第18話:『壊された期待値』
「白木、やめろ……!」
翔太の声が思わず掠れた。
目の前には吉野のウイスキー。そして離れた場所には、自分のすべてが詰まったスマートフォン。そのひび割れた液晶画面のすぐ横に白木の尖った靴先がそっと添えられている。ほんのわずかに体重をかけるだけで翔太の生命線は無惨に踏み潰されるだろう。
「どうしたの、翔太くん? さっきまでの冷静な顔はどうしたのさ」
白木はクスクスと喉を鳴らしながら靴先でスマホの側面をカチカチと突いた。その不快な硬質音が翔太のこめかみを突き刺す。
「君は『確率』とか『期待値』とか言って賢そうにしてたけどさ……結局、自分の運命を他人に握られたら何もできないじゃないか」
「……白木、お前は勘違いしている」
翔太は必死に動悸を抑え込み冷徹な声を作り出した。心臓が耳元で鳴っている。指先が震えそうになるのを腿の裏に爪を食い込ませて押さえつけた。
「俺のスマホを壊して俺を失格させれば、お前が得をすると思っているのか?」
「得とか損とかじゃないよ。楽しいかどうかだ」
白木は歪んだ瞳で翔太を嘲笑う。詩織のスマホを弄びながらまるで舞台を観劇するかのように翔太の焦りを楽しんでいた。
だが翔太は言葉を止めない。脳内で超高速の計算を叩き出し白木という狂人の「行動理念」を解読していく。
「お前の狙いは自傷と他害……つまり『誰かの絶望と苦痛』を見ることだ。だが、俺がここでただの物理的な事故で死んだらどうだ? それでお前の欲求は満たされるか?」
「……なんだって?」
白木の指が一瞬止まった。
「俺が自爆するでもなく、お前が刃物で切り刻むでもなく単なる『ルール違反の自爆巻き込まれ』で俺が消えたらそこにあるのは不完全燃焼だ。お前が一番欲しい『極上の苦痛』は手に入らない」
白木が靴先をピタリと止めた。部屋の空気が一変する。それまでクスクスと響いていた嘲笑が消え白木の目に初めて「興味」の色が浮かんだ。
「へぇ……面白い屁理屈だね」
「屁理屈じゃない事実だ。お前は俺が極限の我慢の末に破滅する姿が見たいはずだ。こんな呆気ない死に方で俺を脱落させてお前は満足できるのか?」
白木は目を細めじっと翔太の表情を観察する。
翔太の背中には滝のような冷や汗が流れていた。賭けだ。白木の「自傷・他害への執着」を利用した極限の心理的誘導。期待値計算でもなんでもない。相手の嗜好に賭けた、ギャンブルそのものだ。
(頼む……乗ってくれ……!)
数秒の沈黙。
その間、翔太の心臓は早鐘のように打ち続けこめかみの血管がズキズキと脈打っていた。
「……なるほど。一理あるね」
白木は靴をスマホからゆっくりと離した。カツン、と靴音がひとつ床に響く。
「君の言う通りあっさり死なれたらつまらないや。君にはもっと自分の手で指を狂わせて絶望してほしいもんね」
(よし……! スマホの即時破壊は回避した……!)
翔太が胸を撫で下ろしかけたその瞬間だった。
「ギャァァアアッ! 酒酒ぇぇええっ!!」
部屋の隅で、荒井がふたたび発狂した。吉野の掲げたボトルに向かって巨体を揺らしながら突進していた荒井がついに吉野のデスクへと到達したのだ。
「ひぃやあぁぁっ! 助けて! 助けて翔太くん!!」
吉野が悲鳴を上げる。荒井の太い腕が吉野の抱えるウイスキーボトルへと一直線に伸びる——!
「吉野さん、ボトルを離せ! 取られる前に手を放せ!!」
翔太の叫びも虚しく荒井の巨大な手がウイスキーボトルを掴み取り吉野を弾き飛ばした。
「ああっ……!」
吉野が床に倒れ込む。そして荒井は獲物を手に入れた獣のようにボトルの蓋を歯でこじ開け、琥珀色の液体を喉へと流し込んだ。
ゴクゴクゴク……ッ。
「……ああああ……あぁ……」
吉野は床に這いつくばったまま呆然とそれを見つめていた。自分の依存対象が、他人の手で消費されていく。奪われたわけではない。自ら「見せろ」と叫んだ結果だった。
「吉野さん……」
翔太は唇を噛んだ。これは俺の指示の結果だ。吉野に「酒を見せろ」と言ったのは自分だ。荒井の注意を逸らすための苦肉の策だったが、結果的に吉野の依存対象が汚染された。
「……っ、うう……!」
吉野は床にうずくまり、両手で頭を抱えて震え始めた。自分が今まで必死に耐えてきた禁断症状が意味をなさなくなるかもしれないという恐怖が彼を苛んでいた。
白木がその様子を眺めながら満足げに微笑む。
「ああ、いいね。こういう展開すごくいい」
残り時間22分10秒。
狂気の盤面は静寂を破り再び暴走を始める。




