第1話 最後の英雄は、笑わなかった
最後の英雄は、笑わなかった。
泣きもしなかった。
命乞いもしなかった。
帝都中央広場の白い石畳の上で、両腕を鎖に縛られ、首を晒されても、灰狼将軍ガルド・ヴァルガンは一度も膝を折らなかった。
広場には、数千の民が集められていた。
帝国兵が槍を並べ、魔導砲が四方の塔に据えられ、処刑台の周囲には黒鉄の柵が三重に巡らされている。
逃がすためではない。
誰も近づけないためでもない。
これは、見せるための処刑だった。
大陸最後の反逆者が死ぬ瞬間を。
帝国に逆らった者が、最後に何になるのかを。
子どもにも、老人にも、商人にも、占領地から連れて来られた敗残の民にも、等しく見せるための儀式だった。
広場の正面には、巨大な帝国旗が垂れている。
黒い鷲。
七本の剣。
その下に、帝国宰相ベルトラム・ギースが立っていた。
皇帝本人は来ていない。
来る必要がなかった。
帝国にとって、反逆者の処刑など、もはや皇帝の時間を使うまでもない事務だった。
宰相は巻物を広げる。
声はよく通った。
「ガルド・ヴァルガン。旧ヴァルガン公国灰狼騎士団長。帝国法における反逆罪、占領地秩序破壊罪、帝国軍兵站焼却罪、ならびに戦時扇動罪により、斬首をもって処す」
群衆の中で、小さなざわめきが起きた。
灰狼将軍。
その名を知る者は多い。
帝国西方軍を三度退けた男。
落ち延びた諸国の兵を束ね、山岳地帯で帝国の補給線を焼き続けた男。
祖国を失った騎士、王を失った近衛、家族を焼かれた民兵、敗れた魔導士たちを集め、最後まで抵抗を続けた男。
帝国の公式記録では、ただの反逆者。
だが、滅ぼされた国々の者にとっては、最後の灯だった。
その灯が、いま処刑台に立っている。
ガルドの髪は白くなっていた。
灰狼と呼ばれた頃の、黒鉄のような髪はもうない。
左目は潰れ、頬には古い裂傷が走り、肩から胸にかけて斬撃の痕が残っている。
鎧は剥がされ、灰色の囚衣だけを着せられていた。
それでも、彼の背は曲がっていなかった。
鎖に縛られていても、捕虜には見えなかった。
敗者ではあった。
だが、屈服した者ではなかった。
帝国兵の一人が、槍の石突でガルドの膝裏を打った。
「跪け」
ガルドは動かなかった。
もう一度、強く打たれる。
鈍い音がした。
それでも、彼は立っていた。
処刑人が舌打ちする。
宰相ベルトラムは、わずかに眉を動かしただけだった。
「よい。立ったまま死にたいなら、そうさせてやれ」
その声には、苛立ちよりも余裕があった。
帝国は勝った。
周辺諸国は消えた。
王たちは首を落とされ、将軍たちは戦場で倒れ、魔法国家は塔ごと焼かれた。
いまさら一人の男が立って死のうと、帝国の勝利は揺るがない。
だから宰相は、慈悲深い支配者のように片手を上げた。
「帝国は寛大である。最後に一言、言い残すことを許す」
広場が静まった。
誰もが期待していた。
怨嗟か。
呪詛か。
命乞いか。
あるいは、最後まで帝国を罵る反逆者の愚かしい叫びか。
処刑場の隅で、数人の記録官が羽根ペンを構えた。
遺言すら帝国の記録に収め、反逆者の最期として管理するためだった。
ガルドは、ゆっくりと顔を上げた。
彼の視線は、宰相にも、処刑人にも、帝国旗にも向かなかった。
群衆の奥。
広場の端。
逆光が落ちる石壁の陰で、木札入れを抱えて静かに立つ、
一人の墓守へ向けられた。
黒い外套。
古びた頭巾。
手には、帝国管理墓地の職員が使う木札入れ。
誰も、その女に注意を払っていない。
処刑後の遺体を引き取る下働き。
反逆者区画の埋葬記録をつける墓守。
それ以上のものには見えなかった。
だが、ガルドだけは知っていた。
その頭巾の下にいる女の名を。
セレナ・エルディア。
滅ぼされた魔法国家エルディアの最後の王女。
そして、彼ら十三名の英雄が、死後の名を預けた墓守だった。
ガルドの唇が、かすかに動く。
声は、驚くほど静かだった。
「時は満ちた」
広場の端にいた子どもが、母親の袖を掴んだ。
なぜか、その声は遠くまで届いた。
叫んでいない。
魔法を使った気配もない。
それなのに、白い石畳の上を滑るように、低い声が群衆の耳へ届いていく。
「帝国よ」
ガルドは、処刑台の上でまっすぐ前を見た。
「貴様らが埋めたものを返してもらう」
宰相の顔から、わずかに笑みが消えた。
処刑人が剣の柄を握り直す。
帝国兵の列に、小さな緊張が走った。
ガルドは続けた。
「名を奪い、骨を砕き、番号に変えた者たちよ」
風が止まった。
旗が揺れなくなる。
群衆のざわめきも消えた。
「死者は、忘れていない」
その言葉を聞いた瞬間、広場の誰もが、理由のない冷たさを感じた。
真昼だった。
太陽は高く、石畳は熱を持っていた。
だが、その場にいた何人かは、まるで墓穴の底から風が吹いたように、首筋を押さえた。
宰相ベルトラムは、すぐに片手を下ろした。
「処刑を執行せよ」
処刑人が動く。
ガルドは、最後まで目を閉じなかった。
彼の視線は、もう一度だけ、群衆の奥に立つ墓守へ向いた。
セレナは、わずかに頭を下げた。
それは別れではなかった。
誓約を聞き届けた者の、静かな礼だった。
刃が振り下ろされる。
鈍い音が、広場に落ちた。
群衆の何人かが目を逸らした。
帝国兵が槍の石突で地面を叩く。
記録官が羽根ペンを走らせる。
宰相は処刑台から視線を外し、すでに次の文書へ目を移していた。
帝国にとって、ひとつの処理が終わっただけだった。
広場に高らかな宣言が響く。
「大陸最後の反逆者、処刑完了!」
その言葉に、兵たちが勝利の鬨を上げた。
黒い鷲の旗が、再び風に鳴る。
群衆は押し出されるように動き始めた。
処刑を見せられた者たちは、誰もが悟っていた。
もう、抵抗は終わったのだと。
レジスタンスは滅びた。
灰狼将軍は死んだ。
帝国に逆らえる国も、軍も、英雄も、もう残っていない。
大陸は帝国のものになる。
それが、この処刑の意味だった。
少なくとも、帝国はそう思っていた。
セレナは、群衆の流れに逆らわず、静かに広場の端へ下がった。
頭巾の下の顔は、誰にも見えない。
泣いてはいなかった。
唇を噛んでもいなかった。
拳を握りしめてもいなかった。
ただ、木札入れの中にある一枚の薄い札へ、指を触れていた。
帝国管理墓地、反逆者区画。
処刑後搬送予定。
第十三反逆首級。
そこには、まだ名前がなかった。
帝国が名前を消したからだ。
帝国は、反逆者に名を残すことを嫌う。
名を残せば、語られる。
語られれば、思い出される。
思い出されれば、火種になる。
だから帝国は、死者から名を奪う。
番号を振る。
骨を砕く。
灰を壺に詰める。
墓標には、功績ではなく罪状だけを刻む。
それが帝国のやり方だった。
合理的で、冷酷で、間違いがない。
だからこそ、セレナはそのやり方を覚えていた。
誰よりも正確に。
広場の片隅で、処刑台が洗われていく。
血はすぐに水で流された。
帝国兵は慣れている。
石畳に赤い色が残れば、民が余計な感傷を抱く。
反逆者の血など、早く消すに限る。
首と身体は、別々の布に包まれた。
記録官が番号札を添える。
解体清掃部隊への引き継ぎは、日没後。
それまで、処刑場裏の保冷室に置かれる。
セレナはその手順を知っていた。
何時に門が閉まるかも。
どの兵が運ぶかも。
どの書式で受領印を押すかも。
すべて、帝国の規格通りだった。
帝国は、規格を守る。
規格を守る帝国は、強い。
そして、強いからこそ、同じ手順を何度でも繰り返す。
セレナは、最後に一度だけ処刑台を見た。
そこにはもう、ガルドはいない。
血も流されている。
民も散り始めている。
宰相も兵も、勝利の儀式は終わったと思っている。
だが、セレナの耳には、まだあの声が残っていた。
時は満ちた。
帝国よ、貴様らが埋めたものを返してもらう。
セレナは、ゆっくりと目を伏せた。
「しかと、聞き届けました」
誰にも届かないほど小さな声だった。
だが、その言葉は、墓守の誓いとして十分だった。
彼女は木札入れを閉じる。
広場の鐘が鳴る。
帝国の勝利を告げる鐘だった。
セレナには、別の音に聞こえていた。
それは、死者たちの清算が始まる合図だった。




