5話:先輩と帰り道
なんで始業式って、こんなに眠くなるんだろう。
体育館は春の日差しでちょうどいい気温だし、壇上から聞こえてくる校長の声は、一定のリズムで子守唄みたいに流れていく。何の話をしているのかは、最初の三十秒で追うのをあきらめた。
立ったままでも、眠いものは眠い。まぶたがだんだん重くなって、体がゆらゆら前後に揺れはじめる。前の列では、拓海の頭がかくん、と揺れた。お前も寝てるのかよ、と思ったところまでは覚えている。
――で、気づいたら校歌が流れていた。
え、とはっとして顔を上げると、周りが口をぱくぱくさせている。慌てて背筋を伸ばして、歌っているふりをした。
そのまま生活指導の先生が二言三言しゃべって、あっさり解散。あの長かったはずの校長の話がどんな内容だったのか、俺はひとつも知らない。
教室に戻ると、榊先生が時間割の載ったプリントを配っていた。
「授業の時間割は、今配ったプリント見とけ。各授業で春休みの課題の提出があるから、忘れんなよ。……はい、おしまい。解散」
要件だけ言うと、先生はさっさと教室を出ていった。去年からずっとこうなので、相変わらずだ。
途端に、教室ががやがやし始める。
「なあ、昼飯食いに行こうぜ。駅前の二郎系食いてぇわ」
「いいぜ、いこうぜいこうぜ」
「俺、部活あるからパス。明日から新入生の勧誘だし」
あっちこっちで声が上がって、カバンを持ったやつから順に教室を出ていく。始業式の日は授業がないから、昼前にはもう放課後だ。
俺はカバンに筆箱を放りこんで、大きく伸びをした。長い一日だった。まだ昼前だけど。
「朔也」
前の席から、葵がくるっと振り返った。カバンをもう肩にかけている。
「私、ちょっと前の部活のところに用があるから、先に行くね」
「ん。わかった」
「明日、ちゃんと遅刻しないで来てよ? 初日から寝坊とか、ほんとにやめてね」
「しねえよ」
「去年、入学式早々に寝坊してたの、誰だっけ」
「……」
ぐうの音も出ない。
「遅刻が続いたら、またおばさんに頼まれて、私が朔也のこと起こしに行かなきゃいけなくなるんだからね。わかった?」
「……はいはい」
適当に返事をしたら、葵はむっと唇をとがらせた。それから、ひらひらと手を振って教室を出ていく。
隣で、先輩がカバンを持ったまま、じっとこっちを見ていた気がした。
「おーい、朔也。昼飯行かね? 駅前の――」
カバンを肩にかけた拓海が、こっちへ歩いてきて、途中でぴたりと止まった。
視線の先には、俺の隣で、カバンを両手で前に持ってちょこんと立っている先輩がいた。
拓海は先輩を見て、俺を見て、もう一回先輩を見た。今日、この動きを見るのは何回目だろう。
「……あ、いいわ。うん。俺、ほかのやつ誘うわ」
「いや、別に――」
「爆発しろ」
それだけ言い残して、拓海はほかの男子の輪のほうへ去っていった。
先輩は、その背中にひらひらと小さく手を振ってから、こっちを向いた。
「朔也くん。一緒に帰ろ?」
ふわっと笑って、首をかしげる。
……まあ、断る理由は、特にない。
「いいですよ」
「やった!」
先輩は胸の前で、小さく両手を合わせた。
昇降口を出ると、校門の向こうに、春の昼間らしいぼんやりした青空が広がっていた。
先輩は俺の隣を、半歩だけ近い距離で歩いている。朝みたいに腕を組んでくるかと身構えていたけど、今は両手でカバンを持ったまま、楽しそうに前を見ているだけだった。
「ねえ、朔也くん」
校門を出てしばらく歩いたあたりで、先輩がふいに口を開いた。
「朔也くんって、七瀬さんに朝起こしに来てもらうこと、あるの?」
「え? ……どうしたんですか、先輩。急に」
「さっき七瀬さん、言ってたでしょう? 遅刻が続いたら、おばさんに頼まれて起こしに行かなきゃいけないって」
先輩は前を向いたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「それって、朔也くんのお母さんに頼まれて、七瀬さんが朔也くんを起こしに行くってこと、だよね?」
しっかり聞いてたのか、あれ。
先輩の笑顔は、まったく崩れていなかった。崩れていないのに、なぜか周りの気温が二度くらい下がった気がする。
「い、いや、毎日じゃないですよ。たまに、俺の遅刻が続いたときだけで」
「たまに、なんだ」
「たまにです」
「どのくらいの、たまに?」
同じことを、言い方だけ変えて重ねてくる。どうやら、ここで適当にごまかすのは許してもらえないらしい。
ジロッと、横目でのぞきこまれた。
……怖い。
「……週に、1回くらい、です」
「ふうん」
先輩はしばらく黙って前を向いていた。それから、ふっと表情をゆるめる。
「七瀬さん、ずっと朔也くんのお世話してくれてたんだね。えらいなあ」
声は、いつものやわらかい調子に戻っていた。……戻っていた、はずだ。たぶん。
川沿いの道をしばらく歩くと、いつもの大きな交差点に出た。角の喫茶店には「モーニングやってます」ののぼりが、もうお昼どきなのに元気よくはためいている。
ちなみに、モーニングの発祥はこのあたり、尾張のほうだって説があるらしい。
俺の家は、ここを右だ。
いつもどおり右に曲がると、先輩も当たり前みたいな顔で、一緒に右へ曲がってきた。
……ん?
「あの、先輩。先輩の家って、どっちなんですか」
「私? 日和町だよ。橋の向こうの」
日和町。橋の向こう。ってことは、さっきの交差点を左に曲がって、日和川を渡った先だ。
「それ、完全に逆じゃないですか。今の交差点、左ですよ」
「うん。知ってるよ?」
先輩は、きょとんと首をかしげた。何がおかしいの、とでも言いたそうな顔だ。
「知ってるよって」
「朔也くんのおうちまで一緒に行って、そこから戻るよ」
さらっと、とんでもないことを言った。
「いや、それ、普通逆じゃないですか。送るのって、男のほうの役目っていうか」
「まだお昼だよ? こんなに明るいんだから、大丈夫」
先輩は空を指さして、くすっと笑った。たしかに、雲ひとつない真っ昼間だ。不審者が出る時間帯でもない。理屈としては、まあ、通っている。通っているけど、なんか違う気がする。
「それにね」
先輩は、ほんの少しだけ歩く速さをゆるめた。つられて、俺の足も遅くなる。
「去年は学年が違ったから、帰る時間も、ずっとずれてたでしょう? だから、こうやって朔也くんと一緒に帰るの、ずっとやってみたかったの」
そう言って、先輩はこっちを向いた。
満面の笑みだった。まっすぐ俺の目を見て、本当にうれしそうに笑っている。頬が、ほんのり桜色に染まって見えたのは、春の日差しのせいか、それとも。
……こういうことを、なんでこの人は、こんなにまっすぐ言えるんだろう。
「……そうですか」
それしか言えなかった。というか、それ以上何か言ったら、こっちの顔まで赤くなりそうだった。いや、たぶん、もうなってる。
それから十分くらい歩いて、見慣れた二階建ての家の前で、俺は足を止めた。
「ここです。俺の家」
「ここが、朔也くんのおうちなんだ」
先輩は、門の前でじっと家を見上げた。表札を見て、玄関を見て、それから二階の窓をひとつずつ、ゆっくりと目でなぞっていく。
なんか、やけに真剣に見てないか。
「ねえ、朔也くんのお部屋って、どこ?」
「え? ……二階の、あの右側の窓ですけど」
「右側ね。うん、覚えた」
先輩は満足そうにうなずいた。
覚えた、って。何を。何のために。
「朔也くんのお母さんにも、今度ちゃんとご挨拶しなきゃね」
「……なんでですか」
「ふふ。なんでだろうね?」
先輩は口もとに人差し指を当てて、いたずらっぽく目を細めるだけで、答えてはくれなかった。
「じゃあ、私はここで。送ってくれてありがとう、朔也くん」
「いや、送ってもらったのは俺のほうなんですけど」
「ふふ。そうだったね」
先輩はくすくす笑うと、ひらりと手を振って、来た道を引き返していった。長い黒髪が、角を曲がって見えなくなるまで、俺はなんとなく門の前に突っ立っていた。
玄関の鍵を開けながら、ふと思う。
――なんで、部屋の場所まで聞いたんだろう。
その答えを、俺は次の日の朝、身をもって知ることになる。




