040 血の呪い
夕子は未だ膝をついたままのレイを見た。なんと言っていいのかわからない。突如打ち明けられた話がどれほど深刻なものかは定かではないが、とてもじゃないが茶化せるような雰囲気でも、気軽に訊き返せるような空気でもなかった。
緊張したように頬をこわばらせ、夕子が顔を背けるよりも少しだけ早く、レイは歪に笑った形のままの目を下げてふっと口元を緩めた。
「たまにいるんです……成り損ないというものは」
どこか観念したような物言いだったことにレイも気づいたのだろう。次に口をひらいたときは、不自然なまでに明るい声に変わっていた。
「夕子様は“血の呪い”についてご存じですか?」
夕子は無言で首を横に振った。
レイはひとつ頷いてみせてから続ける。
「お伽話……のようなものです。それでも、ある種の吸血鬼たちからは根強く信じられています」
「……なにを?」
「最初の血は、心の臓に宿る」
黒いスーツの胸のちょうど真ん中、心臓のあたりを、骨ばった大きな手のひらが押さえた。その鼓動を感じているかのような沈默を挟んでからレイは説明する。
「人間が最初に取り入れた吸血鬼の血は、心の臓に宿り、その人間を特異な獣――吸血鬼へと変化させます。それが“鬼化”と呼ばれるものです。我々の心の臓にはみな最初の血が宿っているのです。――では、どうして吸血鬼になると血を欲するのか、夕子様は考えたことはありますか?」
「吸血鬼は血を消費して生きる……からでしょ?」
「その通りです。ただし少し補足が必要です。これもあくまで一説に過ぎないですが――吸血鬼が人間の血を奪うように、吸血鬼もまた知らない内に血を奪われている、という風に考えられています」
夕子はぱっと顔を上げ、レイの目を覗き込むようにして見た。しかしその感情を抑えたような瞳からは、レイが何を考えているのかさっぱりわからない。
「それが“血の呪い”です」
呪い――と夕子はワンピースの左胸を掴んで口内で呟いた。
レイはまた軽く相槌を打って話を続けた。
「こう考えたらわかりやすいかもしれません。我々は心の臓に吸血鬼を飼っている。ゆえに吸血鬼は血を消費し、失われ分を補うために他者の血を欲する。イタチごっこのように、永遠にも似た長い間それが繰り返される――と。なんだか怖い話ですよね」
「レイさんはどういう――?」
「“鬼化”は、吸血鬼と人間が揃ってこそ行えるものです。両者の関係は人間の親子とそう相違ないでしょう。“鬼化”された子は親の性質を色濃く反映します。優秀な吸血鬼に“鬼化”された人間もまた優秀な吸血鬼になり、その逆も然りです。ですから、優秀な血筋であるグイド様に“鬼化”された夕子様も、他の一般の吸血鬼よりずっと優れた存在になります」
「よく……わからないよ……」
僅かに目を上げて驚いたような表情を見せたレイに、夕子はむしろ驚いた。そういう風に見られているなんて思ってもいなかった。自分がほかの吸血鬼よりも優れているなどと感じたことは一度だってない。親であるグイドはともかくとして、教育係のリンドウも客人のアリスも、夕子よりずっと優秀な吸血鬼のように見える。それだけに、夕子はレイの話に頷けなかった。
「そうですね……」とレイは一瞬瞳に悲しげな色を浮かべ、夕子でも理解できるように噛み砕いて説明してくれた。
「わかりやすいもので言うと、身体能力の優劣などは特に顕著です。力の強さ、目の良さ、耳の良さ、瞬発力など他にも挙げたらキリがありません。そういった能力を使いこなすには訓練も必要になりますが、そうしなくてもこの屋敷においてグイド様と夕子様は他の追随を許さないほど優秀な存在であるのは疑う余地もないでしょう。……現に自分も思い知らされました。夕子様の耳はとても聡く、俺じゃ聞こえないほど遠くの声まで拾い、力でも到底敵いそうにない。夕子様は立派な吸血鬼です。『半端者』とは俺みたいな奴のことを言うんです」
そこでようやく夕子は、目の前の柔らかく微笑む傷ついた青年を、自分もまた深く傷つけていたことに気づいた。思い出した。初めて出会ったあの日、どこまでも続くような長い廊下で夕子は自分を『半端者』だと言った。夕子からすればただの冗談の一言を、しかしレイは忘れることなく覚えていたのだ。
夕子は眉間をかくレイからこっそり視線を外した。今聞いた話が本当だとすると、夕子は『半端者』どころか恵まれた吸血鬼ということになる。そんな夕子が成り損ないだと自称するレイの前で、自分は半端者だからと軽口を叩くほど残酷な仕打ちはないだろう。
殺風景な部屋に重苦しい沈默が降りた。
夕子はまともに相手の顔を見ることができずにいた。ビニールを被って呼吸しているように息が詰まる。早くなんとか言って欲しい。
その思いが通じたのか、おもむろにレイは切り出した。
「……実を言うと、自分の親も優秀な血筋の吸血鬼です」
「え――?」
「残念なことに、自分はその恩恵をふいにしました。優秀な親を持ちながらも、自分の能力は人間とさほど変わりありません。それでも一介の吸血鬼ですので老いはなく、半永久的な命を約束されています。しかしそれだけです。特別な力は何もない、吸血鬼の成り損ない。唯一のらしさと言えば、血に敏感すぎるところでしょうか」
そこで一旦言葉を切ってふっと笑った。
「それこそが最大の欠点でもあります」
「欠点?」と夕子はおずおずと声に出した。
レイは頷きも否定もしなかった。ただ黙々と文章を読み上げるようにして説明する。
「血に敏感すぎるのは、血筋の劣った吸血鬼によく見られる特徴です。吸血鬼はみな血を好むようにできていますが、それによって我を見失うことは通常ありえません。吸血鬼はただの獣ではなく理性的な獣だからです。だからこそ心の臓に宿した吸血鬼を正しく飼い慣らし、自分にとって必要な力だけを引き出し、他の余分な欲望を抑え込む必要がある。できて当然なのです。そして――それができない半端者だけが昨夜のような過ちを犯します」
どきりとして声が上がりそうになった。しかしなんとか堪え、夕子は遠慮がちに尋ねた。
「それって、訓練でどうにかならないんですか?」
「呪いだと言ったはずです」
「呪い……」
「普段は心の臓に飼う吸血鬼の存在を感じないのに血を見ると途端に暴走する。一気に吸血鬼からただの獣に成り下がる。――俺にとってまさに呪いです」
最初のレイの言葉を思い出していた。現実離れして、とてもお伽話のようで確かめようのないこの話を、根強く信じているある種の吸血鬼とはレイのような者たちを示していたのだ。もしかしたら、自分を納得させるための説明を彼らが求めた結果生まれたのがこの“血の呪い”なのかもしれない、と夕子は思った。
それと同時に、夕子はもうひとつレイの言葉を思い出していた。
「でもそれって……レイさんが弱いからってわけじゃ――」
「それなら教えてください。どうして自分は心の臓の吸血鬼を飼い慣らすことができないのか。立派な血筋でありながら期待に添うことができないのは何故なのか。答えはこんなにも明白じゃないですか。弱いからです。俺が弱く劣った存在だから以外に納得のいく説明なんてありますか……?」
レイの声が震えた。夕子はぐぐっと鼻下に力を込めた。何を言っても目の前の相手に届かないんじゃないかと思えてきた。
もしかしたら、レイは泣いていたのかもしれない。
「俺は自分が恥ずかしくてしかたないんです。誰よりも劣ってる。本来このような立派なお屋敷で働かせてもらっていい存在じゃない。俺に似合いなのはもっと薄暗く劣悪な場所――それこそ、罪を告白して造血所に入るべきなんです……!」
息を切らして肩を揺らすレイを夕子は見た。
それは、まったく思ってもいない方向からがつんと頭を殴られたような衝撃だった。




