六 二つの赤馬
赤馬の試作が十体を越えた頃、匠は天台寺へもう一度行った。販売用の赤馬を作るうち、寺にあった大きな赤馬が、実際にはどのように置かれていたのか確かめたくなった。
住職は匠を庫裏へ通した。話をしていると、部屋の隅に重ねられた黒塗りの膳が目に入った。縁には細かな傷があり、一部は塗り直されている。
「これも倉淵塗ですか」
「ええ。法要の時には今も使っています」
住職は一枚を取り出し、匠の前へ置いた。
「源一郎さんにも何度か直していただきました。古いものですが、まだ使えますよ」
匠は膳の縁を確かめた。塗り直した部分は、周囲とわずかに艶が違っていた。
その後、住職に頼んで堂へ入った。
奥の台座は、前に訪れた時と変わらず空いていた。天板はきれいに拭かれている。以前見せてもらった写真では、ここに大きな赤馬が置かれていた。
匠は堂の入口へ戻り、そこから台座を見た。赤馬があれば、入ってきた人の目が最初に向く場所だった。
さっき見た膳には、何度も直された跡があった。こちらには、直すべき赤馬そのものがない。
匠は台座の天板の幅を目で測った。奥行きも確かめる。木地を取る前に、いつもしていることだった。
寺を出る時、住職が声をかけた。
「またいらしてください」
「はい」
匠は石段を下りた。
工房へ戻ると、その日は注文を受けていた椀の仕上げを済ませた。乾燥棚には販売用の赤馬が並んでいる。塗りの乾いた一体を取り出し、掌に載せてみた。道の駅で売れれば、買った人の手に渡って倉淵を離れていく。
翌日、匠は作業台の下から源一郎の仕事帳を取り出した。天台寺から受けた仕事の記録を探す。椀の塗り直しや膳の修繕が、年を隔てて何度も出てきた。
匠は仕事帳を閉じ、引き出しにしまっていた寺の赤馬の写真を出した。作業台へ置き、販売用の赤馬を一体、その隣へ並べる。
寺へも、新しい赤馬を一体納められないだろうか。
写真を見直した。胸が厚く、首が前へ出ている。右前脚には欠けたところがあり、写っているのは片側だけだった。反対の脇腹がどうなっているかもわからない。
以前、橘の赤馬を写した時には、長い年月で擦り減った部分まで形だと思って削ってしまった。同じものを作ろうとしても、元の姿はわからない。
匠は写真を脇へ寄せた。
販売用の赤馬なら、何度も直してきた形がある。これを大きくすれば、寺へ納める一体が作れるかもしれない。
匠は寺で確かめた台座の幅を思い出し、販売用より大きな木地を選んだ。小さな赤馬を脇に置き、見比べながら輪郭を取っていく。
首と胴のおおよその線が出たところで、匠は手を止めた。
橘へ見せよう。
数日後、木地の段階まで進めた赤馬を持って、橘の家へ行った。
「何だ、それは」
「天台寺へ納めたいと思っています」
橘の顔が変わった。木地を受け取り、両手で重さを確かめる。
「住職には話したか」
「まだです」
「大隅には」
「話してません」
橘は赤馬を机へ置いた。
「組合には」
「まだ」
「順番が違う」
「寺へ納めるつもりでした」
橘は机へ置いた赤馬を見た。
「なら、なぜ先に削った」
匠は答えられなかった。思いつけば、まず手を動かす。自分の仕事なら、それで八年やってきた。
「源一郎さんの孫だから、おまえが寺の赤馬を決めていいわけじゃない」
匠はしばらく赤馬を見ていた。それから持ってきた布を広げ、木地を載せた。包もうとしたところで、橘が手を伸ばした。
「作るなとは言ってない」
赤馬を引き寄せ、横から見る。首へ指を添えたあと、橘は顔を上げた。
「販売用は?」
匠は小さい赤馬も出した。二体を机へ並べる。橘は小さい方を掌へ載せ、向きを変えながらしばらく見た。
「これはいい」
「前より?」
「持ちやすい。源一郎さんの真似も減った」
橘は大きい方へ手を戻した。
「こっちは軽い」
匠が木地を持ち上げた。
「重さですか」
「見え方だ」
橘は販売用の赤馬と並べ直した。
「こっちは、人が持つものだ。手の中で向きを変えて見てもらえばいい。寺に置くなら、同じ考え方じゃなくていい」
匠は二体を見比べた。大きくしただけでは、販売用の形を引き延ばしたにすぎなかった。
橘は大きい赤馬を匠の方へ押し戻した。
「最初の形は、おまえが出せ」
匠は顔を上げた。
「今、赤馬をもう一度作ろうとしているのはおまえだからな」
橘はそこで手を離した。
「ただ、寺へ納めるつもりなら、先に住職へ話せ。作ってから持っていく話じゃない」
匠はうなずいた。
「大隅にも見せろ。こっちは、そのまま進めるな」
橘は大きい赤馬の背を指で叩いた。
「寺に置くものとして、もう一度考えろ」
匠は二体の赤馬を布で包んだ。
その日のうちに、匠は天台寺へ行った。木地は工房へ置いてきた。住職に、赤馬を一体新しく作って寺へ納めたいと話した。
「昔の赤馬を戻すつもりではありません」
「はい」
「勝手に作り始めました」
住職が少し笑った。
「それも聞きました」
「橘さん、早いですね」
「電話をいただきました」
匠は頭を下げた。
「一体、今の倉淵塗で作って納めたいです。ただ、俺一人のものにはしません」
住職は空いた台座を見た。
「同じ場所には置かない方がよいと思います」
匠は顔を上げた。
「先日お見せした膳は、傷めば直して、また使えます。でも、あの赤馬は、なくなったから代わりを置けばいいというものではありません」
住職は匠に向き直った。
「戻ってくる可能性を、私はまだ捨てていません。古い赤馬の場所は、空けておきたいのです」
「わかりました」
「新しい赤馬には、新しい場所を考えましょう」
天台寺を出たあと、匠は大隅にも話した。
「寺に、新しい赤馬を納めることになりました」
「決まったのか」
「古い台座には置きません。別の場所を作ってもらいます」
大隅は少し考えた。
「橘さんには?」
「先に見せました」
「何て」
「一人で決めるなと」
大隅が鼻で笑った。
「その通りだ」
匠は黙った。
「形が出たら持ってこい」
「完成してからじゃなくて?」
「完成してから何を言えっていうんだ」
工房へ戻ると、匠は最初に削った大きな赤馬を作業台の脇へよけた。販売用の形を大きくしただけのものを、そのまま直して使う気にはなれなかった。新しい木地を出した。
寺に置く赤馬は、人の掌に載せるものではない。少し削っては木地から離れ、正面と横から見る。離れたところからも確かめた。数日かけて、おおよその形まで出したところで手を止めた。
まだ漆は塗らない。匠は木地のまま、組合の作業場へ持っていった。大隅は奉納用の赤馬を正面から見て、横へ回り、最後に底をのぞいた。
「首が弱い」
「細い?」
「細さじゃない。前へ出すぎてる」
匠はその場で低い台へ置き、少し離れた。正面から見ると、確かに首の先へ視線が引かれ、胴の重みが薄れて見える。
「直します」
「削りすぎるな。今度は玩具になる」
匠は赤馬を見た。
「どこまで戻します」
「それを決めるのがおまえだろ」
大隅は台から離れた。
「出来が悪ければ止める」
匠はその木地を工房へ持ち帰った。首の線を二度直し、三度目に小刀を当てた。木地を削る乾いた音が短く続き、匠は手を止めた。それ以上削れば、大隅が言うように、玩具めいた形になりかねなかった。
塗りへ入る前に、もう一度人に見せた。橘は胸から前脚へ落ちる線を気にした。大隅は台へ置き、離れたところから全体の重さを確かめた。住職には木地を寺まで持っていき、実際に置く予定の場所から見てもらった。
「ここからだと、背中を見る人も多いですね」
住職は堂の脇へ回って言った。三人とも、見るところが違った。
匠は工房へ戻り、そのすべてを形へ入れようとはしなかった。橘の言う通りに直せば別の線が消え、大隅の言う重さだけを追えば動きがなくなる。寺でどう見えるかも無視はできない。三人の言葉を思い返しながら小刀を入れ、最後の線を決めた。
木地が決まると、組合の職人たちが下地と塗りの工程を分担した。大隅も一度だけ、上塗りの刷毛を持った。胸から前脚へ落ちる木地の稜線に、漆がたまりかけた。
「その線、もう少し残してください」
大隅の手が止まった。
「おまえの赤馬か」
「最初の形は俺です」
大隅は何も言わず、刷毛の角度を変えた。稜線の脇にたまった漆を薄く均していく。
やがて工房に、二つの赤馬が並んだ。一つは、人の掌に収まる販売用。もう一つは、天台寺へ納めるために作った大きな赤馬だった。どちらも赤い。けれど、同じ形ではなかった。




