7話:春休みの課題
校門から教室まで、今学期でいちばん速く階段を上がった。今学期といっても、まだ二日目だけど。席に倒れこんだのが本鈴の十秒前で、朝のホームルームは、息を整えているうちに終わっていた。榊先生が何を言っていたのかは、ひとつも覚えていない。
一限目は、数学。朝、時間割を見た瞬間に、仮病を使って、保健室で休もうと思うぐらい逃げたかった。俺は数学が苦手だし、嫌いだ。中学のころからずっと嫌いだったし、進路は文系にするつもりだから、なおさら必要ないと思っている。狙いは私立文系の日本史選択。大学受験まで見すえたら、数学の出番は一回もない。
教壇に立った小林先生は、去年も俺たちの数学を担当していた人だ。今日も変わらず、チョークを一本ずつティッシュで拭いてから使っているが、そんなことをする理由は誰も知らない。
「春休みの課題を集めます。ノートを教卓に出してください」
あちこちでクラスメイトが立ち上がり、みんながノートを手に教卓へ向かい始める。前の席の葵も、ノートを持って立ち上がった。そのまま振り返って、俺の顔をのぞきこむ。
「朔也、課題ちゃんとやってるよね?」
「やってるよ。当たり前だろ」
「ほんとに? 去年の夏休みも冬休みも、課題まともにやってなかったでしょ」
「……今年は違うって」
葵はじとっとした目で俺を見て、小さくため息をついた。
「さすがにもう高校生なんだから、ちゃんとしてよね。今朝だって、私が起こしに行かなかったら遅刻してたんだから」
目が覚めたのは俺のほうが先だし、遅刻しかけたのは半分くらい葵と先輩のせいだと思う。言うと話がややこしくなりそうなので、黙っておく。
「わかってるって」
「ならいいけど」
葵はノートを胸に抱えなおすと、教卓の列へ並びに行った。
課題、と頭の中でくり返して、そこでようやく思い出した。終業式の日に配られた、数学の問題集。家に帰って机の上に置いて、春休みのあいだはスマホスタンドとして大活躍していた。厚さも傾きも、動画を見るのにちょうどよかった。
後回しにしているうちに、後回しにしていたことごと忘れていた。
「……やべえな」
小さく、声に出ていた。だけど、さっき葵に、何の迷いもなく「当たり前だろ」と言ったばかりだ。
教卓の上では、もうノートが何冊も積み上がり始めている。
「はい、これ」
窓側の席から、ノートが一冊、俺の机の上にすべってきた。
「朔也くんの、数学の課題」
先輩は頬杖をついたまま、にこっと笑っている。
「……え。どういうことですか、先輩」
「私が代わりに解いておいてあげたの」
ひそひそ声で言うとともに、先輩はカバンの口を少しだけ開けてみせた。中に、ノートがもう何冊も立っている。
「英語と、古典と、日本史もね。朔也くん、どうせ全部やってないと思ったから」
どうせ、のところだけ妙にはっきり聞こえた。言い返したいけど、言い返せる材料がひとつもない。
「いや、でも」
俺はノートを手に取って、声をひそめた。
「字でさすがにバレるでしょう。先輩の字と俺の字、全然違いますし」
「大丈夫。朔也くんの字、まねしておいたから」
表紙の名前から、もう俺の字だった。「朔」の右側の月を、縦にひょろっと細長く書くクセまで、そっくりそのまま。中をめくると数式も俺の字で、数字の「7」に入れる横棒まで、律儀に全部入っている。俺のノートより行がまっすぐなことを除けば、これは俺のノートだ。
「どうやって、俺の字を真似たんですか」
「去年ね、朔也くんのカバンから、ノートを何冊かもらったの。それを見ながら、同じ字が書けるまで練習したんだよ?」
もらった、というのは、渡したほうも覚えているときに使う言葉だと思う。
そういえば去年、ノートが何冊か、いつの間にかなくなっていた。授業中に板書を写すだけのノートで、大事なものでもなかったから、たいして気にしていなかったけど。
……あのノートを持っていった犯人、先輩だったのか。
教卓の上のノートの山が、また少し高くなる。
これなら、小林先生が虫眼鏡を持ってきてもバレないだろう。しかし、俺はノートを閉じて、先輩の机のほうへ押し戻した。
「……いや。さすがにこれは、そのまま出せないですよ、先輩」
「なんで?」
押し戻されたノートの端で、先輩の指が止まる。
「朔也くんのために、春休み、がんばったのに。……受け取ってくれないの?」
声が一段小さくなって、長いまつげが下を向いた。
課題をやってきてくれたことは、ありがたい。大嫌いな数学を一問も解かずに済むし、バレる心配もない。先輩が春休みをつぶしてまでこれをやってくれたことは、感謝極まりない。
でも、人に解かせた課題を自分の名前で出すのは、カンニングの親戚みたいなものではないかと考えてしまう。
だからといって、課題を忘れたら、たぶん放課後に居残りだ。家に帰ればゲームが待っているのに、誰もいない教室で問題集とにらめっこするなんて、考えるだけで肩が重くなる。
天秤は、思ったよりあっさり傾いた。
「……出させてもらいます。ありがとうございます、先輩」
先輩の顔が、ぱっと明るくなる。
「どういたしまして。じゃあ、課題も無事に出せるわけだし。私、朔也くんからご褒美ほしいな」
ご褒美。先輩が何を望んでいるのかは、まだわからない。
でも、春休みをつぶしてまで、俺の課題を全部やってきてくれたのは先輩だ。その先輩が何かを望んでいるなら、お礼にそれを叶えるのが義理というものだろう。
「……どうしたんですか、先輩」
先輩は体ごとこっちに向き直って、まっすぐ俺の目を見た。
「今週の土曜日。朔也くんと、お出かけしたいな。……いいかな?」
照れも、ためらいもない。ほんのちょっと首をかしげて、俺の答えを待っている。窓から入る朝の光で、茶色がかった瞳がいつもより明るく見えた。
……かわいすぎるだろ、この人。
去年、廊下ですれ違う男子がだいたい全員振り返っていた美人が、この距離で、この顔で頼んでくる。断るという選択肢は、最初から俺の頭に置かれていなかった。というか、こんなふうに見つめられてどんな男でも断れないにきまってる。
「え。いや、まあ……いいですけど」
言ってから、少し引っかかった。課題をもらったお礼にしては、ずいぶん安いのではないかと思う。
「でも、ご褒美って、お出かけでいいんですか?」
「うん。それがいいの」
「ほんとに、それだけで?」
「それだけ、じゃないよ。朔也くんと一日いっしょにいられるんだもん」
あたりまえのことみたいに言われて、返す言葉が見つからなかった。
「……わかりました。じゃあ、今週の土曜日で」
「うん。約束ね」
先輩はそれだけ言うと、自分のノートを持って立ち上がった。
俺もあとに続く。教卓のノートの山に、俺の字で書かれた、俺が一問も解いていない課題をのせる。小林先生は表紙をちらっと見ただけで、何も言わなかった。
全員が席に戻ると、小林先生が教卓の前に立って、話し始めた。たぶん、今年の授業の進め方とか、そういう話だ。
お出かけ。休日に、二人で、どこかへ行く。それって、つまり、デートってことか?
先輩と、土曜日に、二人で。どこに行くんだろう。そもそも、私服の先輩なんて一回も見たことがない。制服であれなのに、私服だったらどうなるんだ。
頭の中で、さっきの「お出かけしたいな」を三回くらい再生した。何回再生しても顔がゆるんでしまう。
十六年生きてきて、俺はデートというものを一回もしたことがない。何を着ていけばいいのかも、「お出かけ」と「デート」が同じものなのかすら、わからない。
小林先生は今年の授業について何か説明していたけど、俺の耳には、声がしているということしか届いていなかった。これはまあ、いつもどおりだけど。




