9話:私服の先輩と、赤いスクリーン
九時半ちょうどに、玄関のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、葵が腕を組んで立っていた。昨日の夜に言われたとおり、俺はもう着替えをすませている。といっても、着ているのはクローゼットの中で一番まともに見えたゲームTシャツなので、葵は俺の姿を見るなり、無言で目を細めた。
そのまま二人で駅前のショッピングモールに向かって、開店と同時に中へ入る。
そこから二時間で三軒の店を連れ回されて、最終的に俺が着ることになったのは、灰色のチェックのネルシャツに、すそが広がったワイドフレアのデニム。ネルシャツの下には黒いタンクトップを着て、ボタンは上から二つ目まで開けている。えりもとから鎖骨と黒いタンクトップがのぞくのが、最近の流行りらしい。首には、葵が「これくらいはつけて」と言って選んだシルバーのネックレスが下がっている。寝ぐせは、葵がカバンから出したワックスで、トイレの付近にある鏡の前で無理やり直された。
ついでに葵も、三軒目の店で黒いキャップを一つ買っていた。俺の服を選ぶより、そっちを選ぶほうが早かった。
「……うん。悪くない」
試着室の前でそう言ったときの葵は、なぜか少しだけ悔しそうな顔をしていた。
「私はこのまま帰るから。ちゃんと十三時に間に合うように行くんだよ。一本乗り過ごしたら、間に合わないからね」
改札の前で葵と別れて、電車を乗り継ぐ。栄に着いたのは、十二時五十分だった。
地下街のプラチナ広場は、土曜の昼ということもあって、待ち合わせの人でいっぱいだった。その人ごみの中に、先輩はいた。
黒い長袖のトップスは、肩のところだけ大きく開いていて、えりもとに白い布が重なったデザインになっている。袖は指先の近くまで長い。下は灰色のロングスカートで、ひもでところどころしぼってあって、すそにはフリルがついている。足もとは、黒い編み上げのブーツ。長い黒髪は、毛先だけゆるく巻いてあった。
学校で見る先輩とは、まるで別の人だった。制服のときより、ずっと大人びて見える。近くを通った大学生くらいの男子が二人、そろって振り返っていった。
制服であれなのに、私服だったらどうなるんだ。木曜の一限に考えたことの答えが、今、目の前にある。
「あ、朔也くん」
先輩が俺に気づいて、小さく手を振った。小走りで近づいてきて、俺の前で足を止める。それから、頭のてっぺんから靴の先まで、ゆっくりと視線を下ろしていった。
「今日の朔也くん、寝ぐせがない」
「……第一声が寝ぐせのことですか」
「だって、いつもは寝ぐせだらけで、ちょっとだらしないのに。今日は、ちゃんとしてるね」
先輩はそこで、ほんの一瞬だけ視線を横にそらした。
「いつもと違う格好だから、その……かっこいいよ」
言い終わるころには、先輩の耳が少し赤くなっていた。いつものからかう感じの「可愛い」ではなく、まじめにほめているような感じがした。いつもと違う格好だからこそ、先輩もからかえなかったのかもしれない。先輩の表情を身いていると、こっちまで顔が熱くなってきて、俺は何も言えずに首の後ろをかいた。
先輩は気を取り直したように、一歩、俺のほうへ近づいた。肩のあたりに顔を寄せたところで、ぴたりと動きが止まる。
「……朔也くん」
「どうしました、先輩」
「ほかの女の子のにおいがする」
背中に、冷たいものが走った。
「き、気のせいじゃないですか」
「ううん。なんとなく、そういう感じがするの」
先輩は笑っている。いつもと同じ、やわらかい笑顔だ。
「午前中、何してたの?」
「……家で、寝てました」
「ふうん。寝てたんだ」
「はい」
「その服、自分で選んだの?」
「……そ、そうですけど」
「ふうん。自分で選んだんだ。朔也くんが選んだにしては、すごくセンスがいいよね」
同じ調子の「ふうん」が二回続いて、俺の背中に汗がにじむ。ワックスのにおいか、試着室で葵が吹きかけてきた制汗スプレーか、それとも本当に勘なのか。どれにしても、うそを重ねるたびに、自分で自分の首をしめている。
先輩はしばらく俺の顔を見ていたけど、やがて、ふっと笑って俺の腕に自分の腕をからめた。
「じゃあ、行こっか。映画、始まっちゃう」
それ以上、深く聞かれることはなかった。それなのに、なぜか妙に怖かった。いっそ問いつめられたほうが、まだ言い訳のしようがあったと思う。先輩の笑顔が最後まで一ミリも変わらなかったのが、かえって落ち着かない。
◇
――ここから葵視点です――
帰るつもりだった。本当に。
改札で朔也と別れて、反対側のホームに向かおうとして、気づいたら朔也と同じ電車の、隣の車両に乗っていた。
私が選んだ服を、久遠寺先輩がどう思うのか。それを確認するだけ。そう自分に言い聞かせながら、午前中に買ったばかりの黒いキャップを深くかぶる。カバンからマスクも出してつけた。四月は花粉がひどいから、いつも念のため持ち歩いているものだ。
これなら、少し離れていれば、朔也にも気づかれないはず。プラチナ広場の柱のかげから、顔を半分だけ出す。
そこで、久遠寺先輩を見つけた。
……なにあれ。反則でしょ。
学校でもきれいな人だとは思っていたけど、私服になると、もう同じ高校生には見えない。通りすがりの男の人たちが、みんな振り返っている。私だって、さっきから三回は見とれてしまった。
先輩が朔也に何か言って、朔也が首の後ろをかいている。あれは、朔也が照れているときのくせだ。小学生のころから変わらない。
私が選んだ服を着て、なんで先輩に照れてるのよ。
先輩が、朔也の肩に顔を寄せる。
「……あの先輩、何やってんの」
声に出ていた。隣で待ち合わせをしていたおじさんが、ちらっとこっちを見る。
何を話しているのかは聞こえない。でも、朔也の顔がだんだん青くなっていくのはわかった。そのあと、先輩が朔也の腕に自分の腕をからめて、二人は映画館のほうへ歩き出した。
腕を組んだ二人の後ろ姿を見ながら、私は柱から手を離した。
帰ろう。今度こそ、帰ろう。
そう思ったのに、私の足は、二人の後ろを十メートルくらいあけてついていっていた。
◇
――ここから朔也視点に戻ります――
先輩が選んだ映画は、『赤い解体室』というタイトルだった。チケットは、先輩がもう二人分買ってくれていたらしい。
入口に貼られたポスターには、血のついた大きな刃物と、悲鳴を上げる女の人の顔が描かれている。対象年齢の欄には、R15の文字。
「これ、ずっと見たかったの」
先輩は、心から楽しみそうな顔でそう言った。
「ま、まじかよ……ホラー映画なんて聞いてないぞ」
思わず口から出た。先輩には聞こえていなかったのか、それとも聞こえないふりをしたのか、にこにこしたまま返事はない。
俺はホラーが苦手だ。ゲームでも、ホラーのジャンルだけは避けてきた。ポスターの刃物と目が合ったまま、この先の二時間をどうやってやり過ごせばいいのかを考えていたら、いつの間にか隣から先輩がいなくなっていた。
「お待たせ」
戻ってきた先輩の腕には、大きいサイズのポップコーンが一つ抱えられていた。
「二人で食べようね」
「あ、お金出しますよ。いくらでした?」
「大丈夫だよ。今日は私が誘ったんだもん」
先輩は、それ以上は受け取らないという顔で笑った。
ちょうどそのとき、入場開始のアナウンスが流れた。チケットを見せて、七番スクリーンに入る。先輩が取ってくれていた席は、スクリーンの真ん中あたりだった。
座席に腰を下ろすと、先輩はポップコーンを二人のあいだの肘かけに置いた。
照明が落ちて、本編が始まる。
最初の十分くらいは、まだよかった。山奥の古い洋館に、大学生のグループが肝試しに来る。よくある始まりだ。問題は、その十分が過ぎたあとだった。
画面が、赤くなった。
何が起きているのかは、あまり説明したくない。とにかく、さっきまで笑っていた大学生の一人が、もう笑えない状態になっていた。俺は肘かけを両手でつかんで、背もたれに体を押しつける。
隣を見ると、先輩はポップコーンをつまみながら、真剣な顔でスクリーンを見ていた。口もとが、ちょっとだけ笑っている。
「……先輩、怖くないんですか」
小声で聞くと、先輩はスクリーンから目を離さないまま答えた。
「だって、作りものだもん。私からしたら、アクション映画を見てるのと変わらないよ」
画面の中で、また一人いなくなった。先輩はそれを見て、満足そうに小さくうなずく。
「今のところ、刃物のほうからカメラで映してたでしょう? 犯人の目線になってるから、見てるこっちまで追いかけてる気分になるの。うまいよね」
うまいとか、うまくないとかの話をする余裕は、俺にはひとつもない。
次の場面に変わる前の、嫌な静けさが来た。何か来る、と思った瞬間、スクリーンいっぱいに顔が飛び出して、大きな音が鳴る。
俺の体は、座ったまま五センチくらい浮いた。
隣から、くすっと笑う声がする。肘かけをつかんでいた俺の手の上に、先輩の手が重なった。
「朔也くん、手、つないでてあげようか」
答える前に、もう指をからめられていた。先輩の手はひんやりしていて、俺の手は、たぶん汗でひどいことになっている。それでも先輩は気にする様子もなく、つないだ手を、肘かけの上でぎゅっとにぎり直した。
映画は、まだ半分も終わっていない。
◇
――ここから葵視点です――
二人が入っていったのは、七番スクリーンだった。
入口の上の表示を確かめて、私は券売機で同じ回のチケットを買った。同じ映画を選んだのは、二人を見失わないためで、それ以外の理由はない。
ないのに、私は今、全力で後悔している。
ホラーなんて、小学生のころ以来だ。朔也の家に泊まった夏休みの夜、二人でテレビの心霊特番を見てしまって、あまりの怖さに一人で寝られなくなった。結局、朔也のベッドに二人でもぐりこんで、背中合わせのまま朝を迎えた。それくらい、私はこういうのがだめなのに。
画面が赤くなるたびに、私は両手で顔をおおって、指のすきまから少しだけ見る。見なければいいのに、見ないと何が起きたのかわからなくて、それはそれで怖い。
前の席の誰かが悲鳴を上げた。私も一緒に上げそうになって、あわてて口を押さえる。
……もう無理。出よう。
カバンを持って、腰を浮かせた。
そのとき、スクリーンの光で、数列前の二つの頭が見えた。朔也の肩のほうに、先輩の頭が少しだけ寄っている。二人の席のあいだの肘かけの上で、何かが重なっているのも見えた。
手だ。
浮かせた腰を、私はゆっくりと座席に戻した。
出られるわけ、ないでしょ。
スクリーンの中で、また誰かの悲鳴が上がる。私は上着の袖をぎゅっとにぎって、ぎりぎりまで目を細めた。
早く終わって。映画も、あの二人のあれも。




