17話:先輩が留年した理由
「私が留年した本当の理由……朔也くんなら、わかるよね?」
先輩の声には、問いかけというより、答えを確かめるような響きがあった。俺ならきっと知っているはずだと、最初から信じているような言い方だった。
けれど、俺の頭に浮かんだのは、先輩が始業式の日の自己紹介で話していたことだけだった。
「……留学じゃ、ないんですか」
そう答えた瞬間、先輩の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
まっすぐ俺を見ていた視線が、ゆっくりと下へ落ちていく。ノートの上に置いたシャーペンに、先輩はもう一度だけ指をのばしかけて、結局、ふれないまま手を引っこめた。
「……それは、建前だよ」
先輩は、ノートに目を落としたまま、ぽつりと言った。
建前。じゃあ、本当の理由は別にあるということだ。俺は、頭の中を必死に探した。留学のほかに、先輩が留年しなければいけなかった理由。思いつくものといえば、一つしかなかった。
「それなら……カンニングの事件のせいで、今の学年の人たちと、関わりづらくなったとか、ですか」
あの事件で先輩をはめたのは、同じクラスの女子たちだった。疑いが晴れたとはいえ、一度はクラス中から犯人だと思われたのだ。そんな人たちと一緒に3年生になるのが嫌だった、と言われても、おかしくはない気がした。
けれど、先輩は首を横に振った。
「違うよ。あの事件のことは、もう気にしてないもん」
先輩は、小さくため息をついた。窓の外から、部活の終わりを告げる笛の音が聞こえてくる。その音が消えるのを待ってから、先輩は少しだけあきれたように、ぽつりとつぶやいた。
「……朔也くんなら、わかると思ったのに」
「……すみません」
謝ることしかできなかった。先輩が何を期待していたのか、俺にはまったく見当がつかない。
先輩は、ノートに目を落としたまま、しばらく黙っていた。それから、何かをあきらめたみたいに、ゆっくりと口を開いた。
「私が留年した本当の理由はね、朔也くんと、クラスメイトになりたかったからだよ」
言い終わっても、先輩は顔を上げなかった。さっきノートの上に置いたシャーペンをもう一度手に取ると、先をノートに軽く当てたまま、頭の部分を指でつまんで、くるくると回しはじめる。長い髪のすきまからのぞく耳が、夕日の色とは違う赤さで染まっていた。いつもは人前でも平気な顔で抱きついてくるような人が、今は手もとのシャーペンばかり見つめて、俺と目を合わせることさえできずにいる。
クラスメイトになりたかったから。
その言葉が、頭の中で何度もくり返される。でも、何度くり返しても、意味がうまく入ってこなかった。
留年というのは、1年を丸ごとやり直すということだ。同じ授業を受け直して、友達とは違う学年になって、受験だって1年遅れる。学年1位の先輩なら、何もしなくても普通に3年生になれたはずなのに。それを、俺と同じクラスになりたいから、なんて理由で選ぶ人がいるなんて、考えたこともなかった。
だから、口から出たのは、ただの素直な疑問だった。
「……そんなことのために、留年したんですか」
くるくると回っていたシャーペンが、ぴたりと止まった。先輩の指から力が抜けて、シャーペンはノートの上で一度小さくはねると、そのまま机の端まで転がっていき、床に落ちる。乾いた小さな音が、二人きりの教室にやけに大きく響いた。
「……そんなこと、か」
先輩は、小さくそうつぶやいた。
ゆっくりと顔を上げた先輩は、笑っていた。けれど、それはいつもの余裕のある笑顔とはまるで違っていた。口もとだけで無理やり形を作ったような、今にもくずれてしまいそうな笑い方だった。
その顔を見て、ようやく気づいた。俺は今、先輩がずっと大事にしてきたものを、「そんなこと」の一言で片づけてしまったのだ。
「いや、違うんです。そういう意味じゃなくて」
あわてて言い直そうとしたけれど、続きの言葉が出てこない。何をどう言えば、今の言葉を取り消せるのか、わからなかった。
「……朔也くんは、何も覚えてないんだね」
先輩の声は、怒っているというより、ずっと期待していたことが外れてしまったときのような、静かな声だった。
「……え。何を、ですか」
聞き返した瞬間、先輩の笑顔が、ほんの少しだけゆがんだ。その顔を見て、また一つ気づく。今のは、聞き返してはいけないことだった。俺が覚えていなければいけない何かが、先輩の中にはあったのだ。
「ううん。なんでもない」
先輩は、首を小さく横に振った。その声が、かすかにふるえていた。
先輩は、膝の上で両手をぎゅっとにぎりしめていた。手の甲に筋が浮くくらい強く、まるで何かがこぼれ落ちないように、必死に押さえこんでいるみたいだった。唇をかんで、何度か小さくまばたきをくり返す。夕日を映した瞳が、さっきよりも濡れて見えた。
「……ごめん。ちょっと」
先輩は、がたんと音を立てて椅子から立ち上がった。床に落ちたシャーペンには、目もくれない。自分の席のカバンをつかんで肩にかけると、それだけで、もう帰りじたくは終わっていた。一秒でも早く、この場所からいなくなりたい。そう言っているみたいな動きだった。そのあいだ、先輩は一度も俺のほうを見なかった。
「今日は、先に帰るね」
いつもよりずっと細い声だった。最後のほうは、ほとんど聞き取れなかった。
「先輩」
呼び止めても、先輩は振り返らなかった。俺の声なんて聞こえなかったみたいに、早足で教室の後ろを抜けていく。背中で揺れる長い髪が、夕日に照らされて赤く光っていた。扉の前で一瞬だけ足を止めて、先輩は片手で目もとをぬぐうようなしぐさをした。それでも、こっちを見ることはなかった。
教室の扉が開いて、静かに閉まる。カバンの持ち手で揺れていた黒いひつじが、扉の向こうに消えていった。
追いかけなきゃいけない。頭ではそうわかっているのに、足が床にはりついたみたいに動かなかった。追いかけたところで、何を言えばいいのかがわからない。「そういう意味じゃなかった」と言うだけで、あの顔をさせてしまったことが帳消しになるとは、とても思えなかった。
机の上には、半分しか埋まっていないプリントと、先輩がノートの端に書いてくれた図が残っている。朝廷と、幕府と、一本の矢印。床に落ちたシャーペンを、俺は黙って拾い上げた。
その日の夜、俺は布団にもぐりこんだまま、RINEの画面とにらめっこをしていた。打っては消して、また打っては消して、結局送ることができたのは、短い一文だけだった。
『今日は、すみませんでした』
いつもならすぐにつく既読は、朝になってもつかなかった。
火曜日の朝、先輩は普通に登校してきた。
教室に入ってきて、いつもどおり俺の隣の席に座り、カバンをかけて、教科書を出す。昨日のことなんて何もなかったみたいに、動きはいつもと変わらない。ただ、こっちを見ようとしないことだけが、昨日までとはまるで違っていた。
「……おはようございます」
勇気を出して声をかけても、先輩は前を向いたままだった。隣の席なのだから、聞こえていないはずがない。聞こえたうえで、返事をしないことを選んでいる。
昨日拾ったシャーペンを、先輩の机の端にそっと置いた。先輩はそれを黙って手に取ると、こっちには一度も目を向けないまま、ペンケースにしまった。
授業のあいだも、休み時間も、先輩は誰とも話さなかった。ほかの女子に話しかけられても、「そう」と短く返すだけで、すぐに会話は途切れてしまう。早川先輩が言っていた、去年の先輩というのは、きっとこういう人だったのだろう。俺の知っている先輩とは、まるで別人みたいだった。
昼休みに、もう一度だけ話しかけようとした。けれど、俺が椅子から立ち上がるより先に、先輩は弁当の包みを持って、教室を出ていってしまった。
帰りのホームルームが終わると、先輩はすぐにカバンを持って、誰よりも先に教室を出ていった。放課後の居残りにも、先輩は来なかった。
隣の先輩の席は、からっぽのままだ。誰もいないその席を横目に見ながら、俺は一人で榊先生のプリントに向かった。
プリントをめくると、たまたま、月曜日に先輩が教えてくれたところが出てきた。
承久の乱と、六波羅探題。
――名前に場所がついてるって覚えると、忘れにくいよ。
先輩の声が、そのまま頭の中によみがえってくる。ノートの端に書いてくれた、朝廷と幕府と、一本の矢印。あの図を思い出しながら書くと、答えはすんなりと出てきた。
先輩に教わったところだけは、すらすらと手が動く。けれど、その先の問題になると、とたんにペンが止まってしまう。教科書を開いてみても、どこに何が書いてあるのかさえわからない。
昨日までは、隣で図を書いてくれる人がいた。その人がいないだけで、同じプリントが、昨日の何倍も難しく見えた。
水曜日の昼休み。
先輩は、今日も4時間目が終わるとすぐに、弁当の包みを持って教室を出ていった。隣の席がからっぽになったのを見はからったように、拓海が購買のパンをかじっている俺の机の横にしゃがみこんできた。
「なあ、朔也。お前、久遠寺先輩となんかあった?」
「……別に」
「別にって顔じゃねえだろ。先輩、火曜からお前のほう一回も見てねえぞ。あんなにべったりだったのに」
拓海の声が聞こえたのか、前の席の葵も振り返った。心配しているというより、あきれたような目で、じっとこっちを見ている。
「朔也が、久遠寺先輩を怒らせたんでしょ」
「……なんで俺が怒らせた前提なんだよ」
「だって、あの久遠寺先輩が、朔也に何もしてこないんだよ? そんなの、朔也のほうに原因があるとしか思えないじゃん」
言い返そうとして、何も出てこなかった。葵の言うとおりだったからだ。
「……ちょっと、怒らせたっぽい」
「何したの?」
それは、言えなかった。先輩が留年した本当の理由を、俺が勝手に人に話していいはずがない。
「……いろいろ」
「いろいろって、なに?」
「いろいろだよ。……詳しいことは、まだ言えない」
葵は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、小さく鼻を鳴らす。
「ふーん、そうなんだ。まあ、いいけど。朔也に原因があることは、よくわかった」
「……謝ろうとはしてる。でも、話しかけても、RINEを送っても、全部無視される」
「マジか」
拓海は頭をかきながら、気まずそうに天井を見上げた。葵は何も言わずに前を向いたけれど、その背中は、まだこっちを気にしているように見えた。
二人が気にかけてくれるのは、ありがたかった。それでも、何がいけなかったのか、俺自身がまだちゃんとわかっていない。わかっていないまま謝ったところで、先輩には届かないような気がしていた。
木曜日の夜。
RINEの画面には、月曜日から俺が送ったメッセージが、上から順に並んでいる。
『今日は、すみませんでした』
『先輩、少しだけ話せませんか』
『あのとき言いたかったのは、そういうことじゃなくて』
最初のメッセージには、火曜日の朝になってようやく既読がついた。けれど、返事は来ていない。それから後に送ったメッセージには、既読すらついていなかった。
いつもなら、時間なんて関係なく、送ればすぐに返事が来ていた。夜中に送っても、朝早くに送っても、数分もしないうちに返信が来ることなんて、ざらだった。それが今は、たった一言さえ返ってこない。画面を何度開いても、俺の吹き出しばかりが並んでいる。
何がいけなかったんだろう。
「そんなこと」という言い方がまずかったのは、さすがにわかる。でも、たぶん、それだけじゃない。先輩が最後に言った「何も覚えてないんだね」という言葉が、ずっと胸の奥に引っかかったままだった。俺は、何を覚えていなければいけなかったんだろう。先輩は、俺に何を思い出してほしかったんだろう。考えても考えても、答えは出てこない。
スマホを伏せて、天井を見上げる。
明日は、金曜日。榊先生の追試の日だった。




