19話:追試の結果
放課後の、誰もいない教室。榊先生は回収した答案を教卓に置くと、その場で赤ペンを取り出して、採点を始めた。
赤ペンが紙の上を走る音だけが、静かな教室に響く。丸は一筆で、くるりと短く終わる。ばつは二回、紙をひっかく音がする。後半になるにつれて、ひっかく音ばかりが続いていった。
最後の問題まで採点を終えると、榊先生は赤ペンを置いて、答案を俺の机の上に突き出した。
右上に、赤い数字で大きく書かれていたのは、32点だった。
「……椎名」
榊先生の声は、怒鳴り声ではなかった。むしろ、いつもより低くて、静かだった。それが、かえって怖い。
「お前、毎日のプリント、真面目に解いたんだよな?」
「……はい」
「ちゃんと間違えて、ちゃんと赤で直してあった。時間もかけてたな。だから私も、今週は少しは真面目にやってるんだと思ってた」
榊先生は、答案の32という数字を、指でとんとんと叩いた。
「それで、なんでこの点数になる」
答えられなかった。答えたら、写していたことがばれる。けれど、黙っていたところで、たぶんもうばれている。
榊先生は、大きく息をはいた。それから、教卓をバンと叩いた。窓ガラスが小さくふるえるくらいの音だった。
「解答を写して出してただけだろ。わざわざ間違えたふりまでして。違うか」
「……すみません」
「謝って点数が上がるなら、いくらでも謝らせてやる。そういう小細工に頭を使うくらいなら、一問でも覚えろ」
榊先生はそう言って、俺の机の前まで歩いてきた。目の下のクマが、今日はいつにも増して濃く見える。
「いいか、椎名。来週の金曜日に、もう一回だけ追試をしてやる。それが最後だ」
「……はい」
「次も落ちたら、日本史の成績は1にする。冗談で言ってるんじゃないぞ。1がつくってことは、進級にもひっかかるってことだ。覚悟しとけ」
進級にひっかかる。
その言葉の意味が、ゆっくりと頭にしみこんでくる。進級できなければ、留年だ。そう気づいた瞬間、背中から血の気が引いていくのがわかった。
もう一度、2年生をやり直す。拓海や葵が3年生になっても、俺だけがこの教室に残る。同じ授業を受け直して、知らない後輩たちと同じクラスで過ごす。考えただけで、目の前が暗くなった。
そこで、ようやく気づいた。
先輩は、それを自分から選んだのだ。
俺が今、こんなにも怖がっていることを。周りから何を言われるのかも、友達と学年が離れてしまうことも、全部わかっていたはずなのに。誰に言われたわけでもなく、自分の意思で。
「……聞いてるのか、椎名」
「き、聞いてます」
榊先生は、もう一度大きくため息をつくと、ジャージのポケットからたばこの箱を取り出した。
「今日はもう帰れ。私は一服してくる。まったく、お前のせいで、余計なストレスがたまる」
教室を出ていく榊先生の背中を見送りながら、俺は机の上の32点の答案を、しばらく見つめていた。
家に帰って、晩ごはんを食べて、風呂に入って、ベッドに倒れこむ。そのあいだずっと、頭の中では二つの言葉がくり返されていた。
覚悟しとけ、という榊先生の声と。
何も覚えてないんだね、という先輩の声と。
天井を見上げたまま、来週の追試のことを考える。今度こそ、自分の力で解かなければいけない。でも、先輩に教えてもらったところ以外は、どこから手をつければいいのかさえわからない。先輩とは、まだ一言も話せていない。
スマホが短く震えたのは、そのときだった。
先輩からかもしれない。そう思って、飛びつくように画面を見る。
表示されていたのは、葵の名前だった。
『明日、約束覚えてるよね?』
一瞬、何のことかわからなかった。それから、少しずつ思い出してくる。先週の金曜日の夜、葵を家まで送っていったとき。門の前で、葵が振り返らないまま言った言葉。
――来週の土曜日。私とも、出かけてほしい。
……そうだった。
先輩とのことと、追試のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
返事を打とうとして、指が止まる。正直に言えば、今は出かけるような気分じゃなかった。追試は最悪の結果だったし、先輩とはまだ口もきけていない。こんな状態で遊びに行って、本当にいいんだろうか。
でも、約束は約束だ。それに、先週、葵は夜に家まで来て、服まで選んでくれた。今週だって、口ではあきれながら、ずっと俺のことを気にしてくれていた。ここで「やっぱり行けない」なんて言えない。
『覚えてるよ』
そう返すと、すぐに既読がついた。
『よかった。忘れてたら、一生恨んでたから』
『12時に、日和川駅ね』
『遅刻しないでね。遅刻したら、許さないから』
立て続けに届くメッセージを見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。いつもと変わらない葵の調子が、今の俺には、ありがたかった。
『わかった』
そう打って、スマホを胸の上に置く。
明日は、葵との約束の日だ。寝坊して遅刻なんてしたら、本当に一生恨まれかねない。俺はいつもより少し早く、部屋の電気を消した。




