20話:幼馴染の様子がおかしい
早めに寝たはずなのに、今日も目覚めは最悪だった。
電気を消して布団にもぐりこんだところまではよかった。けれど、目を閉じると、先輩の顔ばかりが浮かんでくる。床に落ちたシャーペンの音や、扉の前で目もとをぬぐった背中。それから、榊先生の「覚悟しとけ」という声。うとうとしかけては目が覚めて、スマホを開いてはRINEに返事が来ていないことを確かめて、また目を閉じる。そんなことを何度もくり返しているうちに、窓の外が明るくなっていた。
それでも、寝坊だけはしなかった。昨日の夜、葵に「遅刻したら、許さないから」と言われたばかりだ。ここで遅刻なんてしたら、この先ずっと根に持たれるに決まっている。
いつもは遅刻ばかりしている俺だ。たまには早めに家を出てやるか、と思って玄関を出たのは、11時半すぎ。日和川駅に着いたのは、約束の10分前だった。
これなら、さすがに俺のほうが先だろう。そう思いながら改札の前に目を向けて、足が止まった。
葵が、もう立っていた。
改札の横の柱のそばで、スマホを片手に、ときどき前髪を指先で整えている。いつもの制服でも、先週の夜に見た部屋着でもない。春らしい、明るい色の服だった。
薄いミントグリーンのカーディガンは、袖が少し長めで、葵が手を動かすたびに指先のあたりまでふわりとかかる。その下には、白地に小さな青い花が散った、えりもとにリボンのついたトップス。丈が短めで、スカートとのあいだから、少しだけおなかがのぞいている。スカートは白で、すそにはふんわりとしたフリルがついていた。淡い色ばかりの中で、肩にかけた小さな黒いバッグだけが、全体をきゅっと引きしめている。
先週の先輩は、黒と灰色でまとめた、大人っぽい格好だった。今日の葵は、黒いのはバッグくらいで、あとは若葉みたいな緑と、花びらみたいな白ばかりだ。駅の地味な灰色の柱の前に立っているだけなのに、葵を見ていると、外はもうすっかり春なんだと感じさせられた。
近づいていくと、葵がスマホから顔を上げた。
「あ、朔也」
「……早いな」
「朔也こそ。10分前に来るとか、何があったの? いつも遅刻魔のくせに」
葵は、いつもの調子でからかうように笑った。その顔を見て、少しだけ違和感があった。
どこが、と言われるとうまく説明できない。けれど、学校で見る葵の顔とは、どこか違う。まつげがいつもより長く見えて、目もとがはっきりしている。唇も、学校のときより少しだけ明るい色をしていた。
「……なに。じろじろ見て」
「いや。なんか、学校のときと顔が違うなって」
「違わないでしょ。同じ顔だよ」
「化粧とか、してんのか」
「……普段からしてるよ。学校じゃ、先生に注意されないように、控えめにしてるだけ」
葵はそう言って、ふいっと横を向いた。そういうものなのか、と思う。毎朝のように顔を合わせているのに、そんなことにはまったく気づいていなかった。
「あと、それ。寒くないのか、そんな短いの着て」
「今はこういうのが流行ってるの。朔也には、わかんないよね」
葵は、あきれたようにため息をついた。4月の駅は、まだ少し風が冷たい。俺だったら、絶対にパーカーを着てくる。
「で、今日どこ行くんだよ」
「名古屋だよ。行きたいところ、いくつか決めてあるから。朔也は、ついてくるだけでいいよ」
葵はスマホをバッグにしまうと、そこで一瞬だけ動きを止めた。何かを考えるみたいに、改札の上の電光掲示板をじっと見上げている。
と思ったら、葵はくるりとこちらに向き直り、俺の左腕に自分の腕をするりと絡めてきた。
「……え。どうした、急に。なんで腕なんか組んでくるんだよ」
思わず声が上ずる。ネルシャツ越しに、葵の体温がじんわり伝わってきた。
葵は俺の顔を見ないまま、電光掲示板のほうに視線を逃がした。耳の先が、ほんのり赤い。
「……腕、組んだらダメなの?」
「いや、ダメってわけじゃ……」
「久遠寺先輩とは、いつも組んでるじゃん」
それから、拗ねたように小さく付け足す。
「なら、私だって組んだっていいでしょ」
「いい、けど。……どうした、葵? 大丈夫か?」
「……大丈夫」
葵はそっけなく言って、絡めた腕にきゅっと力をこめた。
「ほら、電車あと3分で来るよ。乗り遅れたら、お昼の予約に間に合わないんだから」
「わかった、わかったから。そんなに引っぱるなって」
「引っぱってない。組んでるだけ」
葵はそれ以上何も言わず、俺の腕を抱えこんだまま、改札に向かって歩いていった。
名古屋行きの電車は、土曜日の昼前ということもあって、ほどよく混んでいた。並んで座れる席が1つだけ空いていて、俺と葵はそこに腰を下ろした。
窓の外を、見慣れた日和川の土手が流れていく。
しばらく黙っていると、葵がちらりとこっちを見た。
「昨日の追試、どうだったの」
聞かれるだろうな、とは思っていた。
「……32点」
「さ、32点……」
葵は、思わずといった感じで声をもらした。
「合格、9割なんでしょ?」
「ああ。来週が最後のチャンスで、次落ちたら日本史の成績は1だってさ。進級にもひっかかるって」
自分で口にしてみると、あらためて状況の悪さが身にしみる。葵は何か言おうとして口を開きかけたけれど、すぐに閉じた。それから、ぱんっと小さく手を打った。
「はい。その話、今日はもう終わり」
「……は?」
「追試のことも、ほかのことも、今日は全部考えるの禁止。今日は遊ぶ日なんだから」
ほかのこと、というのが何を指しているのかは、聞かなくてもわかった。先輩とのことだ。水曜日の昼休みに、「朔也に原因があることは、よくわかった」と言っていた葵は、それ以上は何も聞いてこなかった。今日も、その話にはふれないつもりらしい。
「……わかったよ」
「よろしい」
葵は満足そうにうなずいて、窓の外に目を向けた。
正直に言えば、全部を忘れるなんて無理だと思う。それでも、葵がわざわざそう言ってくれたことは、ちゃんとわかった。
名古屋駅に着くと、葵は人ごみの中を迷うことなく歩いていった。駅の真ん中にある、金色の大きな時計の前を通りすぎて、地下街へ下りていく。何度か角を曲がったところで、葵は一軒の店の前で足を止めた。
赤いひさしに、白い文字で「オムライス王国」と書いてある。
その名前には、見覚えがあった。テレビの情報番組で何度も紹介されていて、名古屋に来たら一度は行っておけ、と言われるくらいの有名な店だ。外食にほとんど興味のない俺でも、名前だけは知っている。実際、店の前には、昼どきということもあって、通路の角を曲がった先まで長い行列ができていた。
入口の横のショーケースには、ふっくらと黄色いオムライスの見本が、ずらりと並んでいた。その中に、つやつやしたビーフシチューがたっぷりかかったものが一つある。
「……オムライス」
「好きでしょ。とくに、ビーフシチューがかかってるやつ」
葵は、当たり前みたいな顔でそう言った。
好きだ。たぶん、食べ物の中で一番好きかもしれない。でも、それを誰かに話した覚えは、最近はなかった。
「よく覚えてたな」
「覚えてるよ。小学生のころ、朔也の家で晩ごはん食べさせてもらったとき、オムライスの日だけ、朔也いつもそわそわしてたじゃん。『今日、オムライス?』って、何回もおばさんに聞いてさ」
「……そんなこと、あったか」
「あったよ。それで、おばさんが前の日から煮こんだビーフシチューをかけてくれる日は、もう大はしゃぎ。おかわりまでしてたもん」
言われて、ぼんやりと思い出してきた。台所から漂ってくる、ビーフシチューの甘いにおい。黄色い卵の上に、茶色いシチューがとろりとかかっていくのを、テーブルに身を乗り出して見ていたこと。
「でも、この行列、何分待ちだよ」
「大丈夫。予約してあるから」
葵はそう言って、行列の横をすたすたと通りすぎていく。店員さんに名前を伝えると、本当にそのまま窓ぎわの席に通された。
こんな有名な店の予約なんて、いつのまに取っていたんだろう。
席に着いて、店員さんが注文を聞きにくると、俺はメニューも開かずに答えていた。
「ビーフシチューのオムライスで」
「私は、ケチャップのオムライスお願いします」
店員さんが下がっていくと、葵がくすっと笑った。
「メニュー、見もしないんだ」
「あんな話をされたあとで、ほかのを頼めるかよ」
「言われてみれば、そうだよね」
運ばれてきたオムライスは、見本よりもさらに大きかった。ふわふわの卵の上に、ごろっとした牛肉の入ったビーフシチューがたっぷりかかっている。スプーンを入れると、とろりとした卵の中から、湯気の立つバターライスが顔を出した。シチューをからめてひと口食べると、じっくり煮こまれた肉のうまみと、卵のやわらかさが、口いっぱいに広がった。
「……うまい」
思わず、声がもれた。
今週は、何を食べても味がしなかった。購買のパンも、家の晩ごはんも、ただ口に運んでいただけだった。それなのに、このオムライスは、ちゃんとおいしいと思えた。
「でしょ!」
葵は、得意そうに胸を張った。それから、自分のオムライスにスプーンを入れながら、小さくつけ足す。
「朔也が今週、ずっとひどい顔してたから」
「……そんなにひどかったか」
「ひどかった。佐伯も心配してたよ。ゾンビみたいだって」
拓海らしい言い方だった。でも、それを聞いて少しだけ笑えたのは、たぶん、オムライスがおいしかったせいだと思う。
昼ごはんを食べた後、駅から少し歩いたところにある、細長いビルの中へ入っていった。1階は携帯ショップで、入口の案内板には、何の店なのかよくわからない横文字の名前がいくつも並んでいる。
葵はエレベーターに乗りこむと、迷わず3階のボタンを押した。
「次、どこ行くんだよ」
「着いてからのお楽しみ」
葵は閉まっていく扉のほうを向いたまま、ちらっとだけ俺を見上げた。
「朔也、絶対好きだと思う」
そう言って、葵はやけに自信ありげに口の端を上げた。
小さな揺れのあと、エレベーターが止まる。ポン、と間の抜けた音が鳴って、目の前の扉がゆっくりと開きはじめた。




