16話:先輩との出会い④
職員室の奥の会議用の机で、動画は何度もくり返し再生された。
2年の学年主任の先生が、眉間にしわを寄せて腕を組む。
「……しかし、今は動画なんて、いくらでも作れるでしょう。ほら、ディープフェイクとかいう」
「そうですよね。椎名くんが、自分で加工したものかもしれないし」
別の先生が、俺のほうをちらりと見ながら言った。ほかの先生たちも、うなずき合う。俺は会議机の端で、小さくなっていた。
やっぱり、信じてもらえないのか。
そう思いかけたとき、榊先生が机をバンと叩いた。
「時計を見てください」
榊先生は、画面の上のほうを指さした。
「12月10日、17時43分。最終日の前日です。机の配置も、黒板の上の時計も、あの教室のままだ。わざわざこんなものを作るほうが、よっぽど手間でしょう」
動画の中は暗かったけれど、窓からのわずかな明かりで、3人の顔はぎりぎり見分けられた。2年の担任の先生の一人が、画面に顔を近づけて、小さく「……うちのクラスの子だ」とつぶやく。
榊先生は、そこで一度言葉を切って、先生たちの顔を順番に見た。
「それに、疑うなら、この3人の筆跡を取ればいい。カンニングペーパーの字と比べて、似ていれば、それで決まりです。動画もあるわけですから、証拠としては十分でしょう」
職員室が、しばらく静かになった。
学年主任の先生は、腕を組んだまま、もう一度だけ画面に目を落とした。
「……そうですね。まずは筆跡を確認してみましょう」
ほかの先生たちも、今度は黙ってうなずいた。
それから学年主任の先生は、俺のほうに顔を向けた。
「……それで、椎名くん。君は、どうしてこの時間に、2年の教室のロッカーにいたのかな」
一番聞かれたくないことを、一番まっすぐ聞かれた。
「……榊先生の補習から逃げて、追いかけられてたんです。どこかに隠れようと思って、たまたま飛びこんだのが、あの教室でした」
職員室が、一瞬しんとした。それから、何人かの先生が、こらえきれないように小さく吹き出した。
次の瞬間、横から伸びてきた手が、俺の頭をがしっとつかんだ。
「こいつが補習から逃げた件は、私があとでしめておきます」
榊先生はそう言いながら、俺の頭をぐいっと下げさせた。首の骨が折れそうな勢いだった。頭を下げたまま横目で見ると、榊先生は今日いちばん怖い顔で、俺をにらんでいた。
それでも、職員室の空気は、さっきまでとははっきり変わっていた。
それから2日後。
先生たちの話し合いの結果、あの動画は正式な証拠として認められた。久遠寺先輩のカンニングの疑いは晴れて、自宅待機も解除された。
学校のうわさは、まるでひっくり返したみたいに中身を変えていた。
「久遠寺先輩、はめられたんだって」
「やったの、同じクラスの女子3人らしいよ」
「証拠の動画があったって」
「え、誰がそんな動画撮ってたの?」
「さあ。たまたま居合わせた人がいたんじゃない?」
誰が動画を撮ったのかは、どこにも出てこなかった。俺が榊先生に、名前は出さないでくださいと頼んだからだ。目立つのは、どうにも苦手だった。
3人の女子は、無期限の停学になった。
一方の俺はというと、期末テストの結果がさんざんだったうえに、補習から逃げた罰もあって、冬休みに入るまで毎日、放課後に居残りを命じられていた。榊先生いわく、「しめておく」の中身がこれらしい。しかも、日本史だけじゃない。国語、数学、英語と、プリントは教科ごとに山になって配られた。
その日の放課後も、俺は1年の教室で、一人でプリントの山に向かっていた。
暖房のききすぎた教室は、眠るにはちょうどいいあたたかさだった。数学のプリントの数字が、だんだんにじんで見えてくる。まぶたが重い。シャーペンを持った手が、机の上で止まる。
眠気に耐えきれなくて、俺は目を閉じた。
どれくらい、そうしていたのかはわからない。誰かに見られているような気がして、重たいまぶたを持ち上げた。
目の前に、本当に誰かがいた。
俺の前の席の椅子に、後ろ向きに座っている。背もたれの上に腕を重ねて、その上にあごをのせて、じっとこっちを見ていた。ぼやけた視界が少しずつはっきりしてくると、長い髪と、女子の制服が見えてくる。女の人だ。
「……ん」
まだ半分、夢の中にいるような気分だった。誰だろう、と思う。クラスの女子ではない。こんなにきれいな人は、うちのクラスにはいない。
「……誰?」
寝ぼけたまま、口から出たのは一言だけだった。
その人は、何も答えずに、くすっと小さく笑った。
腰まで届く黒髪が、肩からさらりとこぼれる。長いまつげ。少し茶色がかった瞳。
あれ。
この人、どこかで見たことがある。
「君が、椎名朔也くん?」
「……はい、そうですけど」
名前を呼ばれた、その声で、頭の奥に引っかかっていたものがほどけていく。渡り廊下ですれ違った、あの日の記憶。うわさで何度も聞いた名前と、目の前の顔が、ようやく一つにつながった。
この人は、久遠寺紗月だ。
「く、久遠寺……先輩?」
「そうだよ」
なんで、この人がいるんだ。それにここは、1年の教室だぞ。
そう思った次の瞬間、いきなり手をつかまれた。
久遠寺先輩は背もたれから身を乗り出して、机の上の俺の手を、両手でぎゅっとにぎっていた。細くて、少しだけ冷たい手だった。いきなりすぎる展開に、眠気が一気にどこかへ飛んでいく。
「君が、私を助けてくれたんだよね?」
「……誰かと、勘違いしてませんか」
反射的に、そう答えていた。名前は出さないでくださいと、榊先生に頼んだのは俺だ。ここで認めたら、全部意味がなくなる。
けれど、久遠寺先輩は首を横に振った。
「榊先生から、もう全部聞いてるよ。証拠の動画を出してくれたの、椎名くんなんでしょう?」
あの人、名前は出さないでくれって頼んだのに。よりによって、本人に話してるじゃないか。本当に、余計なことしかしない。
ここまで知られているなら、今さらごまかしても意味がない。
「……え、ええ、まあ……そうですね……」
観念して、俺はしどろもどろに答えた。
「本当に、ありがとう!」
久遠寺先輩は、にぎった手にもう一度力をこめて、まっすぐ俺の目を見た。
「椎名くんは、私の恩人だよ!」
そう言って、久遠寺先輩は満面の笑みを浮かべた。目を細めて、ほっぺたが少し赤くなるくらい、心の底からうれしそうな笑顔だった。うわさの中の「学年1位」でも「高嶺の花」でもない、ただ素直に喜んでいる、ひとりの女の子の顔だった。
近くで見ると、本当にきれいな人だった。うわさでしか知らなかった人が、今、俺の手をにぎって、俺の名前を呼んでいる。
「……別に、いいですよ。目の前で誰かが理不尽な目にあうのは、許せないんで」
言ってから、急に照れくさくなって、俺は目をそらした。それ以上は、何も言えなかった。
それが、久遠寺紗月という人と、初めて言葉を交わした日だった。
◇
「……こうして残ってると、あの事件のこと、思い出すね」
先輩の声で、我に返った。
窓の外は、さっきよりも赤くなっている。先輩はシャーペンを指先でくるりと回してから、俺の顔を見た。
「先輩もですか。俺も、ちょうど同じこと思ってました」
「そうなの?」
先輩は、少しだけ目をまるくしてから、うれしそうに笑った。
「ふふ。私たち、同じこと考えてたんだね。あの日は、私にとって大事な日だもん」
それから、先輩はふっと真面目な顔になった。
「ねえ、朔也くん」
いつも俺の名前を呼ぶときの、からかうような甘い声とは、少し違っていた。
「……どうしました、先輩」
先輩は、すぐには答えなかった。持っていたシャーペンを、ノートの上にそっと置く。それから、まっすぐ俺の目を見た。
夕日を受けた茶色がかった瞳が、まばたきもせずに俺をとらえている。いつもなら、ここでいたずらっぽく笑うはずの口もとが、きゅっと結ばれたままだった。冗談を言うときの顔じゃない。そのことだけは、俺にもはっきりわかった。
「私が留年した本当の理由……朔也くんなら、わかるよね?」




