6話:先輩と朝
目が覚めた。
目覚ましが鳴る前に、まぶたが勝手に開いた。
枕元のスマホを見ると、7時30分。いつもは8時に目覚ましを三回止めて、ぎりぎりで家を飛び出すのが俺の朝だ。30分も早く、しかもこんなにすっきり目が覚めるなんて、久しぶりかもしれない。
今日は何かいいことがあるんじゃないか。そんなことを考えながら、寝返りを打とうとして――。
体が、動かなかった。
正確には、右腕が動かない。何かにがっちりつかまれている。それに、なんだか右側だけ、やけにあたたかい。
おそるおそる、首だけを右に向ける。
先輩が、寝ていた。
俺のベッドの上で。制服のまま。掛け布団の上に横になって、俺の右腕を両腕でぎゅっと抱えこんだまま、すうすうと気持ちよさそうに寝息を立てている。
長いまつげが、ときどき小さく揺れている。少しだけ開いた唇から、規則正しい寝息がもれる。いつもの余裕たっぷりの顔とは違う、びっくりするくらい無防備な寝顔だった。
……は?
いや、待て。待ってくれ。
目が覚めたら、隣に美人の先輩が寝ている。どこのラブコメだよ。
正直に言えば、男子高校生として、人生で一度くらいはこういう展開を妄想したことはある。あるけど、それはあくまで妄想の話で、まさか新学期二日目の朝に、いきなり現実で始まるなんて誰が思うんだ。
夢か。間違いなくこれは夢だな。
夢かどうか確かめる方法をいくつか考えて、全部やめた。確かめて、もし夢じゃなかったら、それはそれで困る。
それからしばらく、俺は天井を見つめたまま固まっていた。
なんで先輩がここにいるのか。どうやって入ったのか。いつからいるのか。考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。そのあいだも、右腕はがっちり抱えこまれたままで、先輩の体温がじんわり伝わってくる。
さっきから、自分の鼓動が耳の奥でどくどく鳴っている。
ふと、枕元のスマホに目をやった。
7時50分。
……やばい。
考えこんでいるうちに、20分も経っていた。そろそろ準備をしないと、本当に遅刻する。
とりあえず、腕を抜こう。そっと、先輩を起こさないように――。
「……んん」
右腕を引いた瞬間、先輩が小さくうなった。そして、逃がさないとでも言うみたいに、さっきよりもっと強く腕にしがみついてきた。
「さくやくん……」
寝言だった。寝言で名前を呼ばれた。
いや、こっちの心臓がもたないんですけど。
腕は完全に抱き枕扱いで、抜ける気配がまったくない。これはもう、起こすしかなさそうだ。
「先輩。先輩、起きてください」
空いている左手で、そっと肩をゆする。
「……ん……朔也くん……激しいよ……」
先輩は、寝言を言いながら、抱きしめている力が増した。
どんな夢を見てるんだよ。ていうか、夢の中の俺、何してるんだよ。
もう一回ゆする。先輩の眉が、ぴくっと動いた。
それから、長いまつげがゆっくり持ち上がって、とろんとした目が俺をとらえた。
「……あ。朔也くん。おはよう」
ふにゃっと、力の抜けた笑顔だった。寝起きでまだ頭が回っていないらしく、声もいつもよりずっとふわふわしている。
「おはようございます。……じゃなくて。先輩、なんでここにいるんですか」
「んー……?」
先輩はしばらくぼんやり俺の顔を見ていた。それから、ようやく状況を思い出したのか、ぱちぱちとまばたきをする。
「あ、そうだった。朔也くんを起こしに来たんだった」
「起こしに来た人が、なんで隣で寝てるんですか」
「ふふ。なんでだろうね」
なんでだろうね、じゃない。
「ていうか、どうやって家に入ったんですか」
「壁をよじ登って、窓から入ったの。朔也くんのお部屋、窓が開いてたから」
「え!?」
思わず、窓のほうを振り返る。昨日の夜、閉めたはずだ。たぶん。いや、閉めたっけ。
「ふふ、冗談だよ」
先輩は、くすくすと肩を揺らした。
「朔也くんのお母さんが、入れてくれたよ?」
冗談に聞こえないんだよ、この人が言うと。昨日、部屋の窓の場所まで確認していったし。
先輩はようやく腕を離して、ゆっくり体を起こした。ベッドの上にちょこんと座って、寝ぐせのついた髪を手ぐしで整えながら、こともなげに言う。
「朝、インターホンを押したらね、お母さんが出てきてくれたの。『朔也くんの同級生の、久遠寺紗月です。朔也くんを起こしに来ました』って言ったら、すごくびっくりしてた」
そりゃびっくりするだろう。
「それから、『あの子のところに、葵ちゃん以外の女の子が来るなんて』って。『あの子、友達も少ないから、仲良くしてあげてね』って、すごくうれしそうだったよ」
母さん。余計なことを。
「それで、お部屋まで案内してくれたの。いいお母さんだね」
先輩はにこにこと満足そうに笑った。昨日の「お母さんにご挨拶しなきゃね」は、こういうことだったのか。行動が早すぎるだろ、いくらなんでも。
「……それで。起こしに来たのに、なんで寝てたんですか」
「だって」
先輩は、ほんの少しだけ口をとがらせた。
「朔也くんの寝顔、すっごくかわいかったんだもん。起こすのがもったいなくて、しばらく見てたの。そしたら、いつの間にか、私も寝ちゃってた」
いつもはしっかり者の先輩に、こんな抜けた一面があるなんて。学年一位で、礼儀正しくて、隙なんてなさそうな人なのに。
「あ、そうだ」
先輩はスカートのポケットからスマホを取り出すと、画面をすいすい操作して、俺のほうに向けた。
「見て。かわいいでしょう?」
画面いっぱいに、俺の寝顔が並んでいた。
1枚じゃない。下にスクロールしても、まだ続く。口を半開きにしている俺、枕に顔をうずめている俺、なぜかピースみたいな形の手で寝ている俺。角度を変えて、距離を変えて、どれもしっかりピントが合っている。
「……何枚撮ったんですか、これ」
「えっとね、52枚」
「消してください」
「やだ」
先輩はスマホを胸に抱えて、ふるふると首を振った。
「全部、大事に保存するの」
いつものやわらかい笑顔のままだ。それなのに、なぜか一枚も消してもらえる気がしなかった。
そのときだった。
階段を上がってくる、聞き慣れた足音がした。
「朔也ー? 起きてるー?」
まずい。この声は。
「新学期二日目から遅刻とか、ほんとにやめてよね。榊先生に迷惑かかるし、昨日、自己紹介で『朔也の面倒は私が見ます』って言っちゃったんだから――」
止める間もなかった。
がちゃり、と部屋の扉が開いた。
葵が、立っていた。
カバンを肩にかけて、いつもどおりあきれたような顔で。その顔のまま、ベッドの上の光景を見て、ぴしっと固まった。
寝ぐせのついた俺。
その隣で、制服姿のままベッドにちょこんと座っている先輩。
「…………」
葵の口が、ぱくぱくと動いた。声が出ていない。
それから、みるみるうちに顔が赤くなっていった。耳まで、首まで、真っ赤に。
「な、な、な……」
「お、おはよう、葵」
「なんで久遠寺先輩が、朔也のベッドにいるの!?」
ほとんど悲鳴だった。
「おはよう、七瀬さん」
先輩は、まるで自分の部屋にいるみたいに、のんびりと手を振った。
「お、おはようございます……じゃなくて! 先輩、なんでここに……!」
「朔也くんを起こしに来たの」
「起こしに……?」
葵は、ぽかんと口を開けた。それから、もう一度ベッドの上をまじまじと見て、眉をぎゅっと寄せる。
「起こしに来た人が、なんで朔也と一緒にベッドにいるんですか!?」
「布団の上だ。中には入ってない」
「そういう問題じゃないでしょ!」
俺のフォローは、一瞬で切り捨てられた。
「朔也くんの寝顔を見てたら、いつの間にか寝ちゃってたの」
「い、意味がわからないです……!」
葵は扉の枠をぎゅっとつかんだまま、俺と先輩を何度も見比べている。完全にパニックだ。いつもの落ち着いた世話焼きの面影は、どこにもない。
それから、ちらっと俺のほうを見て、声を小さくした。
「……朔也。久遠寺先輩と、その、つ、付き合ってるわけじゃ、ないんだよね……?」
「ないって」
「……そ、そっか」
葵は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。それから、はっとしたように顔を上げる。
「べ、別に気にしてないから! 朝から変なもの見せられて、びっくりしただけだから!」
真っ赤な顔のまま、早口でまくしたてた。そんなに必死にならなくても。
よくわからないけど、まあ、朝から心臓に悪いものを見せてしまったのは悪かったと思う。相変わらず、根は真面目なやつだ。
すると、先輩がベッドに座ったまま、葵のほうへ顔を向けた。
「ねえ、七瀬さん」
「……はい」
「七瀬さんって、どのくらいの頻度で朔也くんを起こしに来てるの?」
声はやわらかかった。でも、なんとなく、ただの世間話には聞こえなかった。
葵は、少しだけ考えるように視線を上に向けた。
「えっと……今は、週に2、3回くらいですかね。去年は部活が忙しかったから、週1回のときもありましたけど」
それから、どこか得意げに付け足した。
「小学校から中学までは、毎日でした。今年はもう部活もないので、また毎日でも来れますけど」
そこまで言って、葵はほんのり頬を赤くした。
「あ、いや、別に、来たいとかじゃなくて。おばさんに頼まれてるから、仕方なくっていうか」
母さん、そこまで頼んでたのか。葵には、昔から本当に頭が上がらない。
ゆっくりと、先輩がこっちを向いた。
「朔也くん」
「……はい」
「昨日、七瀬さんが起こしに来るのは、週1回程と言ってなかった?」
顔はいつもどおり笑っている。なのに、先輩の周りだけ、部屋の温度が一気に下がった気がした。
「えぇ……そう、ですね……」
謎の圧に押されて、言葉がうまく出てこない。
「小学校から中学まで、毎日なんだ」
「……昔の話です」
「今年から、また毎日になるかもしれないんだ」
「……どう、なんでしょうね。さあ……」
先輩は、しばらく黙って俺を見ていた。それから、ふっと葵のほうへ向き直る。
「決めた。明日から、朔也くんは私が毎日起こしに来るね」
「え!?」
「だから七瀬さんは、もう起こしに来なくて大丈夫だよ」
にっこりと、完璧な笑顔だった。
葵の眉が、ぴくりと動いた。
さっきまでの慌てぶりが嘘みたいに、葵はすっと背筋を伸ばして、先輩をまっすぐ見返した。
「……それは、お断りします」
はっきりした声だった。
「私が朔也を起こすのは、小学生のころからずっとなんです。もう、習慣みたいなものなので。いきなり来た人に『もう来なくていい』って言われて、はいわかりました、って素直には聞けません」
葵が、先輩に言い返した。
いつも人当たりのいい葵が、こんなふうにはっきり言うのを見るのは、たぶん初めてだ。
「それに」
葵はちらっとベッドの上の先輩を見て、続けた。
「久遠寺先輩、起こしに来たって言ってましたけど。朔也と一緒に寝てましたよね? それ、起こしに来た意味、ないですよね」
「…………」
先輩の笑顔が、ぴたりと止まった。
ぐうの音も出ないほどの正論だった。
葵は小さく息をついて、カバンの持ち手をぎゅっと握りなおした。
「……朔也を起こすのは、私の役目なので」
最後のひとことだけ、少し声が小さかった。
葵って、そこまで世話を焼くのが好きだったっけ。そういえば昔から、俺の朝だけは妙にきっちり面倒を見てくれていた気がする。母さんへの義理堅さも、ここまで来ると立派だ。
先輩は何か言い返そうと口を開いて、閉じて、もう一度開いた。
「……それは、朔也くんの寝顔がかわいすぎたのが、いけないの」
「俺のせいですか」
「朔也くんのせいだよ」
先輩はほほをぷくっと膨らませて、ふいっと横を向いた。どうやら、言い負かされたのが相当くやしいらしい。
それから、横を向いたまま、ちらりと葵のほうを見た。
目を細めて、じっと。さっきまでとは違う、何かを確かめるような目だった。
「……ふうん」
小さく、それだけつぶやく。
その視線に気づいたのか、葵はくるりと俺のほうに向き直った。
「でも、私、まだ納得してないからね。久遠寺先輩ひとりに任せるなんて信用できないし。私も起こしに来るから」
そう言って、葵は腕を組んだ。
先輩は先輩で、ふくれっ面のまま、一歩も引く気がなさそうな顔をしている。
二人のあいだで、見えない火花が散っている気がした。朝の、俺の部屋で。
なんで朝からこんなことになってるんだ。
そう思いながら、なんとなく枕元のスマホに目をやって――俺は、固まった。
8時5分。
「……おい。二人とも、時間」
「え?」
「時間?」
「8時5分!このままだと、遅刻する」
葵と先輩が、そろってこっちを見た。
二人とも、目をまんまるにしている。
「……朔也が、時間気にしてる」
「朔也くんが、遅刻の心配してる……」
なんで二人して、珍しい動物を見るような目で俺を見るんだ。いや、気持ちはわかるけど。遅刻常習犯の俺が、自分から時計を気にする日が来るなんて、俺が一番びっくりしている。
でも、さすがに今日だけは遅刻できない。二日目から遅刻したら、榊先生に何を言われるかわからないし、葵の面目も丸つぶれだ。
「いいから、二人とも部屋から出てくれ。着替えるから」
「朔也くんのお着替え、手伝ってあげようか? 一人でできる?」
先輩が、首をかしげてにこっと笑った。
「一人でできます! 早く出てください!」
「わ、私はもう出るから!」
葵が先輩の腕を引っぱって、二人まとめて部屋から追い出した。扉が閉まる直前まで、先輩は楽しそうに手を振っていた。
俺は大急ぎで制服に手を伸ばした。
それから先は、ほとんど記憶がない。
とにかく急いで支度をして、三人そろって家を飛び出して、学校までの道をほぼ全力で走った。
校門をくぐったのと、予鈴が鳴ったのは、ほぼ同時だった。
ぎりぎり、セーフ。
息を切らしながら、俺は思った。
30分も早く目が覚めたのに、結局いつも通り遅刻しかけている。




