11話:先輩とパンケーキ
「本当に、連絡先は交換してないの?」
さっきの大学生のお姉さんたちに、連絡先を交換しようと言われたのは本当だ。でも、お互いのスマホを向かい合わせただけで、何も送っていないし、何も受け取っていない。先輩が声をかけてきたのは、ちょうどその瞬間だった。
「してないです。本当に。向こうがスマホを出してきただけで、俺は先輩への返事を打とうとしてただけなんで」
「ふうん」
先輩は、少しだけ首をかしげた。
「じゃあ、確かめてもいいよね」
「……確かめる?」
「朔也くん、スマホ貸して」
先輩は、笑顔のまま手のひらを差し出してきた。
「……え。そこまでします?」
「うん。そこまでしないと、信じられないんだけど」
声はいつもどおりやわらかいのに、差し出された手は一ミリも引っこまない。
見られて困るものが、まったくないわけじゃない。検索履歴とか、そのあたりは、男子高校生としてそれなりにいろいろある。ただ、先輩が確かめたいのは、たぶん連絡先のほうだ。そう自分に言い聞かせて、俺はロックを外し、スマホを先輩の手にのせた。
先輩は迷いのない手つきでRINEを開くと、友達一覧をいちばん上から下まで、ゆっくりとスクロールしていった。最近追加された人の欄も、きっちり確かめる。並んでいるのは、先輩と、葵と、拓海と、家族と、家族のグループくらいだ。自分で言うのもなんだけど、確認に十秒もかからない量しかない。
トーク一覧に戻ると、いちばん上には、さっき届いたばかりの先輩の『朔也くん、どこ?』が残っていた。それを見つけて、先輩の口もとが少しだけゆるむ。
「……七瀬さんのRINEは、あるんだね」
「それは、幼馴染ですから」
「ふうん」
先輩の指が、葵の名前の上で一度止まる。
「本当は、消しちゃいたい気持ちもあるんだけどね」
さらっと言われて、背中がひやっとした。
「でも、七瀬さんは私よりずっと昔から朔也くんと一緒にいるんだもんね。さすがに消すのは、かわいそうか」
先輩はそのままトークを開くことなく、画面を下へ流していった。
「七瀬さんとのトークは、見ないでおいてあげる」
「……ありがとうございます」
なんで俺がお礼を言っているのかは、よくわからない。昨日の夜、葵に服の相談をしたやりとりがそこに残っていることに気づいたのは、先輩が画面を閉じたあとだった。
「でも、七瀬さん以外の女性がいなくて安心した」
先輩はRINEを閉じると、今度はホーム画面をじっと見た。
「ちなみに、朔也くんはエンスタやってないの?」
「やってないです。そもそも、アカウントすら持ってないです」
「え、そうなの?」
先輩は、少しだけ目をまるくした。
「今どき、エンスタもやってない子って珍しいね」
やる理由がないのだ。載せる写真もなければ、見せたい相手もいない。フォローしたい人だって、たぶん両手の指で足りる。
「……よし、信じてあげましょう」
先輩はスマホを俺に返して、いつもの余裕のある笑顔に戻った。カバンの持ち手をにぎりしめていた手からも、力が抜けている。
「あと、彼女じゃない、っていうのは……」
先輩は少しだけ言葉を切って、それから、くすっと笑った。
「まあ、今はそれでいいよ」
今は、のところだけ、やけにはっきり聞こえた。それがどういう意味なのか、聞き返す勇気は俺にはなかった。
「じゃあ、次はカフェに行こっか。私、行きたいお店があるの」
先輩は何事もなかったみたいに俺の腕を取って、エスカレーターのほうへ歩き出した。
先輩が連れてきてくれたのは、大通りから一本入ったところにある、白い壁の小さなカフェだった。木の看板には、筆記体で店の名前が書いてある。
店の中は、ほとんどが女の人の二人組か、カップルだった。男一人で来ていたら、間違いなく入口で引き返している。
窓ぎわの席に通されて、先輩は迷わず、季節限定のいちごのパンケーキを二つ頼んだ。
運ばれてきたパンケーキは、三枚重ねの上に、いちごと生クリームが山のようにのっていた。高さが、俺のスマホを縦に置いたくらいある。どこから手をつければいいのかわからなくて、俺はナイフとフォークを持ったまま固まった。
「朔也くんは、こういうお店ははじめて?」
「……はじめてです」
「ふふ。じゃあ、朔也くんのはじめて、もらっちゃったね。こういうお店に一緒に来たの、私が最初ってことでしょう?」
先輩はテーブルに頬杖をついて、うれしそうに目を細めた。ほしかったものを手に入れたときみたいな、満足そうな顔だった。
先輩は自分のパンケーキをひと口サイズに切り分けると、いちごと生クリームをきれいにのせて、フォークを俺の口もとに差し出してきた。
「はい、あーん」
「いや、自分で食べられますって」
「なになに? 恥ずかしいの?」
先輩は、わざとらしく首をかしげて、いじわるそうに笑った。フォークは、一ミリも引っこまない。周りの席の人が、ちらちらとこっちを見ているのがわかる。俺が我慢してても、先輩はこういうところで絶対に折れない。
観念して口を開けると、甘いクリームといちごの酸っぱさが、一緒に広がった。悔しいけど、めちゃくちゃうまい。こんなにきれいな人に食べさせてもらっているせいか、なおさらおいしく感じる。
「おいしい?」
「……おいしいです」
「よかった」
先輩はうれしそうに目を細めた。
「じゃあ、次は朔也くんの番」
「……え」
「私にも、あーんして?」
先輩はテーブルに少しだけ身を乗り出すと、目を閉じて、小さく口を開けた。俺がフォークを運んでくるのを、そのまま、じっと待っている。
「む、無理です。恥ずかしいですって、さすがに」
フォークを持った手が、自分でも笑えるくらい固まっている。さっきは食べさせられる側だったから、まだどうにかなった。食べさせる側になると、話がまるで違う。
先輩は片目だけ開けて、いたずらっぽく俺を見た。
「えー。私はしてあげたのに、朔也くんはしてくれないんだ」
「う……」
そう言われると、返す言葉がない。俺は自分のパンケーキをひと口分切り分けて、震える手でフォークを持ち上げた。先輩の口もとまで、あと少し。
そこで、先輩がひょいと体を引いた。
「やっぱり、それは次に出かけるときの楽しみにしておくね」
「……え」
「今日は、私が朔也くんに食べさせる日。ね?」
宙に浮いたままのフォークを見ながら、俺はしばらく動けなかった。からかわれたのだと気づいたのは、先輩がくすくす笑いながら、またひと口分を切り分け始めてからだ。結局、俺のパンケーキが半分になるころには、先輩のパンケーキも同じくらい、俺の口に運ばれていた。
◇
――ここから葵視点です――
カフェの向かいの雑貨屋で、私はさっきから同じマグカップを手に取っては戻している。
窓ぎわの席だから、ここからでも二人の様子がよく見えた。見えてしまう、というほうが正しい。
久遠寺先輩が、フォークを朔也の口もとに差し出している。朔也は何か言い返して、首を横に振って、それから、観念したように口を開けた。
……食べた。
信じられない。朔也が、人前で、あーんされている。私が小学生のころ、給食のプリンを分けてあげようとしたときは、「自分で食える」って言って、スプーンごと取り上げたくせに。
マグカップを持つ手に、ぎりぎりと力が入る。
近くで棚を整理していた店員さんが、ちらっと私の顔を見た。それから何も言わずに、そっと一つ向こうの棚へ移っていく。
……そんなに、怖い顔をしていたらしい。
私はあわててマグカップを棚に戻して、マスクを鼻の上まで引き上げた。
◇
――ここから朔也視点に戻ります――
カフェを出たときには、もう十八時を回っていた。
会計は、レジで俺がまとめて払った。課題のお礼の日なんだから、これくらいは当然だと思ったからだ。
ところが、店を出て十歩も歩かないうちに、先輩が俺の手のひらに千円札を二枚のせてきた。
「はい、私のぶん」
「いいですって。今日はお礼なんで」
「だめ。ここは割り勘」
先輩はそう言って、千円札の上から、俺の手をそっと閉じさせた。
「お互いに半分ずつ出し合えば、そのぶん、一緒に遊べる回数も増えるでしょう?」
当たり前のことみたいに言われて、俺は何も言い返せなかった。こういうことを、さらっと言える人なんだと思う。手のひらの千円札は、なんだかやけにあたたかかった。
栄から電車を乗り継いで、地元の日和川駅に着くと、外はもう薄暗くなっていた。
駅から先輩の家のほうへ、並んで歩く。川沿いの大きな交差点まで来ると、角の喫茶店はもう明かりを落としていて、「モーニングやってます」ののぼりだけが風に揺れていた。
ここから先、先輩の家は左。橋を渡った先の日和町だ。
橋のたもとまで来たところで、先輩が足を止めた。
「ここで大丈夫だよ」
「いや、ちゃんと家まで送りますよ。もう暗いですし」
「ううん、本当にすぐなの。ほら、ここから見えるよ」
先輩は、橋の向こうを指さした。
川の向こう岸に、ひときわ大きな家が建っていた。高い塀にぐるりと囲まれていて、門のところには明かりがともっている。塀の上からは、手入れされた庭木の先がのぞいていた。まわりの家と比べると、敷地の広さが二倍か三倍はありそうだ。
「……あれ、ですか」
「うん。あれ」
先輩は、なんでもないことみたいにうなずいた。
学年一位で、立ち居ふるまいもどこか品があって、あの家。もしかして先輩って、とんでもない金持ちの、お嬢様なんじゃないだろうか。今まで考えたこともなかったけど、そう思って見ると、いろいろなことに説明がつく気がしてくる。
先輩はカバンの持ち手から黒いひつじを外すと、手のひらにのせて、俺に見せるように軽く揺らした。
「今日は、ありがとう。すごく楽しかった」
「……俺も、楽しかったです」
ホラー映画以外は、と心の中で付け足す。
「じゃあ、また月曜日にね」
「はい。ではまた」
先輩は黒いひつじを持ち手につけ直して、小さく手を振ってから、橋を渡っていった。黒いひつじが、先輩の歩くリズムに合わせて揺れている。
交差点まで戻って、今度は右に曲がる。住宅街に入ると、街灯の明かりがまばらになって、自分の足音だけがやけに大きく聞こえた。
歩きながら、今日のことを思い返す。
ホラー映画は、正直もう二度と見たくない。それでも、暗いスクリーンの前でつないだ先輩の手がひんやりしていたことは、まだ手のひらが覚えている。ぬいぐるみを渡したときの先輩は、子どもみたいな顔で笑っていた。パンケーキのときの先輩は、いじわるで、それでいて、目を閉じて待っている顔は、ずるいくらいにかわいかった。
それに、「今はそれでいいよ」。
あの一言の意味だけは、何回考えても、うまく答えが出ない。ベルトループの白いひつじが、家の鍵と一緒に、歩くたびに俺の腰のあたりで揺れていた。
家まであと少し、というところで、前の角から人影が出てきた。
黒いキャップを深くかぶって、肩からカバンをかけている。街灯の下まで来たところで、キャップのつばの下の顔が見えた。見慣れすぎている顔だった。向こうも俺に気づいたらしく、ぴたりと足を止める。
「……葵?」
「さ、朔也!?」
葵の声が、思いきり裏返った。
「お前も、今帰り?」
「そ、そうだよ。た、たまたま。友達と遊んでた帰り」
葵は、なぜかカバンを体の後ろにさっと回した。
「友達って、誰と」
「誰でもいいでしょ。……朔也こそ、久遠寺先輩とのお出かけ、どうだったの」
「まあ、普通に。映画見て、ゲーセン行って、カフェ行った」
「……ふうん」
葵は、俺の腰のベルトループにぶら下がっている白いひつじを、じっと見ていた。
「そのキャップ、今日買ったやつだよな」
俺がそう言うと、葵の肩がびくっと跳ねた。
「え? あ、う、うん。そう。さっそく、かぶってみたの」
「似合ってるんじゃないか。黒、葵に合ってると思う」
「……ほんと?」
葵が、キャップのつばを少しだけ上げて、こっちを見た。さっきまでの裏返った声がうそみたいに、ぱっと顔が明るくなる。
「ああ」
「そっか。……そっか」
葵は二回くり返して、キャップのつばを両手でぎゅっとにぎった。口もとが、隠しきれないくらいゆるんでいる。
それから、俺の視線が自分のカバンのほうに向いたのに気づいたのか、急にはっとした顔になった。
「じゃ、じゃあ、帰るね! おやすみ!」
「家、すぐそこだろ。送ってくぞ」
「いいってば! ほんとにすぐそこだから!」
葵は小走りで、自分の家のほうへ消えていった。カバンは、最後まで体の後ろに回したままだった。
何をそんなにあわてていたのかは、よくわからない。たぶん、友達と遊んでいたところを俺に見られたくなかったんだろう。葵にも、俺の知らない付き合いがあるらしい。
◇
――ここから葵視点です――
部屋に入って、扉を閉める。そのまま背中を扉にあずけて、私は大きく息をはいた。
……危なかった。
キャップに気づかれたときは、心臓が止まるかと思った。でも、朔也は最後まで、私がついていっていたことには気づかなかった。気づかないどころか、「似合ってるんじゃないか」なんて、何も考えずに言ってきた。
そういうところだよ、ほんとに。
カバンを開けて、中から白いひつじを取り出す。
久遠寺先輩たちがゲームセンターを出ていったあと、私も同じ台の前に立った。朔也みたいにはいかなくて、取れたのは、千二百円使ったあとだった。黒いほうまでは、さすがにお小遣いが続かなかった。
のんびりした顔の、白いひつじ。誰に似ているかなんて、考えなくてもわかる。
机の上の、ハシビロコウの隣に置いてみる。ハシビロコウは相変わらず、何を考えているのかわからない顔で、新入りのひつじをにらんでいた。
椅子の背には、昨日の夜に朔也から借りた黒いパーカーが、かけっぱなしになっている。
来週の土曜日。今度は、私の番だ。
ホラー映画も、おそろいのぬいぐるみも、あーんも、全部見た。久遠寺先輩のお出かけなんて、比べものにならないくらいのお出かけにしてみせる。朔也が何を好きで、何が苦手で、どこに行けば一番楽しそうな顔をするのか。そんなの、誰よりも私が知っているんだから。




