第2話 墓守王女は、名を受け取る
日が沈むと、帝都は別の顔を見せる。
昼の中央広場に満ちていた勝利の熱は、夜の冷気に押し流されていた。
黒い鷲の旗は城壁の上で重く垂れ、石畳に残っていた血の匂いも、水と灰で薄められている。
人々はもう、処刑の話を小声でしか口にしなかった。
灰狼将軍は死んだ。
最後の反逆者は斬られた。
帝国は勝った。
その事実だけが、夜の街に残っていた。
帝都北区の外れに、帝国管理墓地がある。
高い黒鉄の柵に囲まれ、入口には二体の石獣が置かれていた。
右の石獣は帝国兵の墓域を守る。
左の石獣は反逆者区画を睨む。
同じ死者であっても、帝国は眠る場所まで分ける。
帝国兵には名が刻まれる。
階級が刻まれる。
戦功が刻まれる。
だが、反逆者には番号だけが与えられる。
名は削られ、骨は砕かれ、灰は壺に収められる。
帝国に逆らった者が、死後も誰かの記憶に残らないように。
その墓地の門が、夜半に開いた。
鉄の車輪が軋む。
四人の帝国兵が、覆い布を掛けた小さな棺を運び込んできた。
人ひとりを収めるには、あまりに短い棺だった。
門の内側で、セレナはランタンを持って待っていた。
黒い墓守の外套。
顔を隠す頭巾。
胸には、帝国管理墓地職員の小さな銅章。
帝国から見れば、彼女はただの墓守だった。
遺体の受け取り、番号札の管理、埋葬記録の記入、墓標の整備。
それだけを任された、目立たぬ女。
兵士の一人が、書類を差し出した。
「第十三反逆首級だ」
セレナはランタンを少し上げた。
書類の上には、きっちりとした帝国式の文字が並んでいる。
処刑番号。
罪状。
搬送時刻。
清掃予定。
焼却予定。
封魂処置の有無。
そして、名前の欄には斜線が引かれていた。
反逆者名、記載不要。
帝国法務局の印が押されている。
「受け取りを」
兵士は短く言った。
疲れているのだろう。
今日一日、彼らも処刑の警備に駆り出されていたはずだった。
だが、その声に哀れみはない。
ただ、仕事を終わらせたい者の乾いた響きだけがあった。
セレナは黙って書類を受け取った。
帝国式の受領欄に、墓守としての名を書く。
セレナ。
姓は書かない。
帝国管理下において、下級職員に家名は不要とされている。
彼女がかつて、エルディア王家の名を持っていたことを、ここにいる兵士たちは知らない。
知っていたとしても、意味はなかっただろう。
帝国は国を滅ぼす。
王家も、紋章も、系譜も、名乗る権利も、まとめて焼く。
残った者は、帝国に与えられた職名で生きる。
墓守。
それが今の彼女の名だった。
兵士が棺を石台の上へ置く。
布の端から、血を吸った白い包帯が少しだけ見えた。
「明朝、解体清掃部隊が来る」
兵士が言った。
「それまで保冷室に置け。首級番号札は外すな。名は書くな。花も供えるな。反逆者区画の規定通りだ」
「承知しております」
セレナは頭を下げた。
兵士は面倒そうに鼻を鳴らす。
「最近、墓守どもは妙な情けをかける。番号墓に勝手に印をつけたり、罪状札を布で拭いたりな」
別の兵士が笑った。
「反逆者に泣くほど暇なら、帝国兵の墓でも磨いておけ」
「死者は平等ではありませんので」
セレナが静かに答えると、兵士は一瞬だけ彼女を見た。
その答えが気に入ったのか、あるいはただ規定に沿っていたからか、兵士は肩をすくめた。
「分かっているならいい」
彼らは引き渡しを終えると、足早に門へ向かった。
鉄の車輪が再び軋む。
門が閉じる。
錠が落ちる。
墓地には、夜と、ランタンの火と、小さな棺だけが残った。
セレナはしばらく動かなかった。
兵士たちの足音が完全に遠ざかるのを待つ。
見回りの灯が、外壁の角を曲がるのを待つ。
墓地の奥で、夜鳥が一度だけ鳴いた。
それを合図のように、セレナは棺の前へ進んだ。
ランタンを石台に置く。
受領書をたたむ。
帝国の番号札に指を触れる。
第十三反逆首級。
冷たい金属の札だった。
そこに、ガルド・ヴァルガンの名はない。
祖国の名もない。
灰狼騎士団の名もない。
彼が守った村も、焼いた補給線も、救った子どもたちも、何ひとつ残されていない。
帝国が与えたのは、数字だけだった。
十三。
反逆。
首級。
セレナは、ゆっくりと棺の覆い布を外した。
白い布に包まれたものが、そこにあった。
首だけになっても、ガルドの顔には処刑台で見せた険しさが残っていた。
目は閉じられている。
誰かが閉じたのだろう。
おそらく、処刑人ではない。
輸送前に清掃係が規定で閉じたにすぎない。
帝国は反逆者に敬意を払わない。
だが、死体を乱雑にも扱わない。
すべては規定通り。
すべては管理のため。
セレナは、膝をついた。
外套の内側から、小さな布包みを取り出す。
中には、古びた羊皮紙と、細い銀筆が入っていた。
帝国の台帳ではない。
エルディア王家に伝わる、誓約の手記だった。
分厚い皮表紙。
黒ずんだ角。
何度も開かれた跡のある背表紙。
その表紙には、かすれた古代文字で一文だけ刻まれている。
名を失くした死者は、帰り道を失う。
セレナは手記を開いた。
十三ページ目。
そこには、すでに名が書かれていた。
灰狼将軍ガルド・ヴァルガン。
旧ヴァルガン公国、灰狼騎士団長。
誓約者、第十三名。
生前契約、成立。
死後の名、セレナ・エルディアが預かる。
その下には、まだ空白があった。
セレナは銀筆を取る。
先端にインクをつける。
ランタンの火が、わずかに揺れた。
彼女は帝国の番号札の横へ、小さな白木の札を置いた。
そこに、丁寧な文字で名を書く。
ガルド・ヴァルガン。
一字も省かない。
一画も乱さない。
それは墓標ではない。
帝国に見つかれば、規定違反として燃やされる。
だから札は、棺の底板の隙間に隠す。
だが、それでいい。
死者に必要なのは、見せるための名ではない。
帰るための名だった。
セレナは、首に向かって静かに頭を下げた。
「お帰りなさい、ガルド将軍」
声は墓地の夜に沈んだ。
「お疲れ様でした」
風が、墓標の間を抜けた。
返事はない。
死者はまだ戻らない。
戻るには、名だけでは足りない。
骨。
血。
遺品。
誓約。
殺した者と、殺された者の導線。
帝国が埋めた無数の死者たち。
それらがすべて繋がらなければ、彼らは完全には帰れない。
それでも、名を受け取ることだけは今できる。
帝国は死者に番号を振った。
セレナは、その横に本当の名を書いた。
ただ、それだけのことだった。
だが、それが最初の弔いだった。
セレナは手記の十三ページ目に銀筆を置く。
空白に、静かに書き加えた。
首級、帝都中央広場より搬入。
番号札、第十三反逆首級。
帝国記録より名を削除。
こちらにて本名を保全。
十三の誓約者、すべて名を受け取る。
最後の一文を書いた時、銀筆の先がかすかに震えた。
セレナの手ではない。
手記そのものが、かすかに震えたのだ。
ページの端に刻まれた古代文字が、ランタンの灯を吸うように薄く光る。
ガルドの首に結ばれていた血の布が、微かに揺れた。
目は開かない。
口も動かない。
だが、墓地の空気が一瞬だけ重くなった。
どこか遠くで、鎖が鳴るような音がした。
セレナは動じなかった。
ただ、深く息を吐く。
「まだです」
彼女は静かに言った。
「まだ、起きる時間ではありません」
ランタンの火が落ち着く。
手記の光も消えた。
ガルドの顔は、再びただの死者の顔に戻っている。
セレナは布を戻した。
帝国の番号札も、元の位置へ戻す。
何も変わっていないように。
誰が見ても、規定通りに搬入された反逆者の首級にしか見えないように。
彼女は帝国のやり方を知っていた。
だから、帝国が疑わない形を知っている。
帝国は規定を信じる。
印を信じる。
番号を信じる。
整えられた書類を信じる。
ならば、見えるものはすべて、規定通りにしておけばいい。
大切なものは、その裏へ隠す。
番号札の裏。
棺の底板。
台帳の余白。
墓標の影。
帝国が見ない場所に、名は残せる。
セレナは棺を押して、保冷室へ向かった。
墓地の奥にある低い石造りの建物。
中は冷たい。
壁には反逆者区画の保管棚が並び、それぞれに番号札が掛けられている。
第一反逆胴部。
第二反逆灰壺。
第七反逆遺品片。
第十一反逆骨片、焼却待ち。
すべて、番号だった。
セレナはガルドの棺を、一番奥の棚へ収める。
第十三反逆首級。
帝国の札を掛ける。
それから、誰にも見えない棚板の下に、小さく指先で触れた。
そこには、細い針で刻まれた名があった。
イリス。
オルフェン。
ザハル。
ライゼン。
バルツァ。
ユアン。
他にも、十二の名。
帝国の番号棚の下で、亡国の英雄たちはすでに名を取り戻している。
今日、その隣に十三番目の名が加わった。
ガルド。
セレナは目を閉じる。
涙は流さない。
泣くことは、あとでできる。
怒ることも、あとでできる。
叫ぶことも、恨むことも、祈ることも、あとでできる。
いま彼女がしなければならないのは、間違えないことだった。
名を間違えない。
番号を取り違えない。
骨を失わない。
遺品の導線を切らない。
帝国の規定を破ったように見せない。
ひとつでも誤れば、死者は帰れない。
あるいは、帰ってきても別のものになる。
セレナは、亡国の王女だった。
だが、王冠はもうない。
軍もない。
民を守る城壁もない。
彼女に残されたものは、墓守の鍵と、死者の名と、禁じられた手記だけだった。
それで十分だった。
少なくとも、彼女はそう決めていた。
保冷室の外で、見回りの足音が近づいた。
セレナはすぐに手記を外套の内側へ戻し、帝国台帳を開いた。
兵士が扉を覗く。
「異常は」
「ありません」
セレナは顔を上げずに答えた。
「第十三反逆首級、規定通り保冷棚へ収容しました」
兵士は棚の札を見る。
第十三反逆首級。
番号はある。
封布もある。
帝国台帳にも記入がある。
問題はない。
「明朝、解体清掃部隊が来る。余計なことはするなよ」
「承知しております」
兵士はそれ以上見なかった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
セレナは台帳に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
帝国台帳の上には、番号だけが並んでいる。
その冷たい数字の羅列を見ながら、彼女は小さく呟いた。
「余計なことは、いたしません」
彼女は本当に、余計なことをするつもりはなかった。
帝国の規定通りに墓地を整える。
帝国の書式通りに記録する。
帝国が求める番号を、正しく棚へ掛ける。
ただ、その横に本当の名を書く。
ただ、死者が帰る道を塞がない。
ただ、奪われたものを忘れない。
それだけだ。
夜が深くなる。
保冷室の石壁に、ランタンの光が揺れる。
セレナは再び手記を開いた。
十三ページ目の最後の行に、もう一文だけ書き加える。
十三の魂、すべて揃う。
ただし、戻り道はいまだ細い。
明朝、解体清掃部隊来訪。
首級焼却前に、導線を確保すること。
銀筆を止める。
彼女はゆっくりと手記を閉じた。
その時、棺の奥から、ほんのかすかに音がした。
布が擦れるような、あるいは乾いた喉が息を思い出すような音。
セレナは振り向かない。
振り向けば、呼んでしまう。
呼べば、まだ細い導線が切れる。
だから彼女は、背を向けたまま言った。
「眠っていてください、将軍」
静かな声だった。
「まだ、あなたの名を呼ぶ時ではありません」
保冷室は、再び沈黙した。
外では、帝国の夜警が規則正しく巡回している。
墓地は静かだった。
帝国は、まだ何も知らない。
最後の英雄の名が、もう番号の下から取り戻されたことを。
死者の帰り道が、細く、しかし確かに繋がったことを。
そして、墓守王女が今夜初めて、帝国の勝利を清算の手記へ書き換えたことを。




