4話:先輩が留年したわけは?
席替えのごたごたがようやく落ち着いて、教室に新学期らしい空気がやってきた。教室の反対側からは、森下さんの上品な話し声が途切れずに聞こえてくる。
先生は出席簿をぱらぱらめくってから、顔を上げた。
「よし、席も決まったし、次は自己紹介だ。二年だからって、全員顔見知りってわけでもねえだろ。初めて同じクラスになるやつもいるだろうし、一年のときのこと思い出して、適当にやってくれ。名前と、あとなんかひとことな」
適当に、と言われると逆に困るんだよな、ああいうの。
「順番は席順でいい。窓側の前から行け」
窓側の列の一番前から、順番に立ち上がっていく。名前を言って、部活を言って、「よろしくお願いします」で座る。たまに受けを狙ってすべるやつがいて、まばらな拍手が起きる。
で、何人か終わったところで、俺の前の席の番が来た。
葵が立ち上がった瞬間、教室の空気がちょっと変わった。主に、男子のほうが。さっきまでぼんやり黒板を眺めていたやつらの視線が、一斉に葵のほうへ集まっている。わかりやすいな、本当に。
「七瀬葵です!最近は、お菓子作りにはまってます。今年一年、よろしくお願いします。あと、今は部活は入ってないので、2年生はたくさんお出かけして、思い出作りに励みたいです!」
葵の自己紹介が終わると、ほかのやつのときより明らかに大きな拍手が起きた。男子だけじゃなく、女子のほうからも「よろしくー」と明るい声が上がっている。教室全体が、なんとなくぱっと明るくなった感じがした。こういうところが、葵が学年中から好かれている理由なんだろう。
「あともう1つ」
座りかけた葵が、ちらっと後ろを振り返った。俺のほうを。
「今年は朔也と同じクラスなので、先生に迷惑をかけないように、朔也の面倒は私が見ます」
教室がどっと笑った。だけど何人かが俺のほうをギロッと見てくる。
まじで、余計なこと言うなよ....
「おー、助かる。七瀬、頼んだ」
先生まで乗っかってきた。葵は満足そうにうなずいて座った。
で、次は俺の番だ。
立ち上がってみたものの、葵のときとは空気がまるで違った。拍手の準備をしている手はほとんどないし、男子はまだ葵の後ろ姿を見ているし、女子は窓の外を見ている。誰も、俺に興味がない様子だ。
「……椎名朔也です。よろしくお願いします」
座ろうとしたら、教卓から声が飛んできた。
「椎名ー。相変わらずお前、つまんねえな」
「……つまんないもなにも、言うことがないんですけど」
「趣味とかあんだろ。ゲームとか」
「それ言ったら、去年『自己紹介でゲームの話すんな』って言いましたよね、先生」
「言ったっけか」
「言いました」
「ふーん。……はいはい、もういいよ。次、次」
扱いが雑すぎる。誰も笑わなかったし、拍手もまばらだった。俺は黙って座った。
窓側の列が終わって、隣の列の前から順番が回っていく。何人かの自己紹介が終わったあと、拓海の番が来た。
拓海は勢いよく立ち上がった。
「佐伯拓海です! バトミントン部です! 好きな食べ物は――」
そこで、拓海の声が少しずつしぼんでいった。
誰も、拓海を見ていなかった。
クラス中の視線は、拓海のひとつ後ろの席――つまり、次の順番を待っている先輩のほうに集まっていた。男子も女子も、拓海の頭越しに先輩を見ている。拓海の自己紹介なんて、誰の耳にも入っていない。
「……えー、以上です。よろしくお願いします」
ぱち、ぱち、と拍手が二回だけ鳴った。拍手したのは葵と、あとたぶん先生だ。
拓海は無言で座ると、こっちを振り返って、ものすごく悲しそうな顔をした。今日一日で、こいつは何回心を折られるんだろう。
そして、その次が先輩だった。
先輩が立ち上がると、教室が静かになった。
「久遠寺紗月です」
よく通る、落ち着いた声だった。
「皆さんの中には気づいている方もいると思いますが、私はもともと、ひとつ上の学年でした。今年は留年することになったので、もう一回、二年生をやります。一年間、よろしくお願いします」
先輩はそう言って、軽く頭を下げた。
一拍おいて、教室の真ん中あたりから手が挙がった。
「あの、質問いいですか。なんで久遠寺先輩は、今年二年生なんですか?」
教室中の空気が、ぴたりと固まった。
いや、お前。それ、聞くのかよ。
たしかに、ここにいる全員が気になっていたことだと思う。俺だって留年した真相は知りたい。でも、留年した本人に、面と向かって、みんなの前で聞くのは非常識すぎるだろう。
先輩は、少しも困った顔をしなかった。むしろ、待ってましたと言わんばかりに、にっこり笑った。
「三学期の間、二月から三月まで、短期留学に行っていたんです。進級試験がちょうどその時期にあったので、受けることができなくて。それで、留年することになりました」
なるほど、という空気が教室に広がった。質問したやつも「あ、そうなんですね」と納得したように座る。
……留学してたのか、この人。
三学期の間、学校で全然顔を見なかったのは知っている。でも、RINEは毎日来ていた。朝でも、夜中でも、時間なんて関係なく。こっちが返せば、だいたいすぐに返事が来た。
海外にいたなら、時差があったはずなのに、返事の速さは即レス。
なんとなく隣を見ると、先輩はクラスのほうを向いて、いつもの余裕のある顔で笑っていた。
「でも」
先輩の声が、少しだけ弾んだ。
「留年したおかげで、朔也くんと一緒のクラスになれたので。正直、感無量です」
教室が、しんとなった。
それから、一斉に視線が俺のほうを向いた。
主に、男子。全員じゃないかってくらいの男子が、ものすごい目でこっちを見ている。「なんでこいつが」と、顔にでかでかと書いてある。さっきの俺の自己紹介には、誰ひとり興味を持たなかったくせに。
「はいはい、次行くぞ」
しんとした空気を、先生の気だるい声があっさり壊した。頬杖をついたまま、出席簿の角で次の生徒を指している。
先輩が満足そうに腰を下ろして、次の生徒が立ち上がる。俺は机に突っ伏したまま、顔を上げられなかった。
「……先輩」
突っ伏したまま、隣にだけ聞こえる声で呼ぶ。
「なあに?」
「なんで、みんなの前で、あんなこと言うんですか」
「だって、本当のことでしょう?」
腕のすきまからのぞくと、先輩はもう前を向いていた。涼しい横顔のまま、口もとだけがゆるんでいる。
前の席では、葵の背中が固まっていた。振り返りはしない。シャーペンをノックする音だけが、カチ、カチと二回鳴った。
そのあとの自己紹介は、ほとんど頭に入ってこなかった。何人ぶんの名前を聞き流したのか、自分でもわからないが、そのあいだずっと、男子の視線が刺さっている気がした。
最後のひとりが座ったのとほぼ同時に、スピーカーからチャイムが鳴った。
「お、予鈴か」
先生は出席簿を閉じると、教卓からのそりと体を起こした。
「このあと始業式だ。次の予鈴が鳴るまでに、全員体育館に集まっとけよ」
がたがたと椅子を引く音が、教室中に広がり、ぞろぞろと廊下へ出ていく。
俺も立ち上がって、ひとつ大きく息を吐いた。
自己紹介ひとつで、なんでこんなに疲れなきゃいけないんだ。始業式すら、まだ始まってないってのに。
「朔也くん、一緒に行こ?」
隣から、袖をくいっと引かれた。振り返ると、先輩がいつもの笑顔で立っている。
「……まあ、いいですよ。どうせ行き先は同じですし」
「やった」
言うが早いか、先輩は俺の腕に、自分の腕をするりと絡めてきた。
「ちょっ……先輩!?」
「なあに?」
なあに、じゃない。
腕と腕が、隙間なくぴったりくっついている。制服ごしに先輩の体温が伝わってくるし、先輩の髪の甘い匂いが、さっきよりずっと近い。肩なんか、ほとんど俺に預けられているようなものだ。
心臓がうるさい。自分でもびっくりするくらい、うるさい。
いや、落ち着け。腕を組まれただけだ。たったそれだけで、ここまで動揺してどうする。
……いや、無理だろ、これ。こっちは思春期真っ只中の男子高校生なんだぞ。
「顔、赤いよ?」
「……赤くないです」
顔を見られたくなくて、俺はそっぽを向いた。けど、腕を組まれたままじゃ、たいして意味はない。
「ふふ。かわいい」
廊下には、まだクラスの男子が何人も残っていた。全員そろって、信じられないものを見るような目でこっちを見ている。明日から、俺の高校生活はいったいどうなるんだろう。
それでも先輩は、組んだ腕をほどく気配がまったくなかった。
新学期早々、予想外のイベントばかりで、俺はもうへとへとだった。




