042 本の虫
「私のことひどいやつって思う?」
ふいにそんなことを尋ねたくなったのは、あの森でレイと再会した日から幾夜も過ぎた夜のことだった。
この広すぎる屋敷に、今なおレイの姿はあった。
「そうですね」
と、手元の本から顔を上げたレイは夕子のほうを振り返り、ランプの明かりで染められた顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「夕子様は優しい方だと知っていますので」
「なんかずるい」
「本当のことですから」
臆面もなくそう笑いかけてくるので、こっちが恥ずかしくなってしまう。夕子は微かに赤くなった頬をふくらませ、納得のいく答えではなかったと無言で抗議した。レイはおかしそうに口元を緩め、それからまた読みかけの本に目を戻した。これにはおもわず夕子もため息が出る。
手持ち無沙汰というわけではない。ちょっと前まで夕子もベッドに寝そべりながら読書をしていて、まだ半分以上ページが残っている。しかし本音を言えば、なんとなく今はそんな気分ではなかった。
古ぼけた木製のテーブルに姿勢正しく向かうレイの横顔を、夕子はしばらく眺めていた。本当に本が好きなのだろう。文字を追うレイの瞳はキラキラ輝く子供のそれによく似ている。自分の持ち寄った小説に夢中になる姿を見るのは悪い気がしないものの、やはり見ているだけの側からすると少しつまらなくもあった。
夕子はレイから視線を外し、僅かな不満とともにそっと言葉を吐き出した。
「……本の虫」
今になって強く実感していた。文字通り、レイは本の虫だった。そのことは以前にも本人から聞いていたが、がらんとした殺風景の室内に書物の類いがまるでないので完全に油断していた。いや、あるいはだからこそかもしれない。血に飢えた吸血鬼のごとく、目の前の文学青年はずっと活字に飢えていたのだ。
そんな風に想像してみると途端におかしく思えてきて、夕子はついぷっと笑ってしまった。
「……まさかね」
「あの、もしかして退屈ですか?」
それは、まったくの不意打ちだった。突然声をかけられた夕子は慌てふためき、危うくベッドから滑り落ちかけた。それでもこれ以上の呟きを洩らさないためか、ほとんど無意識のうちに両手は口を押さえていた。
その不意打ちの張本人はと言うと戦っているらしい。申し訳なさと笑いたい気持ちが入り混じったような奇妙な顔で、しかし一応申し訳なさそうな表情をするべきだという思いからか、極めて真面目な声を出す。
「そうですよね。やはり退屈でしたか……」
「そうだけどそんなことないよ! ちょっとだけだし平気かも!」
何を言っているんだ私、と夕子が思ったまさにその瞬間、レイの努力が水の泡になるのを夕子は目撃した。突如レイが噴き出したのだ。こらえきれなかったくぐもった笑い声を聞きながら、夕子はぽかんとしてレイを見つめた。
「すみませんっ……その……ふっ……気づいてはいたのですが……」
「えっ?」
「夕子様の反応がおかしくて、つい」
呆気にとられて瞬くばかりの夕子の前で、レイはしばし肩を揺らして笑い続けた。最近ではすっかり二人の距離も縮まった。友達とはまた違うが、二人だけの秘密を抱えた共犯者――ある種の仲間意識を感じているのは夕子だけではないはずだ。それだけに、最初の頃と比べ格段と会話が増えたのも、多少の冗談を言い合えるようになったのも必然と言えるだろう。しかし二人の立場の違いからか、まだまだぎこちないのも否めない。だから、こんな風にレイが声を上げ、それも飾り気なく笑うのを見るのは初めてだった。
「あの? 夕子様どうかして……?」
「っなんでもない!」
まだ笑いが引っ込まないままのレイが涙目で不思議そうに首をひねる。おもわず顔をそむけた夕子は、「え? え?」と頭の中で疑問符を飛ばしながら、熱帯びた頬に手をやり、突然自分を襲った変化に戸惑いを隠せずにいた。
ほどなくして落ち着きを取り戻したレイは何度も謝罪を口にしながら、ベッドで動揺したままの夕子の隣に移動した。その手にはさっきまで読んでいた本が掴まれている。がっかりしたように吐息を洩らす夕子の予想に反して、レイは膝に載せた本をひらく素振りは見せず、表紙にそっと手を添えおもむろに語り出す。
「やはり好きです」
「っ……!」
「良いものですね、本は。すごいと思います。文字を読むだけで新しい知識を得て、知らない街に旅し、悲しみや喜びを知り、自由を手にし、心躍って――」
そこでレイは一端言葉を切った。表紙を見据えたまま、そっと自分の胸に手を当てる。
「ここが……どうしようもなく震えるんです。大袈裟かもしれません。だけど本当に思うのです。『ああ、生きていける』……と。自分はまだ生きていける。こんなにも心が震えるのだから……。そのことを思い出していました。不思議ですね。いつの間にかすっかり忘れていたんです。夕子様のおかげで思い出すことができました」
「私はなにもしてないよ。部屋にあった本を持ってきただけだし……」
実は後悔していましたなんて口が裂けても言えない、と夕子は頬を引きつらせた。
「前にも話したかと思いますが、グイド様に出会う前、俺は別の屋敷にいました。そこでは本だけが心許せる友人でした。俺の世界は、山積みになった己の背丈よりも高い膨大な本が全てだったと言っても過言ではないでしょう。永遠にも思える時間の中、朝も昼も晩も、来る日も来る日も本を読み続けました。不出来な俺には他に出来ることなどなかった。それを心苦しいと思ったのは最初のうちだけです。すぐに夢中になりましたから」
「だったら今の生活は嫌なんじゃないの? なかなか本読めないし」
「それはありえません、絶対に」
力強い答えに夕子はほっとして理由を尋ねた。すると、レイはこともなげに笑って答えたのだ。
「なぜなら俺はこの場所が好きです。優しい方々に囲まれ、やりがいのある仕事を任され、尊敬する方のために働ける幸せを、日々噛み締めています。奇跡のような時間です。自分のように劣った……いえ……そんな顔しないでください……そうですね、では……不出来な俺に許された、このかけがえのない幸せに感謝しない日はありません。そのくらい今が幸せなんです。ここは本当に良い場所です」
「本が読めないのに?」
「読めますよ。こうして夕子様が気を遣ってくださいますし、それに本当に読みたいのなら一言そう申せばいいのです。あの方は無下に断るようなことはけしてしないでしょう。ですから、ご心配には及びませんよ」
そういうものだろうかと、曇りのない笑顔で言い切るレイの横顔を見ながら夕子は考えた。レイが嘘をついているようには見えないが、無理をしていないとも思えない。自分の立場に引け目を感じていることもあり、やはり主人に対しての遠慮みたいなものは働いているはずだ。レイの真面目な性格からしてなおさらその可能性は高い。ただ、それを夕子が指摘するのはなんだか不躾なような気がした。
「えっと、レイさんって……」
どことなく行き詰まってしまった空気を変えようとした結果、見事に失敗したことに夕子は気づいた。
「兄弟いるって言ってた? お兄ちゃんが?」
「弟です。正確には同い年の弟がいます」
「そうなんだ! ってことは、双子?」
ええ、とレイは微笑みながら頷く。夕子は多少無理してまでテンションを上げ、さらに食いついてみた。
「へえー! それじゃあ、弟さんは今は――」
「生きているでしょうね。アイツがヘマするとは思えません。優秀な吸血鬼ですから」
「えええ! 吸血鬼なの?」
驚きのあまり、この日一番の大声を出していた。興奮したように拳を握り、好奇心を抑えられない様子で夕子はまくし立てる。
「双子で……兄弟揃って吸血鬼になったの? なんかすごい!」
「珍しくはありますね。そうでなければ、俺たちは吸血鬼になっていなかったでしょうし」
「どういうこと?」
話の雲行きが怪しくなったのに感づき、夕子は自ずと声を落とした。レイの表情にこそ変化は見られなかったが、低い声は微かに緊張をはらんでいるようだ。
「吸血鬼というのは、大抵コレクター的な面を持ち合わせているものです。たとえば、夕子様が誰かを鬼化させるとしたらどのような人を選びますか? やはり美しかったり、秀でた能力がある者を選ぶのではないでしょうか。永遠にも似た長い時間の中、そばに置いておきたいと思うのは決まってわかりやすく優れた人物です。しかし、やはりそれだけでは飽きがくるのでしょうね。名の通った優秀な吸血鬼は総じて長い時間を持て余しています。そこで選ばれるのが――飽きがこないような珍しいタイプの者たちなのです」
どきりとしたのは、ひょっとしたらと思ってしまったからだ。夕子は無意識に自分の脇腹に手をやった。
「俺の親は優れた吸血鬼でしたから、俺たちが見初められたのもある意味では必然だったのかもしれません」
「レイさんはその人の屋敷にいたんでしょう? 養子だったの?」
「まさか」
また噴き出しそうになりながら、レイは首を横に振る。
「鬼化したからと言って自分の養子にする人など普通はいませんよ。場合によっては、鬼化なんて日常茶飯事でキリがありませんし、その動機だって単なる暇潰しのことが多いですから」
「でも私は――」
それはおかしい、と言いかけた夕子を遮って、レイは再び首を振る。
「夕子様は本当に特別なのです。だからこそ、グイド様がいかに夕子様を大切に思っておられるのかがよく伝わってきます」
そうではない。そう反論しようとした言葉を夕子はぐっと飲み込んだ。レイにはまだ話していなかった。ここが漫画の世界で、自分はその外から来たということを。
夕子は軽く頭を振って、気遣わしげにこちらを見つめるレイに向き直った。「それで?」と続きを促す。
「弟さんとは――?」
「退屈な結末ですよ。屋敷で働くことになった俺たちはあまりにも出来が違いすぎ、不出来さゆえに主人を失望させてしまった俺は書庫に押し込められ、一方の弟はトントン拍子に出世……最後には俺は暇を出され、弟とはそれきりです」
「……ごめん」
「謝るようなことではありません。過去は過去にすぎませんから。それに、今ではこれで良かったのだと心から思えます。行く当てもなく彷徨っていた俺をグイド様が拾ってくださってから本当に毎日が充実しているのです」
それでも顔を上げようとしない夕子に、レイは微笑みを保ったまま付け加えた。
「実は、今が一番楽しいのです。おそらく明日はもっと楽しいでしょうし、明後日も、明々後日も、きっとその先もそうです」
「それって……」
弾かれたように夕子は顔を上げていた。勘違いだろうか。だけど目が合ったレイはいっそう微笑みを深くし、それを見た夕子は自分の顔に熱が集まっていくのを感じた。
レイは、とてもやさしい眼差しで告げた。
「はい。俺は幸せ者です。……あなたと会えたから」
高まる鼓動を聞きながら、夕子は頬を染めたレイと正面から見つめ合った。うまく呼吸ができない。胸が苦しいのに、身体は震え出しそうなほどの幸福感に満ち溢れている。
カーテンの向こうでは、今宵も、二人を結びつけた雨が大地を濡らしている。当分止む気配はないだろう。梅雨もいよいよ後半に突入しようとしていた。
なにもかも順調だと夕子は思った。ただひとつ――グイドのことを除いて。




