039 誤解
部屋の中は静まり返っていた。濃紺のカーテンの向こうから微かな雨音が聞こえてくる。ベッドの端に腰かけた夕子は、ちらりと入口のほうに視線を向け、すぐにまた俯いた。膝の上に乗せた両手をじっと見つめてみたところで、時間は何も解決してくれそうにない。そのうちに、夕子は痺れを切らしたように呟いていた。
「……なんのつもりですか」
自分でもそれとわかるほど低く微かに震えた声だった。
重苦しい空気に押し潰されまいとするかのように、小さく息を吸う音がした。緊張しているのは相手も同じだ。そう気づくと、夕子はさきほどよりもいくらか落ち着いた気持ちを取り戻し、先回りするようにして口をひらいた。
「安心してください。“あのこと”なら言ってませんから」
また入り口のほうを振り返る。膝をつき、ほとんど床につきそうなほど頭を下げたレイは、もう十分近くもそうしている。夕子を部屋に招き入れた瞬間、崩れ落ちるようにドアの前に伏してから石像のように固まっている。そのあいだレイから発せられた言葉はただ一言――。
「申し訳ありませんでした」
と、レイは久方ぶりに繰り返した。
夕子は複雑な思いで首を横に動かした。
「いいですよ、べつに。グイドにも誰にも言うつもりないですから。そのかわり、これからもこうして私をかくまってください。お互い様ってことで」
「感謝しています。こんな自分に情けをかけてくださった夕子様の優しさ、けして忘れません。ですが――」
「は……?」
カラスのように黒光りした頭がさっと上がった。ぎくり、と夕子の胸が軋みを立てる。おもわずベッドから腰を浮かせたが足に力が入らず、中途半端に立ち上がったまま、呆然として夕子はレイの姿を瞳に映した。
そこには、昨夜の怯えた青年はいなかった。
「言い訳のしようがありません」
こわばった声が、しかしキッパリと言う。
「自分のしたことはとても許されるようなものではありません。卑劣で賎しく醜悪で……叶うならば、この手で昨夜の自分を葬りたいと、思うほどに。ですが――やはりそれは叶いませんから。ならば、今からでも自分ができることをするまでです」
「どういう……」
「すべては自分の弱さが招いたこと。それをまた、夕子様のご慈悲に甘え、グイド様に隠し立てしようなどと思ったのも、自分の弱さゆえのこと。二度も主人であるグイド様を裏切ったのです。そして今宵も夕子様を招き入れた……。三度目ともなれば、罰せられるには十分すぎるほどでしょう。どんな処罰も受け入れるつもりです。自分は――」
一気に畳みかけるように、おそらくこの日ずっと温めていた言葉を吐き出す。
「俺は――グイド様に告白します」
がくん、と宙に浮いていた夕子の腰がベッドに沈んだ。どくん、どくん、と破裂しそうな音を立てる胸に片手を当て、夕子は信じられない思いで入り口のレイを見ていた。耳を疑った。が、下から真っ直ぐこちらを見上げるその瞳には、昨夜までとはちがう強い光が宿っている。
目と目が合った拍子にレイの表情が動いた。晴れ晴れとした微笑みに、夕子は今度こそ思い知った。本気なのだ。身体の力が抜け、うしろに倒れ込んだ。
――落ち着こう。
夕子がまず考えたのは自分のことではなく、意外にもレイの心配だった。なぜなら、グイドはけして善い吸血鬼というわけにはいかない。人を殺せぬ人畜無害でもなければ、同族だからといって残虐の手を緩めるほどお人好しでもない。英雄のこと、この屋敷に造血所があることからそれは疑う余地もない。それに、コンドルはいつもどこか怯えているように見えた。もしコンドルが造血所行きになるとするなら、それを決めるのはやはり屋敷の主人であるグイドにほかならないのだ。
次に夕子が考えたのは、レイのしたことがどれほどの罪にあたるかだ。しかし、こればかりはいくら考えたところで推測の域を出ない。吸血鬼になって日が浅いので、そういった吸血行為を取り締まるルールがあったところで夕子には知りえないし、この屋敷独自の決まり事にしたってやはり夕子には知らされていない。グイドの考えを読むことも難しいだろう。案外、レイが告白しても、しょうもないことだと笑って流しそうな気がしなくもない。
ぐるりと身体を横に向け、夕子は入り口を見た。レイはまだ膝をついている。
「どうしてもですか?」
レイの反応を見ながらゆっくりと言葉を選ぶ。
「わざわざ打ち明ける必要ないと思います。私は絶対言わないし、これ以上裏切るのがダメって言うなら……わかりました。私もうここには来ません。それで解決ですよね。大事にしなくたって」
「お気遣い感謝します。ですが、もう決めたことです」
「迷惑です。これでレイさんが処罰されたら私のせいだってさすがにちょっとヘコ……気分悪いです」
「夕子様のせいではありません。自分の弱さが引き金となって起こった事態です。あなたは被害者です。たまたまそれに巻き込まれてしまっただけなのですから」
「嘘つき」
そう勢いづいて吐き出した夕子に、レイは「嘘ではありません」と困ったように小さく微笑んだ。
夕子はわざとらしいほど大きなため息をついた。少し考えて、やめた。
「なんでこう……うまくいかないんだろ……」
その言葉に、レイはちょっとだけ眉を上げた。
夕子はレイから目をそらして力なく笑ってみせた。
「レイさんは誤解してます。私になにかしたからってグイドは怒らない。たぶんなんとも思わない。だから気にするだけムダなんです。裏切りだなんて言ってほんとはたいしたことないですよ」
「それこそ誤解なのでは?」
ピリッとしたものを肌に感じ、夕子はベッドから上体を起こした。ドアの前に膝をついたレイは丸めていた背中を伸ばし、姿勢を正している。強い視線を向けられ、夕子はたじろぐと同時に少しだけむっとした。
「誤解?」
「あの方は確かに少々変わり者で誤解を受けやすくもあります。しかしその行動原理はとても純粋で真っ直ぐです。グイド様は夕子様のことをとても大切に思われてます。それを夕子様本人に疑われては、グイド様とはいえ傷つきます」
「レイさんはなにも知らないから……」
一瞬、こうしている今も胸につかえているあの不安を打ち明けようかと夕子は迷った。しかしグイドに何か隠し事されていると思うのも、言葉にできない違和感を感じているのも、あくまで夕子がそんな気がするだけという話だ。実際この前の夜、コンドルが――誰かが気のせいだと笑い飛ばしてくれたなら、夕子だってすぐに忘れていたはずだった。それだけに、目の前の青年に話したところでどうせ理解されるはずはないのだという思いが胸の底に沈んでいた。
レイはやっぱり頑固だった。ひょっとすると少し怒っていたのかもしれない。
「それでは、夕子様は何を知っているのですか?」
「グイドのことはともかく……レイさんのことならひとつだけ知ってます。大食い――でしたっけ?」
一瞥したがレイの反応はなかった。よく涼しい顔ができるものだと夕子は内心がっかりした。レイから目線を外し、ため息混じりに続ける。
「さっき自分の弱さが招いたことだって言ってたけど本当は逆じゃないですか? 強いんですよ。レイさんのしたことはすごく吸血鬼らしい。もっと誇ったらどうですか? そんなに卑屈にならないで――」
「やはり誤解してますね」
「また誤解?」
そればっかりだと口の端を歪ませて言ってやろうかと思った。言葉は喉のすぐそこまで上がっていた。しかしそうしなかったのは、予想外のものが視界に飛び込んできたからだ。
気圧されたように、夕子は息を呑んだ。驚いた様子でレイを見据える。
ぞっとするほど寒々しい薄ら笑いを浮かべたレイは、芯の折れた鉛筆でまだ何かを伝えようと躍起になっているように痛々しく白んだ声で、呟くように言った。
「自分はただの成り損ないです。最下層にも属さないほど下賤な、吸血鬼に成り損なった人の成れの果てです」




