2話:先輩とクラスメイト
先輩に続いて教室に入った瞬間、空気が止まった。
止まったのは、俺じゃなくて教室中の視線のほうだ。新しいクラスメイト同士の会話で盛り上がっていたはずの声がぴたりと途切れて、まだ半分くらいしか来ていないクラスメイトたちが、一斉にこっちを向いた。
「え、あれって……」
「久遠寺先輩、だよな?」
「なんで二年の教室にいんの?」
ひそひそ声が、波みたいに教室に広がっていく。まあ、そうなるだろうなと思う。
久遠寺紗月といえば、この学校で知らない人はいない。
アイドル顔負けの整った顔立ちに、透きとおるような白い肌と、つやつやの黒髪。全校集会で何百人と並んでいても、先輩がどこにいるかだけはなぜかすぐにわかる。人混みの中でも、あの人だけ輪郭がくっきり浮いて見えるのだ。おまけに成績は学年一位。ひとつ上の学年の、誰でも知っている有名人だ。
その有名人が、なぜか二年の教室に立っている。みんな、何が起きているのかまったくわかっていない顔をしていたが、俺も皆んなと同じ考えを抱いてる。
当の先輩はというと、視線なんて少しも気にしていなかった。にこにこしながら教室を見回して、当然みたいな顔で俺の隣にぴたりと並ぶ。
その瞬間、視線の向きが変わった。先輩から、俺のほうへ。
「……誰?」
「さあ。てか、なんで一緒に入ってきたの」
「さっき昇降口で抱きつかれてたやつじゃね?」
見られてた。しっかり見られてた。
気まずい。というか、なんで俺が気まずくならなきゃいけないんだ。
「朔也くん、どこの席?」
「……窓側の方ですね」
黒板に貼られた座席表を確認して、俺は逃げるように窓側の列へ歩き出した。先輩も当たり前のようについてくるし、視線も当たり前のようについてくる。
席は、窓側から二列目の後ろのほうだった。カバンを机に置いて、椅子に座って、ようやく一息――と思ったら、つけなかった。
先輩が、俺のひとつ前の席の椅子を引いて、後ろ向きにすとんと座ったからだ。そのまま俺の机に両肘をついて、ぐっと身を乗り出してくる。
「ふふ。朔也くんの席、ここなんだ」
近い。机ひとつぶんどころか、先輩の顔がほとんど目の前にある。長いまつげも、少し茶色がかった瞳も、笑うたびにゆるむ口元も、全部はっきり見える距離だ。さらりと落ちた黒髪が机の上に広がって、俺の指先をかすめた。昇降口で嗅いだのと同じ、甘い匂いがする。
目のやり場に困る。窓の外を見て、黒板を見て、天井を見て、それでも正面からの視線の圧からは逃げられない。
「ねえ。なんで目、そらすの?」
「……そらしてないです」
「じゃあ、こっち見て?」
「……」
「ふふ。耳、また赤くなってる」
勘弁してください。
「先輩。そこ、先輩の席じゃないですよね」
「うん。誰の席だろうね?」
「自分の席に行ってください」
「やだ」
考えるそぶりすらなかった。
そのとき、教室の後ろの扉が勢いよく開いた。
「うおっ、朔也じゃん! 同じクラスかよ!」
聞き慣れた、無駄にでかい声だった。
佐伯拓海。中学からの腐れ縁で、俺にとっては数少ない「わざわざ名前を探さなくても知ってる」知り合いだ。
拓海は座席表を確認すると、まっすぐこっちに歩いてきて、途中でぴたりと止まった。自分の席に座っている先輩を見て、俺を見て、もう一回先輩を見る。
出席番号で、佐伯の次は椎名。つまり先輩がいま座っているのは、拓海の席だった。
拓海は先輩に何も言えないまま、そろそろと俺の横にしゃがみこんで、口元に手を当てた。
「……おい朔也。なんで久遠寺先輩が、同じ教室にいるんだよ」
「……」
「てか、なんで俺の席に座ってんだよ」
ツッコミが二つ同時に来た。気持ちはわかる。
俺はちらっと正面の先輩を見てから、小さくため息をついた。
「……同じクラスメイトなんだよ」
「は?」
「だから。先輩、このクラスなんだって」
自分で言っておいて、まったく実感がない。
拓海は三秒くらい固まってから、さらに声をひそめた。
「……なんで一緒のクラスなんだよ」
「知らないって。俺が知りたいぐらいだわ」
「てか、昇降口で抱きつかれてたって、もう噂になってんぞ。お前、いつの間に先輩とそういう仲になったんだよ」
「なってない」
「私と朔也くんは、そういう仲だよ?」
先輩が、いたずらっぽく笑って答えた。
拓海が固まる。そりゃそうだ。机ひとつぶんの距離で内緒話をして、聞こえないわけがない。
「き、聞こえてました?」
「うん。全部」
「……そっすか」
拓海はゆっくり俺のほうを向くと、今度は小声ですらない声で言った。
「うらやましさと悔しさが混ざって、泣きそうなんだが」
拓海は悔しさのあまり、ハンカチを噛み締める婦人のような顔をしてた。
拓海はひとつ大きく深呼吸すると、意を決したように立ち上がって、背筋をぴんと伸ばした。
「あ、あの、久遠寺先輩」
「なあに?」
「そこ、僕の席なんですけど……よかったら、どいていただけますでしょうか」
僕、って。いただけますでしょうか、って。普段「俺」しか言わないこいつが、ここまで丁寧にしゃべるのを初めて見た。
先輩は頬杖をついたまま拓海を見上げて、にっこり笑った。
「嫌だね」
「え」
「いま、朔也くんとお話ししてるの。だから、あなたがどこか別のところに行ってくれる」
声はやわらかいままだった。なのに、俺に向けるときの甘さが一滴も入っていない。完璧な笑顔なのに、目だけがまったく笑っていなかった。
「……はい。すみませんでした」
拓海は、なぜかすぐに謝っていた。
拓海がしぶしぶ空いている席に避難したころ、廊下がまたざわつき始めた。さっきとはちょっと種類の違う、浮ついた男子たちの声だ。
「おい、七瀬さん来たぞ」
「マジ? このクラス?」
「よっしゃああ!」
それだけで、誰が来たのかわかった。
前の扉から、ひとりの女子が入ってくる。肩のあたりで揺れる明るい茶色の髪に、ぱっちりした大きな目。それだけで、教室の空気がふわっと明るくなった気がした。
「葵ちゃん、おはよー!」
「七瀬さん、同じクラスじゃん!」
「今年もよろしくね!」
あっという間に女子たちが集まってきて、男子は遠巻きにそわそわしている。
「おはよ。うん、よろしくね」
ひとりずつ笑顔で返しながら教室の中へ進んでいくけど、挨拶はなかなか途切れない。
入学早々、学年一の美少女として有名になって、告白した男子は数知れず。そして全員が玉砕している。あまりに玉砕者が続いたせいで、最近はもう告白しようとするやつすらいなくなったらしい。先輩とはまた別の意味で、この学校の有名人。
ようやく人の輪を抜けたその子が、ふとこっちを見た。
「あれ。朔也も同じクラスなの?」
いつもと変わらない、気の抜けた声。なのに、教室中の男子の視線が一斉に俺に突き刺さった。
七瀬葵。幼稚園からの、俺の幼馴染だ。
葵はカバンを肩にかけ直してこっちへ歩いてきて、途中で足を止めた。その目は、俺のすぐ正面に向いている。俺の机に頬杖をついて座っている、先輩に。
「……え?」
何度かまばたきしたあと、葵は早足で俺の横までやってきた。先輩をちらっと見てから、声をひそめる。
「……ねえ、朔也。なんで久遠寺先輩がいるの? どういうこと?」
「……俺たちと同じクラスメイトなんだよ」
「えっ? どういうこと? 久遠寺先輩はひとつ上だから、三年生でしょ」
拓海とほとんど同じツッコミだった。まあ、普通に考えたらそうなる。ひとつ上の先輩が二年の教室に座っていたら、誰だって気になるに決まっている。
「知らないって。俺が知りたいぐらいだわ」
結局、拓海に返したのと同じことしか言えなかった。
葵は眉を寄せて、俺と先輩を交互に見ている。納得できない、という顔だ。
そのとき、先輩が頬杖をついたまま顔を上げた。いつもの、余裕たっぷりの笑顔だった。
「おはよう、七瀬さん」
「えっ。あ……お、おはようございます。久遠寺先輩」
不意を突かれたのか、葵の返事は少しだけ上ずっていた。
ふと、手の甲に何かが触れた。見下ろすと、机の上に置いていた俺の手に、先輩の指先がそっと重なっていた。顔は笑ったままなのに、その指だけは離れる気配がない。
葵の視線が、その指先に落ちた。それから葵は、意を決したように先輩のほうへ一歩踏み出した。
「あの、久遠寺先輩。どうして先輩が、このクラスに――」
ガラッ、と前の扉が勢いよく開いた。
入ってきたのは、スーツ姿の女の先生だった。適当にひとつにまとめた髪に、目の下のくっきりしたクマ。新学期初日だっていうのに、もう一週間ぶんくらい疲れきった顔をしている。ただ、顔立ちそのものは妙に整っていて、ちゃんと寝てちゃんと身なりを整えれば普通に美人なんだろうなと思う。
榊真琴先生。年は二十代後半らしいけど、正確な年齢は誰も知らない。
そして俺にとっては、見覚えがありすぎる顔だった。
先生は出席簿で肩をとんとん叩きながら、教室をぐるりと見回した。
「お前らー。とりあえず、席につけー。話はそれからだ。ほら、そこ。突っ立ってんな」
気だるげな声ひとつで、クラスメイトたちが蜘蛛の子を散らすように自分の席へ戻っていく。葵も、何か言いたそうに先輩を見てから、しぶしぶ自分の席へ向かった。
先生の目が、俺の正面で止まった。
「久遠寺。お前もだ。そこはお前の席じゃねえだろ」
「はーい」
先輩はちょっと残念そうに立ち上がった。重なっていた指先が、ゆっくり離れていく。
「またあとでね、朔也くん」
耳元でそうささやいて、先輩は自分の席へ歩いていった。入れかわりに、拓海がそそくさと戻ってくる。
教室に、ようやく静けさが戻った。新学期が始まって、まだ十分も経っていない。なのに俺は、もう一日ぶんの疲れが溜まった感じがする。




