2 夕食
午後に入って早々に開始されたマナーレッスンは、夕子が想像していたよりずっと辛く苦しいものとなった。ただでさえ腰に短剣を携えた教育係によるマンツーマン指導だけでも悪夢であるのに、そのうえ夕子の思考を奪うかのように、レッスンは一切の休憩なしに続けられたのだ。途中、ほかの仕事に呼び出されたリンドウが何度か席を外すことはあっても、その都度手の空いた使用人を見つけ、夕子が美しいウォーキングフォームを崩していないか監視させるという徹底ぶりである。やっと区切りがついて部屋への帰還が許されたのは夕方過ぎで、その頃には夕子はほとんど屍と化していた。
そういうわけで、夜も深まる頃、いつものようにレイの部屋をノックした夕子は午後の疲れがとれぬまま、すっかり憔悴した顔でドアの前に立っていた。
「夕子様? 遅かったですね。お待ちしてま――」
ドアが開くなり、出迎えたレイの脇を通り抜けてベッドに一直線、そのままばたんと倒れ込んだ夕子を不思議そうに覗き込みながら、レイが問いかける。
「どうされました?」
「死ぬ……も……無理……」
「よくわかりませんが、だいぶお疲れのようですね」
太いため息を吐きながら寝返りを打ち、夕子は目だけをレイのほうに向けた。
「レイさんも夜会のこと聞いた?」
「もうじきですね。グイド様の生誕祭」
「は?」
「ご存知では?」
がばっと起き上がった夕子に驚きつつ、レイは微笑みながらかいつまんで説明してくれた。吸血鬼にとっての生誕日とは鬼化された日であり、何十年、何百年経っても、みんなその日を忘れずにいること。何を隠そうこの屋敷の当主であるグイドは、ちょうど二週間後、七月十三日にその記念すべき日を迎えるのだという。寝耳に水とはまさにこのことだ。あの教育係はそんなこと一言も教えてくれなかった。
しかも、レイの爆弾投下はそれだけで終わらなかった。
「今年は客人のアリス様も出席されるはずです」
「やだ! いや……そうだと思ってたけど……」
「これまでも何度かお見えになられたことがありますし、今年はちょうど滞在中に開催されるので、出席なさるのはまず間違いないかと。グイド様は盛大に祝われるのがお好きですから屋敷の使用人も出席します。……そうですね、当日会場で仕事がある者以外は皆そのはずです」
「それってもしかして」
夕子と目を合わせたレイは、気の毒そうに目を伏せて頷いてみせる。
「造血所の彼も、特別な理由がない限り出席するはずです」
コンドルのことは今でも引っかかっている。何が起きたのかわからないままだし、このまま納得のいかない結末を迎えていいのかと、夕子の中で迷いがあった。それでも次第に諦めがつきつつあるのはレイのおかげだろう。コンドルのいなくなった穴をこの秘密の時間が埋めてくれた。それに、いつかのアリスとグイドの言葉も忘れたわけではない。まるで二人はこの結末が見えていたかのように、コンドルとの友情を反対していた。
心配したように覗いてくるレイに、夕子は小さな笑みをつくって、自分の隣をぽんと軽く叩いてみせた。
「今日は散々だったよ。疲れたし、お腹すいた」
「ちょうど良かったです」
そう言って、ベッドに腰掛けたレイはスーツの内ポケットから小さなガラス瓶を二つ取り出すと、片方を夕子のほうに差し出した。瓶の中で赤い液体がちゃぷりと揺れる。支給品の血液だ。
この屋敷では、敷地内の造血所ではなく、少し離れた場所にある大型造血所から毎朝送られてくるガラス瓶詰めの血液を使用人に支給している。自らを劣った存在だと言い張るレイは、決まって人目を避けてそれを飲み干した。レイにとって、血に反応して動揺した姿を誰かに見られるのはとても辛いことであり、同時にすごく恐ろしくもあるのだ。食事は一日三回、朝と昼と夜にこの部屋に戻って済ませるのだという。しかし時に仕事は忙しく、毎日同じ時間に戻るのは困難を極める。そのため、運悪く一度だけレイの遅い夕食時に夕子が訪れてしまったことがある。その時のレイの落ち込みっぷりは凄まじく、その瞬間を思い出すと今でも夕子は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。以来、二人のあいだである約束が交わされた。
「今日はまだだったの?」
受け取ったガラス瓶を天井の明かりに透かして眺めながら、夕子が尋ねる。
「俺の方も今日は慌ただしく……半刻ほど前に戻ったところです。しばらくそうなるかと」
「忙しいんだっけ? リンドウもそんなこと言ってた。だから苛ついて……」
思い出すとため息が出てくる。夕子は忘れようと首を横に振り、隣を振り返って、意地悪に笑ってこう言った。
「じゃあ同時に飲もうか。それともそろそろ慣れた? 見るなって言うなら私は見ないけど?」
レイとの約束――。それは、一緒に夕食を摂るというものだった。
レイは予備としていつも一本多く支給品をストックしている。それを夕子に差し出すのだが、実を言うと、これで何が変わるという話ではない。夕子が隣で一緒に飲んだところでレイは必ず血に反応し、その動揺を夕子は目の当たりにすることになる。だからおそらくは気持ちの問題だ。食事というレイにとって恥ずかしい行為を二人で共有することにより、レイの中で何かしら気が紛れているのだろう。
「いえ……その、やはり一緒にお願いしていいですか?」
「レイさんってほんと恥ずかしがり屋だよね」
「それを言うなら夕子様は……少々、意地悪ですね」
「ひどい!」
心外だという顔で夕子はレイの左腕をぺしっと叩く。ちょっとだけ慌てたように、レイは胸の前で両手を上げて謝罪を口にするが、よく見るとその顔は笑っている。すぐに二人揃って静かな笑い声を上げた。
「でも……今日ばかりは助かったかも。正直、レイさんが分けてくれなかったら明日大変だったよ。こんなに疲れたの久しぶり。たぶんだけど、私が今まで小食だったのはぐうたらだったからだよ」
「確か夕子様は朝と昼――二回に分けての食事ですが、実際には昼の一日一回のみでしたよね。この際ですからリンドウ様にお願いしてみるのはどうですか? これからは夜も食事をしたいと伝えて……」
「難しいかな。急に増えたら怪しまれる。今日だって危なかったよ」
どういうことかと訊き返すレイに、夕子は昼間のリンドウとの会話を打ち明けた。ランタナと出会ってから昼食で飲む血液量がぐっと増え、それがレイに支給品を分けてもらうようになってから元に戻った。その変化を、危うくリンドウに気づかれかけたのだと。
「その造血所の方は……」
「変わってるけど良い人だよ。だからこのままでいたいんだ。こんなことしても救えるわけじゃないけどさ」
ランタナのことは、血を吸っているふりをしていることも含めて、少しだけレイにも話してある。しかしその名は告げていない。レイを疑っているのはではなく、念にを念を入れてのことだ。やはり自分がやっているのは知られたら咎められるようなものだと、夕子も自覚していた。
レイはなにやら思案げにした後、おもむろに自分の分のガラス瓶を夕子に差し出した。
「よかったらこれも飲んでください」
「どうして?」
「俺も吸血鬼の端くれだからわかります。一本では夕子様の渇きは満たされないはず。遠慮はいりません。昼までの辛抱の夕子様と違い、俺は明日の朝になればまた支給品が届きます。明日からはもう少しだけ多く貰ってきますね」
「だったら明日からでも……」
握らされたふたつ目の瓶を返そうとするが、レイは頑なに受け入れず、それどころか彼らしからぬ強引さで押し返してきた。夕子は戸惑いの表情で目の前の相手を見る。レイは困ったように微笑んでいる。
「飢えとは、苦しいものです」
夕子の手の中でガラス瓶がきゅっと軋みを立てた。
「俺はそれを嫌というほど知ってます。どんなに強靭な意志を持ったとしても、目の前に食すことを許された食事があったら手を伸ばしてしまうのが我々です。いえ――手を出さないまでも、その揺らぎは必ずや目に見える形で現れるでしょう。視線、乱れた呼吸、上下する喉……。なにも夕子様の思いを疑っているわけではありません。ただ、その動揺を果たして相手に悟られずにやり過ごせますか? 勘づかれるのは、夕子様にしてみても避けたいことのはずです」
「言いたいことはわかるよ。でもレイさんだってお腹すいて――」
「一晩ぐらい問題ありません。それに思い違いしないでください。これは俺のわがままなんです。お願です、夕子様。協力させてください」
視線を逸らすことなく、真剣な顔をしたレイはまっすぐ夕子を見据えてそう訴える。なんと言っていいのかわからず、夕子は胸元まで押しやられたガラス瓶を黙って見下ろした。その気になれば無理にでもレイに渡すこともできる。本来ならそうすべきなのかもしれない。だけど、見つめ合ったまま力強く頷いてみせるレイの瞳に一切の迷いはなく、その瞳の奥に宿る強い光には嫌というほど見覚えがあった。
「……わかったよ」
けっきょく、頑固なレイに負けて折れたのは夕子のほうだった。
レイはほっとしたように微笑んで無言でベッドを離れていった。十分距離を取ったのを確認してから、夕子はガラス瓶の蓋を外した。途端に立ち上ってくる血の香り。古いせいか少しだけ薄れている。ちらっと部屋の隅で背を向けるレイに目をやり、それから夕子はガラス瓶の中身を一気に飲み干した。二本目もすぐ空にする。
右手で拭おうとしたが思い直し、赤く濡れた唇をぺろりと舐め、夕子はなかなかベッドに戻らないレイの背中に声をかけた。
「耳赤いのが見える」
「み、見ないでください……」
「気にしないよ。だから戻ってきてレイさん」
「いつもながら本当に……情けなくて……」
赤い顔を左手で隠しながら、おずおずと振り返ったレイは首まで真っ赤に染まっていた。サラサラの黒い前髪が片目を隠しているが、もう片方の目は泣きそうに下を向きキラキラしている。乱れた呼吸を抑えようとして、時折、スーツの肩が静かに動く。いつもより動揺が長引いているのは、空腹が満たされずにいるからだ。
「あの……本当にあまり見ないでもらえたら――」
「辛い?」
ようやくベッドに戻ってきたレイは、それでも夕子の視線から逃れたい一心からか、夕子から距離を開けてベッドの端っこに腰掛けた。今度は背中を向けて隠そうとする。
「やっぱりお腹すいてるよね」
「いえ、問題ありません……。今は少し、血の匂いに反応して……その……動揺してるだけです。だからすぐ収まって……」
「いいのに」
「それはどういう……?」
おっかなびっくりレイが肩越しにこちらを振り返る。今にも泣き出しそうな赤い顔が当惑したように揺れる様子を、夕子は瞳に焼きつけた。ただの悪戯心なのかもしれない。だけど、胸の奥が奇妙にざわめき立ち、不思議な高揚感に身体が震えるのはそれだけではないはずだ。
気づくと、その衝動に駆られるがまま夕子はベッドを軋ませていた。
「いいのに。収まらなくて」
優しくて、自分のことを犠牲にしすぎるレイだからこそ、夕子はそのスーツの腕をつかんで、赤い耳にそっと唇を寄せたのかもしれない。
「収まらなくていいよ。私ね、飲み過ぎちゃった……」
どういう意味だろうと一瞬怪訝そうにレイの眉が動く。だが、すぐに気づいたように、レイの薄く開いた唇が動き出す気配があった。言葉は出てこない。大きくひらかれ揺れるレイの瞳はもう夕子のものだ。夕子の震える瞳もまた、レイだけを映している。
まるで見えない糸で結ばれたかのように二人は互いを見つめている。
「いけませ……」
「うそ」
小さく笑って、夕子は魔法にかけられたようにまぶたを下ろす。大きな手のひらを頬いっぱいに感じる。熱い吐息が首筋をくすぐり、ゆっくりと顎先が持ち上げられていく。やがて完全に首が上を向いた。それが合図だった。
「……っん」
痛みに、夕子は涙した。荒々しいそれはグイドの時とはまるで違う。想像もしなかった強い痛みが首筋を貫き、流れゆく血が熱く滴り、本能のまま舌を這わされ、侵されていく。おもわず見開いた目からとめどなく涙がこぼれる。だけどそれをレイの指がそっと拭ってくれたから、夕子は嬉しくなって、また目を閉じた。




