四 信乃が歩いた場所
こがいアグリパークへ向かう道は、市役所から離れるにつれて細くなった。
中心部の建物が途切れ、水田と低い住宅が増えていく。片側二車線が一車線になった。道路沿いには、合併後に取り付けられた箱庭市の標識と、旧町名を残した案内板が並んでいた。新しい標識の下に、錆の出た古い板がそのまま残っている場所もあった。
同じ市内を走っているはずなのに、市外へ向かっているように感じられる。翔太は旧箱宮市側の住宅地で育った。学校も買い物も中心部で足りた。旧町村部へ行くのは、部活動の試合か、家族で出かける時くらいだった。
市役所へ入れば、市全域が仕事の対象になる。そう思っていた。実際には、担当にならなければ知らない場所の方が多かった。
平日の午前九時すぎ、駐車場はすでに三分の一ほど埋まっていた。車を降りると、湿った土の匂いがした。出荷者用の搬入口では、軽トラックの荷台へ空のコンテナを積んでいる人がいて、別の一台がゆっくり駐車場を出ていった。朝の搬入は、ほぼ終わったところらしい。
直売所へ入ると、冷房の風に土と漬物の匂いが混じっていた。入口近くには葉物と根菜が積まれ、奥の加工品コーナーには漬物や味噌、菓子が並んでいる。
レジ前には数人が並んでいた。バックヤードから、職員が商品を載せた台車を押して出てきたところへ、黄色いコンテナを抱えた出荷者が売場から戻ってきた。出荷者の足元は、泥のついた長靴だった。二人とも一度止まり、客が通り過ぎるのを待った。職員の台車がレジ脇を抜けようとすると、今度は列の最後尾にいた客がカゴを引き寄せて、少し横へずれた。
「ごめんよ、後ろ通るよ」
声をかけたのは出荷者の方だった。
客も、商品を運ぶ職員も、出荷者も、同じ通路を使っていた。報告資料にあった売場動線の見直しが、どの場所の話なのか初めて分かった。
加工品の棚の前で、花柄の割烹着を着た白髪の女性が漬物の袋を並べ直していた。袋を一つずつ手に取り、向きをそろえて置いている。足元には畳んだコンテナが置いてあった。
女性の手元にある袋には、生産者として小野寺春江の名が記されている。確か保存用冊子にも、加工品を出す中心的な作り手として同じ名前が載っていた。
翔太が名刺を差し出すと、小野寺は「市役所かい」と言った。
「八つの道の駅について調査しています」
保存用冊子を見せると、小野寺は割烹着の裾で手を拭いてから受け取った。表紙を見て、目を細めた。
「ああ、これ。懐かしいね」
「もしかして、秋庭市長と以前お話を?」
「信乃ちゃん、市長になったんだってね」
秋庭市長でも、県議の娘でもなかった。信乃ちゃん。市役所では誰も使わない呼び方だった。
「最初に来た時は、東京の会社にいたんじゃなかったかね。若い人が何人か来て、売上だの出荷者だの聞いていったよ」
「信乃さんは、何を聞いたんですか」
「誰が作ってるか。最初から出してたのは誰か。もう畑をやめた人は、どうしてやめたのか。作り方を誰かに教えてるか。そんなことばかり」
小野寺は棚の袋を一つ前へ出し、列をそろえた。
「何年かして、今度は一人で来た。その冊子を持ってね」
「選挙のためですか」
「その頃は、市長になるなんて話、聞いたことなかったけど」
バックヤードから、また台車が出てきた。レジへ向かう客が先に通り、職員が台車を止めて待った。
「開店の頃は、いつもこんな感じなんですか」
「朝はこんなもんだよ。でも店のことは職員さんに聞きな。私は作ったものを持ってくるだけだから」
小野寺は足元のコンテナを爪先で少し寄せた。
「漬物は、どこで作っているんですか」
「それぞれの家だよ。家で漬けて、ここへ持ってくるの」
「共同の加工室は」
「そんなもの、ここにはないよ」
資料には、加工品コーナーとしか書かれていなかった。加工品が並ぶなら、施設のどこかで作っているのだろうと、翔太は勝手に思い込んでいた。
棚には、「小貝漬」と書かれた袋がいくつも並んでいた。袋ごとに大根の切り方も、漬け汁の色も少しずつ違う。袋を裏返すと、生産者の名前もそれぞれ違った。
「味も違うんですか」
「家ごとに違うよ」
小野寺は、自分の名前が付いた袋を一つ取った。細く切った大根ときゅうり、にんじんが、薄い琥珀色の漬け汁に入っている。
「信乃ちゃん、これが好きだったよ。来るたび買っていった」
小野寺は袋を翔太へ見せた。
「あんたも食べてみな」
「では、一ついただきます」
翔太はレジに並んで代金を払った。
そのあと、駅長の坂井康夫に、報告資料にあった売場動線の見直しと施設改修の記録について尋ねた。
「搬入そのものは、開店前にほとんど終わります」
坂井はバックヤードの入口を見た。バックヤードには値札を付けるための作業台が並び、その脇の通路は狭かった。軽トラックを付けられるのは二台分だけだった。
「ただ、出荷者は商品を並べ終わるまで売場にいますし、職員は開店してからも商品を補充します。そこへお客さんが入ってくる。朝は、どうしてもここで重なるんです」
翔太は、さきほど職員の台車と出荷者が互いに道を譲ったレジ脇を見た。
「レジの位置や棚は、こちらで少しずつ変えています」
坂井は続けた。
「でも、バックヤードそのものが狭いんです。朝は出荷者が一度に来て、ここで値札を付けてから売場へ出る。人数が重なると、すぐ詰まるんです。そこを広げる話になると、我々だけでは決められません。市と相談しています」
資料では「売場動線」と「施設改修」は別々の課題として書かれていた。だが現地で見ると、どちらも朝の搬入時に人が集中するために生じていた。
帰り際、小野寺が尋ねた。
「信乃ちゃんは、今度は何をするつもりなんだい」
「九つ目の駅を調査すると言っています」
小野寺は笑った。
「また、分かりにくいことを言い出したね。聞くことは細かいのに、最後に言うことは大きいんだよ、あの子は」
赤馬の里くらぶちでは、手書きの運営記録が残る理由を、現場で確かめることになった。
工房の引き戸を開けると、漆と木地の匂いがした。作業台には新聞紙が敷かれ、黒く塗られた小皿と細い刃物が並んでいる。一人の男性が、四人の客へ模様の彫り方を教えていた。
「そこは力を入れすぎないで。線が深くなります」
客が彫り終えた小皿を差し出すと、男性は一枚ずつ受け取った。
「漆を入れるところは、こっちでやります。触らないでくださいね」
手袋をはめ、彫った線へ漆を入れていく。最後の一枚を仕上げると、男性は手袋を外した。
「向こうも見ていきますか」
四人をギャラリーへ連れていく。展示棚の椀と小箱を順に指し、地元で使われてきた形と、漆の色の変わり方を話した。客の一人が値札を見た。男性はそのまま直売コーナーのレジへ入り、商品を包んで渡した。
四人が売場を離れてから、翔太は名刺を差し出した。
「箱庭市役所の三枝です。道の駅の運営について、お話を伺いたくて」
男性も自分の名刺を差し出した。上杉匠とある。
「信乃さんから、何も聞いてないのか」
「市長から直接、倉淵の説明は受けていません」
「そうか。あの人らしいな」
「以前からのお知り合いなんですね」
「彼女が学生の頃からだよ。秋庭の名前も出さずに、ただの学生として村の話を聞きに来た」
上杉は棚に並んだ小箱の向きを直した。
「一度聞いて終わりじゃなかった。忘れた頃に資料を送ってきて、また忘れた頃に見に来た」
翔太は持参した運営記録の写しを開いた。
「これ、一つ確認してもいいですか。『体験 二十七』の下に、『皿 八』『箸 十二』『団体 一』とありますよね」
「ああ」
「この三つは、二十七の内訳ではないんですか」
上杉は記録を覗き込んだ。
「違うよ。二十七は来た人数。皿と箸は、その日に使った数。団体一は、一組来たってことだ」
「単位が違うんですね」
「こいつは報告書を作るための帳簿じゃないからね。今日は何人来た、何が出た、団体が入った。それが分かればよかった」
翔太は欄外に書いた「記録区分確認」に線を引いた。
「事業報告書にある体験料と物販売上は、別に集計しているんですね」
「体験料は受付、商品の代金はレジで取ってる。そっちは分かれるよ」
上杉は団体が入った日の欄を指した。
「でも、こっちはこうなる。工房で教えて、仕上げをして、その客を展示へ案内する。売場で呼ばれれば、そっちにも立つ。一日のうちに何度も行ったり来たりだ」
「だから、ここには『案内から実演、売場まで一人で対応』とだけ書いてあるんですね」
「そういうこと」
翔太は記録から顔を上げた。
「信乃さんも、この記録を見たんですか」
「いや。あの人は、記録より俺の動きを見てた」
上杉は少し考えた。
「あの人に、一日、俺がどこで何をしてるか見せてくれって言われたんだ。誰に教えて、どこへ連れていって、そのあと何をしたかって」
「ずっと付いていたんですか」
「最初はね。次に来た時は、また同じ動きをするのか確かめてた」
翔太は手帳へ目を落とした。
自分が資料で見ていたのは、体験料と物販売上の欄だった。信乃は、その二つの欄を行き来する人間を見ていた。
翔太は手帳を閉じた。
汐留へ向かった日は曇っていた。
海沿いの幹線道路から倉庫街へ入り、古い案内板のある角を曲がる。しおどめ海風テラスの低い建物が、広い駐車場の奥に横に長く延びていた。
入口をくぐると、ロビーに産業機械の模型が並んでいた。テクノ産業展示ホールの壁には、かつて地域で操業していた工場の写真と、「二十一世紀の海洋産業都市」という文字が残っている。企業PRブースの映像装置は一部が停止し、マルチメディア室は施錠されていた。
道路情報端末には、国道の通行規制と気象情報が表示されている。その前で、作業着の男性が画面を指していた。隣にある地域案内の画面は、数年前の催事情報のまま止まっていた。自動販売機コーナーのベンチでは、別の男性が足を伸ばして座っている。飲食施設はそこだけだった。
事前に連絡していた産業振興部の担当職員が、館内を案内した。展示を目当てに来るのは、小学校の校外学習の時くらいだという。撤退した企業のブースは、パネルを外したままになっている。
「今後の活用について、何か検討されていますか」
「案は何度も出ています。産業資料館にするとか、子どもの学習に使うとか、地域の集会所、防災拠点にするとか」
「今は産業振興部の所管ですよね」
「ええ。今の施設を運営するのはうちです。ただ、用途を変えるとなると、うちだけでは決められません」
職員は施錠されたマルチメディア室を見た。
「防災なら防災担当、地域利用なら地域自治、学習施設なら教育委員会も関わる。案が出るたびに、相談する相手が変わるんです」
「それで決まらない」
「それだけが理由ではありませんけどね。今ある展示をどうするか、費用を誰が持つかもあります」
翔太は、止まった映像装置へ目を戻した。
「秋庭市長が大学にいた頃にも、ここへ来たことがありますか」
「あります。この建物で、展示を見ない人が何をしているのか聞かれました」
「展示を見ない人?」
「道路情報だけ確認する人、休憩する人、近くの事業所から立ち寄る人。そういう人を見ていました」
翔太はロビーを見回した。壁に掛かった真鍮枠の時計の下に、小さな銘板があった。 黒川正治後援会 寄贈。
翔太は、その名前だけを手帳の余白に書いた。
帰庁すると、比較表を作り直した。売上、利用者数、市の支出額の列は残し、その手前に「所有と運営」「現場で実際に行われている仕事」「地域の中での使われ方」の三列を加えた。
小貝の狭いバックヤードと朝の動線、倉淵で三つの持ち場を行き来する一人の職人、汐留で展示を見ずに帰る人。三つとも、前の表には書く欄がなかった。
現地で見たことを書き足すと、比較表は当初の形には収まらなくなった。以前なら、見出しを短くし、注記を削って一枚へ戻していた。翔太は、今度はそうしなかった。
榊原は比較表を最後まで読み、最初の頁へ戻った。
「一人で作る資料ではなくなったな」
「関係課を集めます。所有と管理、財政、地域との調整が必要です」
翔太は打合せに呼ぶ候補者を記した紙を出した。道路管理課の高梨香織。財政課の神谷理恵。地域自治課の寺島孝之。
「観光や農政は」
「必要な案件ごとに聞きます。最初から人数を増やすと、担当説明だけで終わります」
榊原は三つの名前を見直した。
「全員、お前より上だぞ」
「分かっています」
「事務局はお前だ」
翔太は紙を手元へ戻した。三人へ仕事を命じる権限はない。必要な理由を説明し、それぞれの仕事の合間に時間を割いてもらうしかない。翔太は三人の名前を順に見直し、最初の内線番号を押した。




