10話:先輩とおそろいのひつじ
エンドロールが終わって照明がつくと、俺はしばらく座席から立ち上がれなかった。
肘かけの上のポップコーンは、半分以上なくなっている。食べたのはほぼ全部先輩で、俺が口に入れたのは、最初の五分で食べた三粒だけだ。つないでいた手は、エンドロールの途中でようやく離してもらえたけど、手のひらにはまだ自分の汗の感触が残っている。
「楽しかったね」
先輩は満足そうに伸びをしてから、俺の顔をのぞきこんだ。
「最後のところ、主人公が地下室の扉を閉めたでしょう? あそこで終わらせるの、すごくきれいだったなあ」
「……そうですね」
あの場面、俺はずっと目を閉じていた。
映画館を出ると、同じビルの上の階にゲームセンターがあった。エスカレーターで上がっていく途中から、もう電子音と、メダルが落ちるじゃらじゃらという音が聞こえてくる。ホラー映画のあとだと、このやかましさがやけにありがたい。
先輩は、入口のすぐ近くにあるクレーンゲームの前で足を止めた。
ガラスの中には、手のひらくらいの大きさのぬいぐるみが山になっている。のんびりした顔の白いひつじと、それより一回り小さい黒いひつじ。台の横のポップには、「メェメェとムゥムゥ」と書かれていた。いつも一緒にいる相棒同士、という設定らしい。
「かわいい……」
先輩は、ガラスに指先を当てたまま動かなくなった。
「ほしいんですか」
「うん。でも、こういうの、取れたことないんだ」
学年一位の秀才である先輩にも、苦手なものはあるらしい。
「俺、取りますよ」
自分でも意外なくらい、すんなり言葉が出た。俺はゲームなら、ジャンルを問わずだいたい好きだ。クレーンゲームも、そのうちに入っている。中学のころは、少ない小遣いをやりくりするために、近所のゲームセンターでお菓子を取っていた。うまくいけば、コンビニで買うより安く手に入る。おかげで、アームのくせを見る目だけはやたらと鍛えられた。
百円玉を一枚入れて、まずは一回目。アームを白いひつじの真上に下ろして、つかんだ瞬間の力の入り方を見る。案の定、ぬいぐるみは少し持ち上がっただけで、ぽとりと落ちた。
「あ……」
「今のは様子見です」
アームの力は弱い。そのかわり、ぬいぐるみの頭についているタグの輪っかが、ちょうど上を向いている。二回目は、アームの爪の先をその輪っかに通すつもりで、ボタンを放すタイミングを半拍だけ遅らせた。
爪が輪っかを引っかけて、白いひつじがぶらんと宙に浮く。そのまま揺れながら取り出し口まで運ばれて、ころんと落ちた。
「え、すごい!」
先輩の声が、ゲームセンターの音に負けないくらい大きかった。
黒いひつじのほうは、少し奥にいたので三回かかった。合計五百円。財布を出しかけた先輩を、俺は手で止める。
「これくらいは、出させてください」
課題のお礼もあるし、と心の中で付け足す。先輩は少しだけ迷うような顔をしてから、こくんとうなずいた。
取り出し口から二匹を拾い上げて、先輩に渡す。先輩はそれを両手で受け取ると、ぎゅっと胸もとに抱きしめた。
「ありがとう、朔也くん」
満面の笑みだった。いつもは大人びた顔をしている人なのに、今だけは、ほしかったおもちゃを買ってもらった小さな子どもみたいに見える。そのせいで、余計にかわいく見えてしまって、俺はどこを見ればいいのかわからなくなった。
「白いほうは、朔也くんにあげる。のんびりした顔が、朔也くんにそっくりだから」
「そっくりですか、これ」
「そっくりだよ。それで、黒いほうは私ね」
先輩は黒いひつじを、自分のカバンの持ち手にくくりつけた。
「いつも、白いほうのそばにくっついてる子だから」
にこっと笑ってそう言われて、俺は何も返せなかった。結局、白いひつじは、家の鍵と一緒に、デニムのベルトループにぶら下げることにした。歩くたびに、鍵とひつじがぶつかって、小さくちゃりっと鳴る。
◇
――ここから葵視点です――
クレーンゲームの列の、二つ向こう。プリクラ機の幕のかげから、私は二人を見ていた。
朔也がクレーンゲームでぬいぐるみを取るところなんて、見なくても結果はわかる。あいつ、ゲームと名前のつくものだけは昔からうまい。中一の夏、私がほしがったハシビロコウのぬいぐるみを、百円で一発で取ってくれたことがある。あの、何を考えているのかわからない顔のハシビロコウは、今も私の部屋の机の上から、毎朝こっちをにらんでいる。
それなのに、今日取ったぬいぐるみは、久遠寺先輩の手の中にある。
久遠寺先輩が黒いほうを自分のカバンにつけて、白いほうは朔也のデニムのベルトループにぶら下がった。どう見ても、おそろいだ。
……何がおそろいよ。
マスクの中で、思わず口がへの字になる。財布の中の百円玉を数えながら、私はクレーンゲームの台をちらっと見た。
……私も、同じの取ろうかな。
◇
――ここから朔也視点に戻ります――
ふと、クレーンゲームのガラスに映った自分の姿が目に入った。
映画のあいだ、ずっと背もたれに頭を押しつけていたせいか、葵が朝ワックスで整えてくれた髪が、全体的にぺたんとつぶれている。いつもの寝ぐせなら気にもしないのに、今日はなぜか、それがやけに気になった。いつもと違う格好をしていると、髪型のほうまで、ちゃんとしておきたくなる。
一度気になりだすと、もうだめだった。ガラスに映るたびに、髪のほうばかり見てしまう。
「すみません、ちょっとトイレ行ってきます」
「うん、わかった、待ってるね」
先輩の軽い返事を背中で聞いて、俺はフロアの奥にあるトイレへ向かった。
洗面台の鏡の前に立つと、思っていたより髪がつぶれていた。とくに後ろのほうは、背もたれの形のまま、きれいに平らになっている。
指先を水で少しだけぬらして、つぶれたところを根もとから持ち上げてみる。手を離すと、すぐにまたぺたんと戻った。もう一回。今度は、葵が朝やっていたのを思い出して、指で髪をつまむようにしながら、少しずつ形を整えていく。
三回目くらいで、ようやく見られる程度にはなった。葵がやったみたいにはいかないけど、さっきよりはだいぶましだ。
鏡の中の自分と目が合って、なんだか急に恥ずかしくなる。トイレの鏡の前で、髪型を気にしている俺なんて、たぶん葵も見たことがないよな。
手を洗って戻ってくると、さっきのクレーンゲームの前に、先輩の姿がなかった。
あたりを見回しても、黒い長袖のトップスは見つからない。
たぶん、先輩もトイレだろう。「待ってる」と言ったのは先輩なのに、とは少し思ったけど、女性だから、トイレに行くとは言いづらかったのかもしれない。ほかのゲームでも見ているうちに戻ってくるだろうと思って、俺は近くの台をぶらぶら見て回ることにした。
三台となりに、お菓子のクレーンゲームがあった。チョコレート菓子の大きな箱が、穴のふちぎりぎりのところで傾いている。あれなら、押せば落ちる。
百円玉を入れて、アームの片方で箱の角を押す。箱はぐらりと傾いて、そのまま穴に落ちていった。
「えっ、一回で取れたの?」
横から声がして、顔を上げる。
茶色い髪をゆるく巻いた女の人が二人、こっちを見ていた。たぶん大学生くらいだ。片方は大きなショッピングバッグを肩にかけていて、もう片方は、となりの台を指さしている。
「ねえ、きみ、うまいね。私たち、さっきからこれ全然取れなくて。よかったら、やってくれない?」
指さされた台には、クッションくらいの大きさのぬいぐるみが入っていた。二人で千円以上使ったらしい。
「……いいですけど」
「ほんと? じゃあ、これ使って」
ショッピングバッグの人が、百円玉を二枚、俺の手のひらにのせてくる。それから、俺の顔をのぞきこんできた。
「ていうか、きみ、高校生?」
「はい」
「へえ、かっこいいね。高校生でそのコーデとか、センスいいじゃん」
「……そんなこと、あんまり言われないんですけど」
言いながら、首の後ろをかいてしまう。知らない女の人からかっこいいなんて言われたのは、生まれて初めてだ。いつもの寝ぐせとゲームTシャツなら、まず言われない。ほめられているのは、たぶん俺じゃなくて、葵の選んだ服のほうだ。
ぬいぐるみは、二回で取れた。
「すごーい! ありがと!」
「ね、お礼にお茶しない? スターバの新作、おごるよ」
ぬいぐるみを一つ取っただけなのに、お礼がお茶になって返ってきた。知らない人からこんなふうに誘われたことなんて、今まで一度もない。どう断ればいいのかもわからなくて、俺はその場で固まってしまった。
ちょうどそのとき、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を見ると、先輩からRINEが来ている。
『朔也くん、どこ?』
返事を打とうとしながら、俺は女の人たちに頭を下げた。
「すみません、人を待ってるんで」
「えー、もしかして彼女?」
「彼女……では、ないです」
正直に答えてから、それが断る理由としてはずいぶん弱いことに気づいた。
「そっか。それなら、しょうがないね。じゃあ、連絡先だけでも交換しよ?」
ショッピングバッグの人が、自分のスマホを差し出してくる。先輩への返事を打ちかけていた俺のスマホと、相手のスマホが、数センチの距離で向かい合った。
「朔也くん」
背中のほうから、聞き慣れた声がした。
「あっ……先輩」
振り返ると、先輩が立っていた。いつもと同じ、やわらかい笑顔だ。
女の人たちは先輩を見て、一瞬だけ言葉に詰まった。それから顔を見合わせて、「あ、ごめんね〜」と手を振りながら、そそくさとフロアの奥へ消えていった。
あとには、俺と先輩だけが残る。
「今の人たち、誰?」
「えっと、クレーンゲームでうまく取れなかったみたいで。代わりに取ってほしいって頼まれたんです」
「そうなんだ」
先輩は、笑顔のままうなずいた。
「それにしては、なんだか照れくさそうにしてたよね。女の人、スマホを差し出してたけど。連絡先、交換しようとしてたの?」
「してないです」
「でも、朔也くんもスマホ、手に持ってたよね」
「それは、先輩からRINEが来てたから、返そうと思って……」
「ふうん。私に、返そうとしてたんだ」
先輩は、まだ笑っている。それなのに、カバンの持ち手だけは、ぎゅっと強くにぎりしめていた。持ち手にくくりつけられた黒いひつじが、小さく揺れている。
「それと、彼女じゃない、って言ってたね」
先輩が声をかけてきたのは、お姉さんたちにスマホを差し出された瞬間だった。でも、そのときにはもう、すぐ後ろにいたことになる。だとしたら、その少し前の「彼女……では、ないです」も、全部聞こえていたらしい。
付き合っているわけじゃないんだから、本当のことを言っただけだ。それなのに、先輩の口から同じ言葉を聞かされると、なぜか悪いことをしたみたいな気分になる。
「いや、あれは、その」
「ねえ、朔也くん」
先輩が、一歩だけ近づいてくる。笑顔の形は、一ミリも変わらない。
「もう一回聞くね。本当に、連絡先は交換してないの?」
◇
――ここから葵視点です――
……まあ、そうなるよね。
プリクラ機のかげで、私は小さくため息をついた。
今日の朔也は、私が選んだ服を着ている。寝ぐせもない。いつもの死んだような目も、映画のせいで少しだけ大きく開いている。あれなら、声をかけられてもおかしくない。
だって、あいつ、顔はそこそこいいんだよね。中の上。いや、上の下はある。ひょっとしたら、それ以上かもしれない。
でも、普段の朔也は寝ぐせだらけで、ゲームのTシャツで、人と目を合わせない。話しかけられても「別に」と「めんどくさ」しか言わないし、自分から友達を作ろうともしない。だから女子にはまったくモテないし、むしろ「感じ悪い」と言われていることのほうが多い。中学のあのことがあってからは、なおさらだ。
ちゃんとすれば化けるのに、本人だけがそれを知らない。根っこは、ただのゲーム好きの引きこもりなのに。
朔也のことなら、誰よりも知っている自信がある。それを最初に知っていたのも、私なのに。
視線を戻すと、久遠寺先輩が朔也に一歩近づいたところだった。ここからだと、久遠寺先輩の顔はよく見えない。でも、朔也の顔はよく見える。
完全に、映画を見ていたときと同じ顔をしていた。
……あれ、久遠寺先輩、笑ってるのに、こわ。




