七 二本の要求書
その月の末、二本の要求書は財政課へ回った。九つ目の駅基本構想・候補地調査事業が二千八百万円。市内道の駅連携基礎調査事業が九百万円。事業名が別になれば、査定も別々に受けることになる。
十二月、財政査定の日。翔太が入った小会議室では、机の端に各課の予算要求書が積まれていた。神谷はその中から翔太たちの二冊を抜き出して横に並べた。九つ目の要求書を開き、積算の頁までめくったところで手が止まった。
「この場所、市長説明の時に仮置きにしたところですよね」
「はい」
「その後、ほかの場所は調べましたか」
翔太は、市長レクでまず箱宮側から見る話が出ていたことを説明した。神谷は候補地図を見たまま、箱宮側でほかの土地を調べたかと聞いた。「いえ」
神谷は「現況測量 八百万円」と書かれた行を指した。
「箱宮側から見ることと、この土地だけを測ることは別です。何と比べて、ここを候補にしたんですか」
翔太は候補地図へ目を落とした。市長レクから庁内で続いてきた経緯は説明できても、この一筆だけを選ぶ理由は答えられなかった。
神谷は隣に置いた八駅側の要求書を開いた。
「八駅を調べて、その先で何が必要か考える部分は、こちらへ分けましたよね」
「はい」
「なら、この要求書には、ここを候補にする理由がもうありません」
神谷は九つ目の要求書を引き寄せた。
「しかも、この土地は管財が月極駐車場として貸しています。使うなら貸付をやめる手続きが要ります。収入もなくなります。その整理もありません」
翔太は候補地図を裏返した。
神谷は九つ目の要求書を脇へ寄せ、八駅側の調査概要へ目を移した。後ろには、検討チームで使ってきた比較表が付いている。
「こちらは外部委託ですね」
翔太がうなずくと、神谷は比較表と調査概要を見比べた。
「検討チームで、ここまで一緒に整理しましたよね」
市負担額、所有、日常管理、修繕責任。神谷自身が書き込みを加えた項目も残っている。
「この表を、もう一度作るための調査ですか」
「違います」
翔太は比較表を開いた。
「この表は、八駅を並べて見るために作ったものです。でも、現地へ行くと、ここには入らないことがありました。実際にどう使われているのか、そこで誰が何をしているのか、資料だけでは分からない問題もあります」
神谷は八駅側の要求書へ目を戻した。そこには、「市内八カ所の道の駅における管理運営状況の把握」「運営者への聞き取り」「八駅を同一項目で比較する」と並んでいた。
「その調査をするようには読めませんね」
翔太も同じ三行を見た。
「要求書の方が、追いついていません」
「では、何を外に出すんですか」
「既存資料で分かることは、もう一度集めてもらう必要はありません。現地で、それぞれの駅の使われ方や仕事の流れを確認して、資料だけでは見えない課題を拾ってもらいます」
神谷は聞き取り調査の欄を見た。
「何を確かめるための聞き取りなのかも、ここには書いてありません」
「そこも書き直します」
「誰に聞くかは、仕様を作る段階でも詰められます。ただ、何を調べる事業なのかは、要求書の段階で決めてください」
翔太は聞き取り調査の欄を見た。神谷はその横に印を付けた。
「このままでは査定できません。調査内容を組み直して、積算も出し直してください」
神谷は八駅側の要求書を脇へ寄せ、九つ目の方へ戻った。
「こちらは、私の判断では落とせません」
「保留ですか」
「市長が所信表明で触れた事業です。財政課で額を削るだけでは、事業の位置づけまで決めることになります。市長査定へ回します」
神谷は九つ目の要求書を別に置いた。
「今日確認した点は、査定資料に付けます」
小会議室を出た時、翔太の手元に戻ったのは八駅側の要求書だけだった。
要求書は、その日のうちには直らなかった。
翔太は検討チームで使ってきた比較表の脇に、現地で取ったメモを並べた。表には所有、管理、市の支出、利用者数が並んでいるが、現地で確認した仕事の流れや施設の使われ方の一部は、そこには収まっていなかった。
関係課にも確認を取りながら、調査内容を組み直した。既存資料で分かることを集め直すのではなく、資料だけでは見えない仕事の流れや施設の使われ方、それぞれの駅が抱える問題を現地で確かめる。積算も、その内容に合わせて見直した。
数日後、翔太は修正した要求書を神谷へ出し直した。 「八駅を同一項目で比較する」という一文は消えていた。調査の目的には、既存資料の整理に加え、現地確認と聞き取りによって各駅の運営実態、利用のされ方、個別の課題を把握する、と書いた。
聞き取りの対象は、まだ「運営者」のまま残した。具体的な対象は、委託の仕様を作る段階で詰めることにした。
一月上旬、九つ目の事業について主要会派への事前説明が組まれた。予算案そのものを説明する場ではない。市長査定に入る前に、議会で争点になりそうな新規事業の概要を示し、どこが問われるのかを確かめておく。財政課で保留となった九つ目も、その対象に入った。
説明に使う資料が市長室へ回ると、信乃は候補地図の頁で手を止めた。「まだ、この場所が入っているんですね」
「九つ目の要求には残しています。財政からも、仮置きのまま測量費まで載せた点を指摘されました」
榊原が答えると、信乃はしばらく地図を見ていた。
「常任委員会でも、候補地が先に見えると言われましたね」
「はい」
信乃は資料を閉じた。
「黒川議員の会派には、私も出ます。九つ目と言ったのは私です。場所を決めたわけではないことも、私から説明します」
当日、翔太と榊原が議会棟の会派控室へ入ると、信乃はすでに席についていた。翔太は説明資料と関係課から集めたファイルを卓上に並べた。室内は暖房が強く、上着を脱いだ議員たちが向かいに座っていた。
黒川は常任委員会でも使った候補地図を開いた。
「市電と大学に近い。県との連携にも都合のよい場所ですな」
「父の人脈を利用するつもりはありません」
翔太の指が、資料の端で止まった。黒川もすぐには次の言葉を返さず、候補地図から顔を上げた。
「私は、秋庭県議の話をしていません」
信乃の表情がわずかに変わった。
「失礼しました」
今度は手元の資料を確かめてから続けた。
「運営主体も施設整備も、まだ決定していません。県との協議が必要になれば、市として手続きを取ります。ここは、九つ目の可能性を検討するために仮に置いた場所です」
黒川は説明資料を何枚かめくった。
「常任委員会のあと、事業は二つに分けたんですね」
榊原が、八駅の調査と九つ目の検討を別々の要求書に分けた経緯を説明した。黒川は二冊を見比べた。
「八駅を調べる事業と、九つ目を検討する事業が、別々に動くわけですな」
信乃は黒川を見た。
「事業は分けましたが、検討していることまで別になったわけではありません」
「そこが分からないんです」
黒川は九つ目の要求書へ戻った。
「八駅をどうしていくかは、これから一年かけて調べる。その一方で、九つ目にはもう候補地があり、その場所を調べる費用まで要求している。なぜそこまで先に進めるのか、そこが見えません」
信乃はすぐには答えなかった。
「八駅を横につなぐには、九つ目の可能性も調べる必要があると考えています」
「では、なぜ新しい場所が必要なのですか」
翔太は説明資料へ目を落とした。八駅の調査と九つ目の候補地調査は二冊に分かれている。その二つがどうつながるのかを説明する頁は、どちらにもなかった。
黒川は少し間を置いた。
「候補地が先にあるから、九つ目を造るために八駅を調べているようにも見えるんです」
「その点も含めて調査します」
黒川は足元の鞄から、綴じの外れかけた冊子を取り出した。表紙の色が変わっている。
「旧箱宮市の中心市街地活性化基本計画です。十五年ほど前のものです」
黒川は付箋の付いた頁を開き、卓の上で信乃の方へ向けた。翔太も首を伸ばした。区域図には、市電の交差点の東側が事業予定地として斜線で示されている。予算要求を組む際に管財の台帳から候補地図へ写した区画と同じだった。
「市がこの土地を買ったのは、この計画のためです。計画は合併の年に止まり、土地だけが残りました」
信乃は図を見ていた。
「当時、県の側でこの計画を後押ししたのが、秋庭県議です」
卓の向こうで、議員の一人が手元の資料を置いた。信乃が顔を上げた。「先ほどは、父の話ではないと仰いました」
「先ほどのは、県との協議の話です。お父上のことではない。ただ、この資料を出す以上、お名前は出ます」
黒川は冊子を閉じず、開いた図面の上へ掌を置いた。
「私が言いたいのは、お父上のことではありません。この場所は、十五年前にも事業の予定地にされている。計画は止まったが、場所だけが残った。今度は、その場所が先にある。そう見えるということです」
「知りませんでした」
信乃の声は低かった。
「でしょうな」
翔太は手元の候補地図を見た。資産台帳にあった「中心市街地整備事業用地」という文字と、冊子の区域図がそこで初めてつながった。榊原は冊子の表紙を見たまま、何も言わなかった。
黒川はそこでようやく冊子を閉じた。
「なら、調査の結果、新しい施設は必要ないという結論もあるんですね」
信乃は答えなかった。
翔太は自分の説明資料へ目を落とした。「新たな連携拠点の必要性を検証」と書いてある。必要かどうかを確かめるはずの文章だった。
黒川は冊子を候補地図の上へ重ね、卓の端へ寄せた。
「九つ目については、ここまでにします」
今度は、八駅側の要求書を開いた。
「市内道の駅連携基礎調査事業。こちらは一年かけて八駅を調べる。各駅の実態や課題を調べることは分かります。その先で、市は八つをどうするんですか」
信乃は手元の資料をめくった。
「それを決めるための調査です」
「ですが、調べた結果を何に使うのかが、この要求書にはありません」
翔太も八駅側の要求書を開いた。現地確認、利用のされ方、運営の実態、個別の課題。何を調べるかは、財政査定を受けて書き直してある。だが、それを確かめたあと、市として何を決めるのかは書いていなかった。
「今は、決めていません」
「所信表明から半年、そこは決めていないままですか」
信乃は口を閉じた。
「八つをどうするのかがまだ決まっていない。その一方で、九つ目という言葉だけは先に出ている。だから順番が逆に見えるんです」
黒川が次に開いたのは、八駅の一覧のうち倉淵の頁だった。
「倉淵には、学生の頃から通っていたそうですね」
「はい」
「思い入れのある場所を、ほかの七駅と同じように扱えますか」
「できます」
返事は早かった。黒川は倉淵の頁から目を上げた。
「それを判断するのも、市長ご自身ですか」
信乃は口を閉じた。榊原は隣にいたが、代わりに答えようとはしなかった。翔太の手元には「個人的関係を聞かれた場合」と書いた付箋がある。その質問が来ることは予想していた。それでも、そこから先の言葉は用意していなかった。
「私が以前から関わっていたことは、調査資料に明記します」
信乃は先ほどよりゆっくり答えた。
「判断に使うのは、私のノートではなく、市として確認した資料にします」
黒川は頁を戻し、卓の端へ寄せた紙束へ目をやった。
「それでも、なぜ『九つ目』なんです」
「八つだけでは足りないからです」
翔太は説明資料の中から、用意した一文を探した。そこには「八地域を結ぶ新たな機能が必要であるため」とある。
「何が足りないのです」
信乃は資料を見なかった。
「そこを、説明できるところまで調べます」
その日の会派説明は、予定の時間より早く終わった。続く質疑はなかった。
会派説明の後、翔太は追加資料を黒川の控室へ届けた。黒川は一人で、汐留の修繕履歴を読んでいた。机の脇には、『八つの駅と、ひとつの市』の写しも置かれている。翔太の鞄に入っているものより、ずっときれいだった。
「これ、覚えているんですか」
「ああ。議会にも報告があった」
黒川は冊子を手に取り、何頁かめくった。
「報告書を作って、それで終わったがな」
翔太は資料を渡し終えても、その場を離れなかった。
「市長に厳しいのは、秋庭県議との昔の対立があるからですか」
黒川は冊子から顔を上げた。
「庁内では、そう言われているのか」
「そう考える人はいます」
「楽な見方だな。秋庭県議との関係で反対していることにすれば、こっちの質問に答えなくても済む」
黒川は汐留の修繕履歴を閉じた。
「九つ目が要ると分かれば、その時はその話をすればいい。市長が必要だと考えていることは分かった。でも、市としてなぜ必要なのかは、今日の説明でもまだ分からん」
企画政策課へ戻ると、翔太は会派説明の記録と自分が作った説明資料を並べた。黒川が最後に聞いた問いの横に線を引き、「八地域を結ぶ新たな機能が必要であるため」という一文を削除した。行が詰まり、その位置でカーソルだけが点滅した。空いた場所には、何も書かなかった。




