12話:先輩と居残り
6時間目が終わって、帰りのホームルーム。月曜のそれは、いつもどおり5分で終わるはずだった。
「連絡は以上。……あ、椎名」
教卓で出席簿を閉じかけた榊先生が、思い出したように顔を上げた。目の下のクマは、週明けだというのに、先週より濃くなっているような気がする。
「お前にちょっと確認したいことがある。放課後、職員室に来い」
いつもより一段低い声だった。怒っているのか、ただ疲れているだけなのか、顔からは読み取れない。それだけ言うと、榊先生は出席簿を小脇に抱えて、教室を出ていった。
確認したいこと、と言われても、心当たりはまったくない。とにかく、面倒なことになりそうな予感だけがした。
前の席の葵が、くるりと振り返った。
「朔也。それ、もしかして課題のことじゃない?」
「そんなわけあるか。出してから、もう何日もたってるんだぞ」
「何日もたってるからでしょ。先生がノートを全部見終わるの、ちょうどこのくらいじゃない? たぶん、あれバレてるよ」
葵は小声でそう言うと、じとっとした目で俺を見た。先週の金曜の夜に、全部白状させられたばかりだ。言い返せる材料は、一つもない。
隣の席では、先輩が何も言わずに、こっちを見ていた。
放課後の職員室は、生徒の質問やプリント作りに追われる先生たちで、どこか空気が重たかった。あちこちの机から、ため息が聞こえたり、何か仕事に追われているような感じがする。
榊先生の机は、その一番奥にある。プリントの山と、飲みかけの缶コーヒーが三本と、たばこの箱が一つ。
「来たか」
榊先生は椅子に座ったまま、机の横に立った俺を見上げた。それから引き出しを開けて、テストの答案を一枚と、問題集を解いたノートを一冊取り出し、机の上に並べる。
答案は、先週の金曜にやった日本史の抜き打ちテストだった。一年の振り返りで、問題はほとんど春休みの課題から出ている。右上に、赤ペンで大きく書かれた点数は、14点。
ノートのほうは、俺の名前が書かれた日本史の課題だった。
「さて、椎名」
榊先生は、答案とノートのあいだを指でとんとんと叩いた。
「課題のほうは、間違いがほとんどない。どの問題も、きっちり解けてる。記述問題まで全部確認したが、これは時代の流れも、事件の背景もわかってないと書けない答えだ。それが、抜き打ちだと14点。同じ範囲から出してるのにな。これ、どういうことだ?」
「……たまたま、ですかね」
「たまたまでこうなるか」
榊先生はノートをぱらぱらとめくって、あるページで手を止めた。
「それにな。普通、答えってのは間違えたら赤で直すもんだ。お前のノート、赤で直したところがほとんどない。お前が、だぞ」
俺もまったく同じことを思った。先輩は、俺の課題を、真面目に解いてくれたのだ。真面目に解きすぎて、それが逆に目立ってしまった。
「課題がここまでできるなら、これくらい解けるよな」
榊先生は、ノートの一ページを指さした。
「承久の乱のあと、朝廷を見張るために京都に置かれた役所は?」
「……」
ノートの中の、俺の字そっくりの字が、きれいにその答えを書いている。でも、俺の頭の中には何も書いていない。
「えっと……さ、防人……?」
「それは奈良時代だ。500年ずれてる」
榊先生は、机をバンと叩いた。缶コーヒーが三本そろって、小さく跳ねる。
「椎名。まさかとは思うが、お前、この課題、自分でやったか?」
「や、やりましたよ。自分で」
声が、思ったより裏返った。
榊先生は、じっと俺の顔を見た。5秒くらい、何も言わない。背中に、じわりと嫌な汗がにじんでくる。シャツが背中にはりつく感触まで、はっきりわかった。その5秒が、テストの50分より長く感じた。
「……まあいい」
榊先生は椅子の背にもたれて、大きく息をはいた。
「自分でやったって言うなら、それでいい。ただ、この点数は見過ごせん。14点だぞ、14点。お前、日本史選択にするつもりなんだろ」
大事なことだから、点数を二回言ったのかな
「……一応」
日本史を選ぶつもりなのは本当だ。別に、歴史が好きというわけじゃない。嫌いではないし、なんとなく、ほかの科目より楽そうだと思っただけだ。
「なんとなくで選ぶのはいい。でも、なんとなくでも、この点数はないだろ。さすがにやばいぞ」
「でも、日本史って暗記じゃないですか。受験の直前に追いこめば、なんとかなるんじゃ」
「それは否定しない」
榊先生は、あっさりうなずいた。
「だが、それは最低限の勉強をしてるやつの話だ。お前の点数は、それ以前の問題だ。」
ぐうの音も出ない。
榊先生は引き出しから、今度はプリントの束を取り出した。ホチキスでとめられたものが、何部も重なっている。
「課題の中から、私が問題を選んで作った。金曜の放課後に、お前だけ追試をする。追試の問題はこの範囲から出すから、ちゃんと勉強しろ」
「はあ……」
「それと、このプリントを毎日一部ずつ、放課後に解いて私に出せ。金曜まで毎日だ」
榊先生は、そこでにやあっと口の端をつり上げた。
「つまり、今週は毎日居残りだな」
「毎日……」
「合格点は、9割以上」
「9割!? それはないですよ、先生」
「お前の課題の出来を見たら、当然だろ」
榊先生はプリントの束を俺の胸に押しつけると、自分で言って、自分で「よし」とうなずいた。返す言葉は、一つも見つからなかった。
「ほら、わかったら、さっさと教室に戻って今日の分をやってこい」
榊先生は椅子から立ち上がると、机の上のたばこの箱を手に取った。中をのぞいて、舌打ちをする。
「空か。……私は今から、コンビニでたばこを買ってくる。お前のせいで、ストレスがたまってしょうがないからな」
榊先生は、いら立ったようにたばこの箱を握りつぶした。それって本当に俺のせいなんですか、と聞き返してやろうかと思ったけど、何を言われるかわからないのでやめておいた。
プリントの束を抱えて、榊先生と一緒に職員室を出る。すると、廊下の窓ぎわに先輩が立っていた。
「あ、朔也くん」
先輩は、窓から差しこむ夕方の光の中で、小さく手を振った。
榊先生は先輩の姿を見て、一瞬だけ足を止める。
「……久遠寺、お前か」
ぼそっとそれだけ言うと、榊先生はたばこの箱をポケットにねじこんで、そのまま反対側の階段のほうへ歩いていった。
「榊先生に呼ばれてたけど、どうしたの?」
「……課題のこと、ほぼバレてました。一応、自分でやったって言い張りましたけど」
「え、なんで?」
先輩が、目をまるくした。
「抜き打ちテストが14点だったんですよ。それなのに、課題のほうはほとんど間違いがなくて、赤で直したところもないから、おかしいって」
先輩は少しだけ考えるような顔をして、それから、小さく「あ」と声をもらした。
「……そっか。私、ちゃんと解きすぎちゃったんだ」
「はい。完璧すぎました」
「ごめんね。朔也くんの学力に合わせないといけなかったのに、そこまで考えてなかった」
先輩は申し訳なさそうに眉を下げてから、ちらっと俺の顔を見上げた。
「でも、普通はあれくらい、わかると思うんだけどなあ」
「……それ、フォローになってないです」
「ふふ。ごめんね」
2回目のごめんねは、ぜんぜん申し訳なさそうじゃなかった。
「いや、まあ、先輩は悪くないです。出したのは俺なんで」
それから俺は、居残りと追試のことを手短に話した。先輩は、俺の腕の中のプリントの束をのぞきこむ。
「じゃあ、今週は一緒に帰れないんだ」
「すみません」
「ううん。じゃあ、私も残る」
「え」
「勉強、見てあげる。居残りの原因には私も絡んでるし、その責任はちゃんととってあげないとね。それに、朔也くんと一緒に帰りたいし」
先輩は当たり前みたいな顔で言って、束のいちばん上のプリントを一部抜き取った。
「私、文系も理系も、だいたい全部得意なんだ。日本史なら、私も選択するつもりだしね」
そういえば、この人は学年1位なのだ。だいたい全部得意なのは、当然か。
教室へ戻る途中、階段の上から声が降ってきた。
「あれ、紗月じゃん」
顔を上げると、3年生の女子が一人、手すりから身を乗り出していた。明るい茶色の髪を高い位置で一つに結んでいて、カバンには小さなぬいぐるみが三つも四つもぶら下がっている。
「千夏」
先輩が、少しだけ声をやわらげた。
「話には聞いてたけどさ。ほんとに2年の階にいるの見ると、なんか違和感あるね」
千夏と呼ばれた人は、階段を二段飛ばしで下りてきた。それから、先輩のとなりにいる俺に気づいて、目を細める。
「……ねえ。もしかして、その子が、噂の朔也くん?」
噂の。
俺が先輩のほうを見ると、先輩はうれしそうに、にこっと笑った。
「うん、そうだよ。朔也くん。かわいいでしょう?」
「へえ。君が、朔也くんね」
千夏さんは、俺の頭のてっぺんから足もとまで、品定めするようにじっと見た。目を細めたまま、口もとだけで笑っている。
「紗月が、年下の男の子にここまでなつくんだ。去年の紗月からは、想像できないなあ」
「……なついてる、んですかね。これ」
「なついてるなついてる。紗月、去年は誰が話しかけても、ほとんど『そう』しか言わなかったんだよ」
千夏さんはけらけら笑ってから、あ、と手を打った。
「自己紹介まだだったね。早川千夏です。紗月の、去年までの同級生。よろしくね、朔也くん」
「椎名朔也です。よろしくお願いします」
早川先輩はにっと笑って、俺に手を振った。先輩がほかの人とこんなふうに話しているのを、俺は初めて見た。クラスの誰かに話しかけられても、先輩はたいてい一言で終わらせてしまう。
「私は部活があるから、いくね!それじぁ、またね」
早川先輩はそれだけ言うと、また階段を上っていった。カバンのぬいぐるみたちが、跳ねるようにゆれていた。
「……先輩、俺の話、してるんですか」
「うん。いっぱいしてるよ?」
先輩は、少しも照れずにそう言った。
「朔也くんがかわいかったこととか、今日はこんなことに気づいたとかって、千夏のRINEに送ってるよ」
「えっ」
思わず声が出た。
何を送られているのか、考えただけで背中がひやっとする。この人のスマホには、俺の寝顔が52枚入っているのだ。まさか、あれも送っているんじゃないだろうか。聞きたいけど、聞いて「うん」と言われたら恥ずかしすぎるので、結局聞けなかった。
照れたのは、むしろ俺のほうだった。顔が熱くなってきて、俺はプリントの束を抱えなおすふりをして、先輩から目をそらした。
放課後の教室には、もう誰も残っていなかった。
窓ぎわの、いつもの俺の席。先輩は隣の自分の席から椅子だけを引っぱってきて、俺の机の横にぴたりとくっつけた。
「じゃあ、1問目から。承久の乱、どうして起きたかわかる?」
「……わからないです」
「そっか。じゃあ、そこからね」
先輩は、俺のノートの端に、さらさらと簡単な図を書きはじめた。上に朝廷、下に幕府。その二つのあいだに矢印を一本引く。
「朝廷が、幕府を倒そうとして負けちゃったの。それで幕府は、また朝廷が何かしないように、京都に見張りを置いた。それが六波羅探題」
「ろくはら、たんだい」
「京都の六波羅っていう場所に置いた、見張り役。名前に場所がついてるって覚えると、忘れにくいよ」
先輩の説明は、驚くほどわかりやすかった。教科書を読んでも頭に入ってこなかったことが、図と一緒だと、なぜかすっと入ってくる。
気づけば、窓の外はもう夕焼けになっていた。グラウンドのほうから、部活の終わりを告げる笛の音が小さく聞こえる。先輩のシャーペンが紙の上を走る音と、時計の秒針の音だけが、教室の中に残っていた。
誰もいない放課後の教室で、先生のプリントをやらされている。
この感じには、なんか覚えがあった。
あれは、去年の冬ごろだったかな。たしか、こんな放課後だった。榊先生の補習から逃げ出した、あの日。
思えば、あの日にあの事件があったから、俺と先輩は仲良くなったんだ。




