五 市長のノート
最初の打合せは、会議室ではなく企画政策課の打合せスペースで行われた。正式な検討会にする前に、何を検討するのかを決めるためだった。翔太は前日のうちに比較表を三人分刷り、付箋で頁を分けておいた。三人は同じ表を受け取ったが、開いた場所はそれぞれ違った。
三人の手元には、それぞれの持ち場の違いが表れていた。高梨は図面のケース。神谷は電卓と赤鉛筆。寺島は支所から戻ったままの茶封筒の束を、卓の端へ置いた。
道路管理課施設管理係主任の高梨香織は、愛宕と大浜の所有・管理区分へ赤い線を引いた。三十三歳。作業着のジャンパーの袖をまくっている。三人の中では最も若いが、それでも入庁は翔太より八年早い。
「愛宕、三行に割ったのね」
高梨が資料を見ながら聞いた。
「県、市、観光協会で分けました」
「県の行に、市の委託料が入ってる」
「トイレの清掃です。県の施設ですが、払っているのは市なので」
「置き場所は間違ってない。ただ、費用負担と修繕責任は別の列にして。建物本体を直すのは県で、電球を替えるのは市。同じ欄に混ぜると、あとで誰に頼むのか分からなくなる」
高梨は施設台帳を親指で弾いてめくり、維持管理協定と見比べながら、愛宕の欄へ新しい区分を書き込んだ。翔太が一週間かけて作った表へ、ためらいなく列を増やしていく。
財政課財政係主査の神谷理恵は、市負担額の欄を上から順に確認した。三十八歳。直属の上司ではないが、翌年度の予算要求を査定する立場にある。
「この『市負担額』、駅ごとに入っているものが違いますね」
眼鏡の端に軽く触れながら、神谷が言った。
「各課から回答のあった数字を入れています」
「ええ。倉淵は指定管理料だけ。大浜は指定管理料に、市が直接払った修繕費まで入っています。愛宕は観光協会への管理委託料だけです」
神谷は三つの数字へ線を引いた。
「これでは、同じ列に並べても比べられません。この列で見るのは、市がその駅に一年でいくら支出したか、でいいんですね」
「はい」
「なら、市の支出だけを同じ期間で拾い直してください。指定管理料でも委託料でも、直接払った修繕費でも、市から出たものは入れる」
「今後必要になる更新費も入れますか」
「それは別です。これまでに払った額と、これから必要になる額は分けてください。更新見込みは別の列にしましょう」
神谷は手帳へ短く書いた。
地域自治課地域調整係長の寺島孝之は、腕を組んだまま、表の「地域の中での使われ方」の列を読んでいた。四十三歳。旧町村の支所や地域組織との調整を長く担当し、三人の中では職位も年齢も最も上だった。
「この資料は、何のためにそろえるんだい」
「八駅の現状を比較し、共通する課題を確認するためです」
「その先だよ。そろえたあと、市は何をするんだい」
翔太は比較表の表題を見直した。
「そこまでは、まだ決まっていません」
「市役所の中ではそう言える。でも旧地域では、市が施設を整理すると言えば、閉鎖か中心部への集約だと受け取るんだよ」
寺島は小貝の改修記録へ指を置いた。
「売場の配置は運営会社で動かせても、バックヤードを広げるなら施設側の協議だ。『改修』と一言で書かれたら、支所は誰に話を持っていけばいいのか分からない。数字を出してくれと頼む前に、何のために使うのか説明しないと、誰も動かないよ」
三人とも、翔太が知らない手続きと、翔太にはない経験を持っていた。そして、この場の話を進める役目だけは、最年少の翔太にある。
「大浜の件も、見てもらえますか」
翔太は製氷機の要望書を開いた。
「去年から更新の要望が出ています。ただ、機械の所有者がはっきりしていません」
高梨が要望書へ目を落とした。
「市のものか、漁協のものかって話?」
「はい。所有者が分からなければ、誰が更新費を負担するのか決められません。市が払うなら予算も必要です。それに、実際に使っているのは漁協です」
高梨は要望書を見直した。
「本体の更新は、所有者を確認してからね。ただ、止めないための応急修繕ができるかは別に見た方がいい。部品交換で済むか、水産振興課に確認して」
神谷が要望書へ目を戻した。
「市費を使う場合も、所有関係の確認は残してください。応急修繕をしたことで、市の資産だと決まったわけではありませんから」
寺島は要望書の日付を見た。
「市が応急修繕をすることになっても、それだけが先に伝わると、次の更新も市が負担する話になる。漁協への説明は、支所を通した方がいいね」
「分かりました。支所にも先に話します」
翔太はその一行を書き留め、大浜の要望書を閉じた。三人の書き込みが残った比較表を、もう一度見直す。
「表の直し方も見えてきました。所有と管理、それに修繕の責任を分ける。市の支出は同じ条件で拾い直して、これから必要になる費用とは別にします」
寺島が小貝の欄を指で叩いた。
「地域へ聞くこともね」
「はい。何を確認するために聞くのか、先に整理します」
比較表には、高梨が引いた赤い線、神谷が直した数字、寺島が付けた印が残っていた。翔太はそれぞれの書き込みを確かめてから、資料をそろえた。
打合せは一時間半で終わった。
七月上旬、八駅の調査状況を市長へ説明する時間が取られた。
担当部署が資料を持ち込み、事業の経緯や現在の論点を市長へ説明する場を、庁内では「市長レク」と呼んでいた。正式な会議ではない。それでも、ここで何を聞かれ、何を持ち帰るかで、その後の仕事は変わる。
市長室の応接卓には、信乃のほか、副市長と企画政策部長が座っていた。 翔太が信乃をこれほど近くで見るのは初めてだった。これまで見たのは、議会中継で紺色のスーツを着て演壇に立つ姿だけだった。向かいに座った信乃は、画面の中より小柄に見えた。卓上には手帳と鉛筆だけ。翔太が資料をそろえる間も、急かすでもなく、こちらを見て待っていた。
榊原が信乃たちの向かいへ座り、翔太はその隣で比較表を手元に置いた。
この日の説明役は、前もって翔太に決まっていた。現地を回り、比較表を作り直したのが翔太だったからだ。普段なら課長が説明の中心になる席だが、榊原は最初の一言だけを引き取った。
「現地を回って、表を作り直したのは三枝です。本人から説明させます」
翔太は比較表を信乃の前へ広げた。
「まず、現地で確認したことから説明します」
翔太は訪問した三駅で、資料だけでは分からなかった使われ方や仕事の動きを説明し、そのあとで各駅の売上や利用者数へ移った。
信乃は説明を聞きながら、比較表を追っていた。売上や利用者数の列を見たあと、欄外の注記へ視線を移す。所有者と日常管理の担い手が一致しないこと、支出額の範囲が駅ごとに違うこと、運営側だけでは決められない事項があることを書いた箇所で、何度か目が止まった。
一通り説明を終えると、翔太は比較表の下に置いていた薄い冊子を取り出した。
「もう一つあります。地下の資料庫で見つけました」
表紙の『八つの駅と、ひとつの市』が見えるように、信乃の前へ置いた。
信乃は冊子を手に取り、右上の赤い印を見た。日焼けした表紙の縁を、指の腹で一度なぞった。
「保存用も残っていたんですね」
「市長は、ご自分の分を持っているんですか」
「その後、歩き直した時のノートなら。書き込みだらけですが」
信乃は席を立ち、市長机から一冊の大学ノートを持ってきた。表紙には「八駅」とだけ書かれ、布地が擦れて角が丸くなり、付箋が幾重にも貼られている。
「これは、大学へ移ってから歩き直した時のものです」
信乃はノートを開き、翔太の方へ向けた。
「見てもいいですか」
「どうぞ」
翔太はノートを受け取った。最初の頁には二〇一二年四月、最後の頁には二〇一三年十一月の日付がある。頁を戻しながら、小貝の付箋が付いたところを開いた。
出荷者の名字と持ち込んでいた品目。その横に、「隣の商品を見る」「職員と話してから帰る」「空箱を持って戻る」と短い記録が続いている。
倉淵の頁には、工房で教えていた職人が展示室へ移り、そのまま売場へ立った時刻が残されていた。上杉から聞いた一日の動きと、同じだった。
次の汐留の頁では、道路情報端末だけを確認した人、ベンチで休んでいた作業着姿の人、周辺の事業所から立ち寄った人について、時刻と滞在した場所が書き留められていた。
文字だけではなかった。売場や休憩スペースの略図が描かれ、そこへ矢印と時刻が添えられている。線の何本かは棚の前で止まり、何本かは建物の外へ抜けていた。
翔太は頁を戻した。小貝でも、倉淵でも、汐留でも、信乃が見ていたのは施設そのものより、そこに来た人が何をして、どこへ移動したかだった。
もう一度、最初と最後の日付を見る。冊子を作った後も、信乃は八駅を歩き続けていた。「市長は、なぜそこまで八駅を調べたんですか」
主事が市長へ直接尋ねる質問として適切か、自信はなかった。だが、この問いを避けたままでは、何を残すべきか判断できない。
「合併した地域を回る時は、支所だけでなく、道の駅にも寄るようにしていました」
翔太はノートから顔を上げた。
「そこへ行くと、品物を持ってくる人も、働いている人も、買い物や休憩に立ち寄る人もいるでしょう。役所で話を聞くだけでは分からない、その場所の使われ方が見えたんです」
「だから、新しい駅を造るんですか」
「造ると決めてはいません」
「では、九つ目とは何ですか」
信乃はノートを閉じた。
「分かりません」
翔太は顔を上げた。
「場所が必要なのかもしれない。八駅の運営を変えるのかもしれない。建物を造らなくてもできることがあるかもしれません」
「最終的な形は決まっていないんですか」
「はい」
榊原が比較表を開き直した。
「市長の考えは分かりました。ただ、市の事業にするなら、誰の責任で何を行うかを決める必要があります。市長個人のノートを、そのまま根拠にはできません」
「それで構いません。ノートを使ってほしいわけではありません」
信乃は比較表へ目を落とした。
「比較するためにそろえるところは、そろえてください。ただ、そのために駅ごとの違いまで消さないでほしいんです」
榊原が確認した。
「共通の基準で見る部分と、個別に残す部分を分ける、ということですか」
「はい。まず八駅を、その形で見直してください」
副市長が手帳を閉じた。
「予算要求までに形にしてください。検討チームを正式に立てて、関係課の分担と、翌年度に何を行うかを出す」
少し間を置いて、副市長は続けた。
「九つ目は、決まっていない前提で構いません。ただ、市長が所信で言われた以上、何も出さないわけにはいきません」
副市長は比較表の最初の頁へ目を戻した。
「八つの旧地域には、すでにそれぞれ駅があります。九つ目を考えるなら、まず箱宮側でしょう。場所を決める話ではありませんが、使えそうな土地があるかくらいは当たっておいてください」
信乃は閉じたノートに手を置いたまま、その言葉を聞いていた。
企画政策部長がそれを受けた。
「八駅の課題は、所管課へ割り振れるものは割り振ってください。企画政策課で全部抱えないように」
「分かりました」と榊原が答えた。
翔太は比較表をそろえ、手帳の次の頁に「検討チーム」と書いた。
レクが終わり、副市長と部長、榊原が市長室を出た。翔太は資料を集め、椅子の脇へ置いた鞄を持ち上げた。鞄の口から、真空パックの小貝漬がのぞいていた。朝、冷蔵庫の奥に残っているのを見つけ、昼に食べようと鞄に入れてきたものだ。
信乃が目を留めた。
「それ、小貝漬ですか」
さっきまで資料を読んでいた時より、信乃の声が少しやわらいだ。
「はい。小貝へ行った時に買いました」
信乃は鞄の口からのぞく袋へ目を落とした。
「お昼に?」
「そのつもりで持ってきました」
信乃は一度翔太を見て、少し間を置いた。
「少しだけ、いただいてもいいですか」
「もちろんです」
翔太が封を切り、市長室に残っていた紙皿へ小貝漬を移すと、醤油と生姜の匂いが卓の上へ広がった。信乃は袋の裏の表示を見ず、一切れを口に入れた。
「春江さんのですね」
「分かるんですか」
「少し甘くて、最後に生姜の味が残るんです」
信乃は小さく笑った。
「春江さん、元気でしたか」
「元気でした。僕が行った時も、売場にいました」
「最初の頃から出していた人は、春江さんより上の世代が多かったんです。もう畑をやめた人もいます」
少し間を置いて、信乃は小貝漬の袋へ目を向けた。
「春江さんは、今も自分で持ってきてるんですか」
「はい。自分の漬物を並べていました」
「そうですか」
信乃はそれ以上、春江のことを尋ねなかった。
翔太は開けた小貝漬の袋を見た。小貝へ行った日に買ってから、忙しさに紛れて食べそびれ、まだ自分では一切れも食べていない。信乃が知っていた味を、昼になったら確かめてみようと思った。




