18話:追試の日
金曜日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
といっても、すっきり起きられたわけじゃない。布団に入ってからも、ずっと先輩の「何も覚えてないんだね」という声が頭の中をぐるぐる回っていて、ほとんど眠れなかっただけだ。枕元のスマホを手に取ってRINEを開いてみても、画面に並んでいるのは、昨日の夜と同じ、俺の吹き出しばかりだった。
今日は、日本史の追試の日だ。
それなのに、俺は月曜日のあと、まともに勉強をしていない。
居残りのとき、榊先生は毎日、プリントと一緒に解答を一枚置いていった。「丸つけまで自分でやって、職員室に持ってこい」と言って、すぐに教室を出ていってしまう。
火曜日の放課後、誰もいない教室で一人プリントに向かったとき、先輩に教わったところまではすらすらと解けた。けれど、その先の問題に進んだとたん、手が止まった。問題文を読んでいるはずなのに、気づけば先輩の顔を思い出している。床に落ちたシャーペンの音や、扉の前で目もとをぬぐった背中が浮かんできて、一行も頭に入ってこない。
時計の針だけが進んでいく。プリントを出さなければ、榊先生に何を言われるかわからない。
気づいたときには、机のすみに裏返しておいた解答に、手がのびていた。
一度写しはじめると、止まらなかった。水曜日も、木曜日も、居残りの時間のほとんどを、解答を写すことに使っていた。
ただ、そのまま全部を写すようなことはしなかった。課題がばれたときのことを思えば、それがどれだけ危ないかはわかっている。あのとき榊先生は、「赤で直したところがない」と言ったのだ。
だから、わざと何問かは間違えて書いた。それを自分で赤ペンで直して、ちゃんと丸つけをしたように見せる。消しゴムで一度消したあとも、ところどころに残しておく。解くのに時間がかかったふりをして、すぐには出さずに、居残りの終わりぎりぎりまで待ってから職員室へ持っていく。
我ながら、ろくでもない小細工だった。それでも、榊先生は毎日、何も言わずにプリントを受け取ったから、答えを写したことはばれていないと思う。
もちろん、中身は何一つ覚えていない。考えなくても追試の結果は予想がつく。
教室に入ると、先輩はもう席に座っていた。
カバンの持ち手には、今日も黒いひつじが揺れている。先輩は教科書を開いたまま、窓の外をぼんやりと見ていた。俺が隣の席に着いても、こっちを見ようとはしない。
「……おはようございます」
声をかけてみたけれど、返事はなかった。先輩のまつげが、一度だけ小さく動いた。それだけだった。
もう4日目になる。慣れてもいいはずなのに、無視されるたびに、胸のあたりがきゅっと縮むような感じは少しも変わらなかった。
放課後。教室に残ったのは、俺一人だった。
前の席の葵は、ホームルームが終わると「がんばってね」とだけ言って帰っていった。拓海は部活に行く前に、俺の肩をばしっと叩いて「骨は拾ってやる」と笑った。
先輩は、今日も誰よりも先に教室を出ていった。
少しして、榊先生がプリントを一枚だけ持って教室に入ってきた。チョークで黒板のすみに「40分」と書くと、問題用紙を裏返しのまま、俺の机の上に置く。
「時間は40分。合格は9割以上だ。いいな」
「……はい」
「始めろ」
榊先生が教卓に戻るのを待ってから、問題用紙をめくる。
1問目を読んだ瞬間、シャーペンを持つ手に力が入った。見覚えのある問題だった。
承久の乱のあと、京都に置かれた、朝廷を見張るための役所を答えなさい。
――名前に場所がついてるって覚えると、忘れにくいよ。
月曜日の夕方の、先輩の声がよみがえる。ノートの端に描いてくれた、朝廷と幕府と、一本の矢印。あのときの先輩は、俺の机に椅子をぴたりとくっつけて、楽しそうにシャーペンを動かしていた。
六波羅探題。
その5文字だけは、迷わずに書けた。
2問目も、3問目も、月曜日に先輩が教えてくれた範囲だった。図を思い出しながら書いていくと、答えは自然に出てくる。もしかしたら、なんとかなるかもしれない。そう思えたのは、4問目に進むまでのほんの数分間だけだった。
4問目から先は、まるで知らない言葉が並んでいるように見えた。
問題文に出てくる人の名前も、事件の名前も、どこかで見た覚えはある。居残りのあいだ、毎日写していた解答に、たしかに書いてあったはずの言葉だ。それなのに、どれが何の答えだったのか、まったく思い出せない。
シャーペンを持った手が、問題用紙の上で止まったまま動かない。教室の時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。教卓の榊先生は、腕を組んだまま、じっとこっちを見ていた。
先輩がいれば、と思ってしまった。
月曜日みたいに、隣で図を描いてくれていたら。この問題も、きっとすんなり解けたはずだ。でも、その先輩に「そんなこと」と言ってしまったのは、ほかでもない俺だった。
「そこまで」
榊先生の声で、手に持っていたシャーペンを離す。問題用紙の下半分は、ほとんど白いままだった。




