041 払拭
体の中を巡る冷たい血液が熱く滾っていくのを夕子は感じた。
「なにそれ……」
レイの目をまっすぐに見た。怯えたように瞳孔を揺らし、慌てた様子で瞳をそらしたレイはとても頼りない子供のように見えた。これまでたくさん傷つき、今だって夕子の想像するよりずっと苦しんでいるのだろう。夕子自身もレイを傷つけた。しかしそうとわかっていながら、夕子は腹の底から湧き上がる熱を吐き出さずにはいられなかった。
「その言葉、造血所の中の人たちの前でも言えますか?」
スーツの肩がびくりと身構えた。答えはない。
夕子はベッドから降りてレイの正面に立った。
「あそこに入るべき人なんていない。どういう場所かレイさんだって知ってるはずですよね。冗談でもそんなこと言うべきじゃない」
「……失言でした」
「だいたいレイさんも造血所に行ってるんでしょう? 中の人たちにひどいことしてる人の一人なのに、自分も入るべきだなんて言うのは矛盾――」
言いかけた言葉を最後まで続けることはできなかった。
驚きを隠せない表情が夕子を見上げていた。困惑した視線を受けながら、夕子は静かに混乱した。その視線が意味することはわからないのに、自分がとんでもない間違いを犯したような、そんな嫌な予感があった。
案の定、レイは目を伏せて釈明した。
「いいえ。彼らにお会いしたことはありません」
「でも昨日……」
レイと再会した森は屋敷から離れた場所に位置する。中にあるのはただひとつ、造血所のみ。夕子だってコンドルに会うために初めて足を踏み入れたぐらいだ。当然、そこで出会ったレイも造血所を目的としているはずだと思った。しかし――。
「なるほど」と、レイは何やら腑に落ちた様子で頷いてみせた。
「それも誤解ですね」
「誤解? だって……」
「確かめていました」
反射的に訊き返すよりも早く、夕子の頭の中にある場面が浮かび上がった。――うさぎ。
湖の前で佇んでいたとき、突如聞こえた音に反応して振り返ると暗闇から茶色いうさぎが飛び出してきた。うさぎはすぐに去っていったが、レイが現れたのはそのあとのことだった。今思うと、レイはまったく同じ場所から姿を現した。うさぎを追っていたからだ。
「自分は、造血所を訪れたことは一度もありません。行けるはずないのです。自分なんかよりもよっぽど優れた彼らにどんな顔をして会えばいいのか……わからないのですから」
そう自嘲気味に笑う相手に、夕子はもう何も言えなかった。完膚なきまでに叩きのめされた気分だった。レイの言うとおりだ。誤解していた。
レイは、夕子を責めるような素振りは見せなかった。それどころか、申し訳なさそうに首を横に振った。
「グイド様は、自分の事情を知りながらこの屋敷に置いてくださいました。その優しさにどれほど救われたことか……。本当に素晴らしい方です。自分にはグイド様に対するご恩があります。一生かけても返しきれないほどの恩です」
「なんで、グイドの話……」
「誤解は相手を知らないことから生じるものです。それ自体は悪いことではありません。これから知っていけばいいのですから。願わくば、夕子様、どうかグイド様のことをたくさん知ってください。繰り返しますが、あの方は夕子様のことを大切に思われています」
「ないよ! だって……だって……!」
夕子は目の前の相手を見た。レイは泣きそうだ。自分もきっと同じ表情をしているにちがいない。
楽になりたい、と夕子思った。
もうその弱さを止められなかった。
カーテンの切れ目が光っている。もうじき朝が来るのだろう。窓辺がゆっくりと明るくなるにつれ、ひっそりとした足音が少しずつ廊下を行き来するようになった。
ドアに背を向け、ベッドの縁に腰かけた夕子は、下を向いたまま視線だけを左に移動させた。しばらく前から室内には静寂が訪れていた。もしかしたら、レイはもう眠ってしまったのかもしれない。そう思った直後、視界の端でスーツの長い足が僅かに身動ぎして、夕子は慌てて視線を戻した。ほっとするとともに、胸の内側がきゅっと痛んだ。
長いこと夕子たちは話し込んでいた。堰を切ったように夕子の口から溢れ出した弱音は簡単には止まらず、やっと落ち着いたときにはグイドのことばかりかコンドルとの亀裂、これまでのアリスのひどい仕打ちに至るまでほとんどすべてを打ち明けていた。レイは始終聞き役に徹して何度も相槌を打ってくれた。そして、はっと我に返った夕子が顔を赤くしながら、誤魔化すように今度はレイを質問責めにしたのだ。
レイはいろいろと教えてくれた。もう隠し立てることなど何もないのだという心境からか、どんな質問にも正直に答えた。おかげで夕子はレイという人物についてだいぶ知ることができた。それはレイとて同じだろう。
夕子もレイも沈黙を嫌った。途中、会話が途切れかけるたびに慌ててどちらかが相手に質問を投じ、無理にでも話を続けた。怖かったのだ。しかしそれにも限界があり、今では振り出しに戻ったように二人とも押し黙っている。
けっきょく縮まらなかったのだろう。
ドアの前に正座したレイがだんだんと距離を縮め、最終的にベッドの隣に並んで座るようになっても、夕子はたった一言を訊けずにいた。
「夕子様」
「なに?」
びくっと心臓が跳ねた。しかし夕子は平然を装って笑顔をつくった。
レイは、やはり眠いのかもしれない。少しだけ疲れたような顔色をしている。
「その……ありがとうございました」
「……うん。こちらこそ」
「こうして時間を忘れて夕子様とお話しでき、年甲斐もなく、とても楽しかったです」
まるで別れの言葉だ。夕子はレイに勘づかれないようゆっくりとした動きで俯き、ぐっと涙を堪えた。そんな夕子とは対照的に、レイは疲労の色を見せながらもさっぱりとした微笑みを浮かべて言う。
「くどいようですが、グイド様は――」
「やっぱり私……グイドのこと信用できないよ。レイさんは誤解だって言うけど」
「夕子様なら大丈夫です。俺の話を聞いてくださったように、グイド様の言葉にも耳だけでなく心を傾けてください。きっと誤解は解けます。ご安心ください」
「でも私……」
夕子は、心臓の音が速まるのを聞いた。
「嘘だと思う」
「嘘?」
「そうだよ。ぜんぶレイさんの嘘」
言ってから、ちらっと隣に目を走らせた。レイは驚きと戸惑いが入り混じったような、呆気にとられた顔をして反応に困っている。
レイが口を挟む前にと、夕子は急いで早口に続けた。
「やっぱりレイさんはグイドの従者だし、私のこと騙すつもりなんじゃないかなって。ほら、グイドは素晴らしいとか信用できるとかそればっかだし。なんかうさんくさいよ。嘘っぽいんだよ」
「いえ俺は――」
「だってレイさんは立派な吸血鬼だしね!」
一息で言い切った。すぐ隣で驚いたような気配がした。夕子の心臓は今にも飛び出さんばかりに踊り狂っている。
「グイドの忠実なしもべってやつ? レイさんは立派な吸血鬼で、悩みなんてなくて、もうバリバリ造血所利用していて、勝ち組吸血鬼で、すごく嫌なヤツで、だから……だから……ね……」
「いけません」と呟くように言ったレイの声は、そっと指で押したらバラバラに崩れ落ちるんじゃないかと不安になるほど小刻みに震えていた。
夕子はゆっくりと隣に向き直った。目をつむってうなだれるように俯く姿が目に入る。その相手の腕をそっと取った。
「それともね、もしかして私、レイさんのこと誤解してるのかも? だったらダメだよね? ちゃんと解かないと……」
観念したようにレイが振り向くのを待ってから、やがて夕子はぽつりと呟いた。
そのあまりの白々さに、どうしようもなく泣きたくなった。
「誤解……解いてよ……」




