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夕子 ― 夕暮れの子 ―  作者: りん
episode5 ナイトパーティー
41/42

1 マナーレッスン

「ティーパーティー?」


 懐かしい響きにおもわず青ざめた夕子の手から、銀スプーンがぽろりと落ちる。

 テーブル脇に控える冷静沈着な教育係は慣れたもので、ビーツの冷製スープの皿に落下したスプーンが中身を飛ばし、夕子の白いドレスに赤いシミをつくっても表情ひとつ変えることはない。真っ白なナプキンを夕子に手渡しながら、リンドウは淡々と訂正する。


「そうではございません。ナイトパーティー、つまるところ、夜会です」

「なんで急に……」

「例年この時期になると開催されます。それが当屋敷のしきたりです」


 嫌なしきたりがあったものだと、夕子はため息をつきながらテーブルに並んだ昼食を眺めた。ただでさえ希薄な普通の・・・食欲が一気に後退していくのを感じる。テーブルにはまだ手つかずの羊肉料理と抹茶色のテリーヌ――一見すると切り分けたパウンドケーキのようだが、その食感と味は野菜のムースとよく似ている――、ほぼ毎日のように出されてうんざり気味のカラフルな創作寿司がある。それに、本日のデザートは一口サイズのケーキ六種ときた。

 夕子は半分ほど減らしたスープの皿を押し下げ、代わりに空のグラスを手にした。何も言わずともリンドウが注いでくれる。


「……で、いつなの?」


 こういう時、自分は吸血鬼なのだとしみじみと実感する。夕子は小ぶりのグラスの三分の一まで満たした赤い液体をすぐには口にせず、まずその上品な香りを楽しんだ。血の匂いに反応して目の色を変える吸血鬼がいる一方、心安らぎ、満ち足りた気持ちになる者も少なくない。そして確実に自分は後者である。

 ワインボトルに詰められた血液はさわやかな甘さが特徴の、新鮮なだけでなく味もいい、なかなかの上物のようだ。口当たりもまろやかで、自然と夕子の表情にも余裕が戻る。

 リンドウは空いたグラスに再びボトルを傾けながら、単調な調子で答えた。


「本日というわけではありません。まだいくらか先の話です」

「じゃあなんで今言うわけ?」


 夕子が訝しげな視線をリンドウに向けたのは、これまでの経験によるものが大きい。この教育係が持ってくる知らせはだいたいにして、夕子を絶望のどん底に突き落とす。おそらくまだ何かあるはず。そう睨んだ夕子の勘はやはり正しかった。

 リンドウは何てことのないという顔で、夕子にとってはまさに悪夢にも等しい宣告をした。


「本日の午後よりマナーレッスンを開始いたします」

「は……? 今なんて?」

「マナーレッスンをいたします。基本的な挨拶や礼儀作法、立ち振る舞い――立ち方、座り方、姿勢、ウォーキングはもとより、社交場ならではの会話術、場の空気の読み方、他にもテーブルマナーなど覚えるべきことは数多くございます。しかし今は時期も悪く指導のために割ける時間も少ないので、実際には最低限のマナーを覚えていただくので精一杯かと。お嬢様の頑張りに期待しております」

「はああ? やだよ! なんで私が――」

「とりわけ」


 リンドウの語気が珍しく強まる。


「まず始めに覚えていただきますのは、基本中の基本、正しい姿勢になるかと。猫のようにだらしなく、所構わず背中を丸めるお嬢様の姿は目も当てられないと、当屋敷の使用人の間において専らの評判でございます」


 びくっとして、夕子は椅子の上で背筋を伸ばした。口の中で小さく「誰がそんなことを……」と洩らすが、リンドウは聞こえていないのではなく、どう見ても聞こえないふりをした。


「そして、吸血鬼になられたばかりで戸惑われるであろうお嬢様のためにと、教育係という大役を仰せつかった私から一つだけ申し上げるなら――」


 気のせいでなければ、リンドウの声は明らかに不満が滲んでいる。


「本来、これらは吸血鬼になってから学ぶものではなく、人間の時に身につけるべき教養に当たるかと」

「あの……意外と怒ってる?」

「レッスンは夜会までの二週間連日行います」


 またしても夕子の発言を無視してリンドウが言った。絶対怒っている。さきほど指導に割ける時間は少ないと聞いたばかりだ。ただでさえ教育係と執事という二つの仕事で忙しいところに、さらに新しい仕事も増えるとなれば、さすがのリンドウでも不満のひとつも抱くらしい。しかし、姿勢はともかく、ただの女子高生だった者に求めるハードルとしては非常に高い気がしくなくもないわけで。

 どうせテーブルマナーなど知らぬ無作法者だからと、夕子は教育係の前だからといってお構いなしに、食事中のテーブルにだんっと両肘をついて大きなため息を聞かせてやった。


「わかりました、わかりましたってば……」

「体力をつけるためにも、食事は残さず召し上がってください。お替わりはいかがなさいますか」

「いらない。お腹いっぱい」


 グラスの残りを一口で喉に流し込むと、夕子は赤く濡れたグラスの底を覗き込んでそう言った。すると、滅多に物言わぬリンドウの瞳が、夕子の手元をじっと覗き込んでいる。夕子は頭をひねりながら手の中のグラスにもう一度視線を落とし、それから訝しげな顔のままリンドウを見上げた。


「まだなにかあるの?」

「最近少食のようですね。一時期に比べると通常に戻ったとも言えますが」

「えー気のせいじゃない?」


 夕子がおかしそうに声を上げて笑う。リンドウはなにやら考え込むように数秒を置いてから、失礼いたしました、といつもと変わらない調子で頭を下げた。そして姿勢を戻すと、視線を夕子の手元からテーブルの上を通過し、部屋の奥の窓のほうへと移動させ、呟くようにこう言った。


「当日は晴れるかもしれませんね。その頃には梅雨も明けるでしょうから」

「やめてよ」


 夕子は軽く眉を寄せ、リンドウに倣って外を見た。

 この日も朝から、馴れ親しんだ雨音が薄明かりの部屋に聞こえてくる。繊細なレース織りの黒いカーテンの向こうでは、細い雨が途切れることなく降り続いているのだろう。リンドウが言うように、いつかは梅雨も明ける。けれども夕子には、その日はずっと先のように思えてならなかった。



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