13話:先輩との出会い①
去年の12月。2学期の期末テストの、最終日の前日だった。
1年の教室には、俺と、教卓で答案の束に赤ペンを走らせている榊先生しかいなかった。窓の外は、16時半を過ぎたあたりから急に暗くなりはじめていて、蛍光灯の白い光だけが、やけにまぶしい。
中間テストで、俺は日本史と数学で赤点を取った。そのせいで、期末テストの期間中は毎日、放課後に榊先生の補習を受けることになっている。終わるのは18時。榊先生いわく、「期末で赤点を取らせないための、私の慈悲」らしい。慈悲というには、プリントの量が多すぎる。
机の上のプリントは、まだ半分も埋まっていない。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。先生の目を盗んで画面を見ると、ゲーム仲間とのやりとりに使っているチャットアプリ、ディスコールの通知が1件来ていた。送り主は、いつも一緒に遊んでいる「Snow」からだ。
『今日18時からな! 遅れるなよ!』
……忘れていた。
先週から約束していた、オンラインの協力プレイだ。4人そろわないと挑戦できないボスで、俺が抜けると、ほかの3人が全員待ちぼうけになる。18時まで補習を受けていたら、家に着くのは18時半。間に合うわけがない。
どうしたものかと思っていると、榊先生が赤ペンを置いて、椅子から立ち上がった。
「ちょっと一服してくる。椎名、ちゃんとプリント進めておけよ」
ポケットのたばこの箱を確かめながら、榊先生は教室を出ていった。足音が廊下の向こうに遠ざかっていく。
今しかない。
プリントをカバンに突っこんで、そっと扉を開ける。顔だけ出して左右を確かめると、廊下には誰もいなかった。蛍光灯の白い光が、しんとした床をまっすぐ照らしているだけだ。
よし、と心の中でつぶやいて、俺は昇降口に向かって全力で走りだした。
上履きが床をたたく音が、静かな廊下にやけに大きく響く。足音で気づかれるかもしれないと思ったけど、今さら止まれない。昇降口までは、あと廊下の角を一つ曲がるだけだ。ここを抜ければ、靴をはきかえて、校門まで一直線。18時には、余裕で間に合う。
勢いをつけたまま、角を曲がった。
その瞬間、目の前に人影があった。
あと一歩でぶつかるところで、どうにか足が止まる。上履きの底が床をこすって、きゅっと高い音が鳴った。
「おい、椎名、どこ行くんだ?」
榊先生だった。片手にライター、口にはまだ火のついていないたばこをくわえている。そういえば、職員用の喫煙所は、昇降口を出てすぐ横だった。逃げ道と一服の道が、同じだったらしい。
たばこをくわえたままの口もとが、ゆっくりと、にやりとゆがんだ。
「ずいぶん元気に走ってたな。おしっこが漏れそうか? トイレは逆方向だぞ」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
榊先生の目と、俺の目が合う。榊先生の手の中で、ライターがかちりと小さく鳴った。言い訳を考えようとした頭は、真っ白のまま一文字も出てこない。
気づいたときには、俺の体は勝手に回れ右をして、来た廊下を全力で走りだしていた。
「おい、椎名! 待て、こら!」
後ろから、榊先生の足音が追いかけてくる。階段を2段飛ばしで駆け上がって、踊り場を曲がる。下の階から、「椎名ぁ!」と叫ぶ声が響いた。
けれど、その声は、階段を1段上るごとに少しずつ遠くなっていった。
「……っ、はあ……あの、ガキ……くそ……たばこ、減らすか……」
息も絶え絶えの悪態が、下のほうから聞こえてくる。ヘビースモーカーの肺には、階段の全力ダッシュはきついらしい。
それでも、このまま廊下にいたら、いずれ見つかる。どこかに隠れないとまずい。
駆けこんだのは、2年生の階だった。テスト期間中で部活もないせいか、どの教室も電気が消えている。一番手前の、誰もいない教室に飛びこんで、後ろの壁ぎわにある掃除用具のロッカーを開けた。
ほうきとモップのすきまに、どうにか体を押しこむ。扉を閉めると、真っ暗になった。湿ったぞうきんのにおいが、鼻の奥までつんとくる。
扉の上のほうには、細いすきまが何本か横に並んでいて、そこから教室の中が見えた。黒板の上には、日付と時刻が表示される電波時計がかかっている。12月10日、17時43分。
しばらくして、廊下を誰かが通りすぎていった。足音が、教室の前で一瞬だけ止まる。
息を止める。
足音は、また動き出して、遠ざかっていった。
それから、どれくらいたっただろう。ロッカーの中でじっとしていると、時間の感覚がわからなくなる。そろそろ出ても大丈夫か、と扉に手をかけたとき、教室の扉ががらりと開いた。
入ってきたのは、女子が3人だった。
開いた扉から差しこむ廊下の明かりで、上履きのラインの色が見えた。2年生だ。3人は電気をつけないまま、窓から入るわずかな明かりの中を、迷わず窓ぎわの席へ歩いていく。
「ここだよね、久遠寺の席」
「そうそう。あいつ、いつも授業中ここで寝てるし。話しかけても態度悪いし。見た目がちょっといいからって、調子のりすぎじゃない?」
久遠寺、という名前に、俺は聞き覚えがあった。
2年の、久遠寺紗月。知り合いがほとんどいない俺でも、名前だけは知っている。超絶美人な先輩がいる、と、入学してすぐのころから、クラスの男子たちが何度も話していた。一度だけ、渡り廊下ですれ違ったことがある。アイドル顔負けの顔立ちで、こんなにきれいな人が本当にいるんだな、と、そのときは本気でそう思った。俺なんかとは一生関わることのない、高嶺の花みたいな人だ。
その久遠寺先輩の机のまわりに、3人が集まっている。
「授業中ずっと寝てるくせに、学年1位とか。ほんと、むかつくんだよね」
1人がいらだったように、机の脚をつま先で蹴った。がたん、と机が小さく揺れる。
「自分勝手なくせに、学年1位だから、先生にもひいきされてるしさ」
「マジで気にくわない。これで、あいつの信用を落としてやろうよ」
1人が、カバンから小さく折りたたんだ紙を取り出した。広げると、細かい文字がびっしり書いてあるのが、すきまからでも見える。もう1人がセロハンテープを切って、紙の四すみに貼りつけていく。そのまま3人目が紙を受け取って、机の下にもぐりこんだ。
……何してるんだ、あいつら。




