まだ決めない。そのまま新しい用紙を開き、「現地確認先候補」と入力した。最初に誰を書くかは、もう迷わなかった。
小野寺春江。




