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夕子 ― 夕暮れの子 ―  作者: りん
episode4 シークレット
36/42

038 想起

 約二週間前。

 椅子から立ち上がった夕子は、頬杖をつく二番目の男、ランタナにちらりと視線を向け、迷っていた。




「それじゃあ……」




 いつにもまして気が乗らない朝食だ。しかし、やるべきことはやらなければならないだろう。夕子はしかたないのだと自分に言い聞かすように頭の中で呟き、弱気な気持ちを振り払うつもりで首を横に振った。明日からは他の人を指名しよう。

 ふいの出来事が起こったのは、ベッドに移動しようとしたそのときだった。




「そーでした。おれ耳にしたんです」

「わっ!」




 変な声が出た。

 慌てて肩越しに振り返り、どぎまぎしながら視線を下げ――瞬いて、おもわず二度見した。がっちり手を繋いでいる。掴まれているのではなく、夕子の左手の指にランタナのちょっとだけ長い指がしっかりと絡まっている。大きくはないが男らしいごつごつした指だったので意外だと夕子は感じた。




「み、耳にしたって?」




 動揺を悟られないよう平然とした様子を取り繕うのは大変だった。




「そーなんです。なんでも夕子お嬢様は食事が好きじゃないとか、苦手だとか。だからおれ言ったんです。ご冗談を、って」

「それなら……」




 夕子は戸惑いながらも事実だと告げた。すると、繋いでいた手が突然離れ、二人きりのだだっ広い部屋にテンポのずれた拍手がまばらに響いた。いよいよ夕子は事態を飲み込めず言葉を失い、椅子に腰かけたままの相手を呆然と見つめた。




「つまり」




 拍手の終わりにランタナはそう言った。




「お仲間でしたか、おれたちの」

「おれたち?」




 そこで夕子ははっとランタナの目を見た。また忘れていた――。コンドルのときと同じだ。いや、使用人のコンドルは外だけど、目の前の相手はそうではない。あのカタログに載っているのは、最下層――不運な者たちが行き着くこの世の地獄、そこに身を落とした哀れな者だという。それが意味するのは……。


 夕子の視線に気づいたかのように、ランタナの手がおもむろに自分の首元に上がった。ゆっくりとした手つきでスーツ下のシャツのボタンを外していく。ほどなくして三つのボタンを開け、吸血鬼にその身を捧げるときと同じ動きで、ランタナはためらいもなくその首筋を露わにした。


 夕子はまた短く息を呑んだ。ランタナの顔を見る。




「それだれが……!」

「わかりかねます。お客さんはたくさん来ますので」




 ランタナの首筋にぽっかりあいた二つの穴は、まぎれもなく吸血痕だった。それも見る限りではまだ新しい。それこそここにくる数分前に鋭い牙を突き立てられたように傷口が乾ききっていなかった。よく見ると、ランタナがまくったシャツの裏側には小さな赤い汚れが生々しく光っている。


 そのとき、夕子の脳裏にある二つの可能性が過ぎった。




「……できなくもない」




 夕子はさっと入り口に顔を向けた。ピタリと閉ざされたドアはシーンとしている。これまでのコンドルの口振りからするに、朝食を終えてこの部屋を出たあと、リンドウによる吸血痕チェックが待っているのは確実だ。気乗りしない夕子がズルをせず、直接摂取しているかを調べるために。そのせいで、毎回コンドルの首筋に牙を立てるはめになった。だけど――。




「その痕ってリンドウに見られた?」

「いいえ?」




――可能だ。


 夕子は身体の脇でぐっと拳を握る。コンドルのときとはちがう。ランタナの首筋には最初から吸血痕がある。リンドウの目を欺ことだってできるはずだ。

 急いで夕子はランタナに向き直った。




「それっていつもなの? 毎朝?」

「ですー。リピーターさんなので」

「じゃあ――あっ……」

「どうしました?」




 不審そうな声が問いかける。夕子はそれに反応できなかった。

 先日のグイドの言葉が頭の中で響いていた。




――私なんで倒れたんだっけ……。

――ただの貧血さ。おそらく血が不足してたのだろうね。




 もしこの考え・・・・・・を実行したら・・・・・・また倒れて・・・・・しまうかもしれない・・・・・・・・・

 夕子は訝しげに眉をひそめるランタナを見おろして迷った。が、それも一瞬のことだ。




「お嬢――」

「あのさ」




 緊張したように夕子の言葉を待つランタナの瞳に、いつかの辛そうなコンドルの横顔を見た気がした。迷うなんてあまりにバカげている。


 夕子は椅子の上部に手をかけ、最後にもう一度入り口を振り返ってから腰をおろした。そして、微かに驚いた様子を見せたランタナにある提案をしてみせた。

 その結果は予想通りのものだった。






「ラッキーでした」




 茶色い包み紙の上に散らばった金平糖の残骸にふうっと息を吹きかけ、ランタナはのんびりした調子で言った。夕子は反応に困り、首を軽く傾げて続きを促した。金平糖の粉を人差し指にくっつけながら、ランタナは軽い調子で説明する。




「お嬢様は小食だったので。大食漢だったらおれピンチでした」

「……そういうのあるの?」

「渇きです?」




 ランタナは指先をペロリと舐め、満足そうに目を細くした。




「個人差はあります。とはいえ、だいたいみんな似たり寄ったりです。育ちのいい方はなんとなく渇き方も上品な感じで。あとは……体質なのかもしれないです。異様なまでに血の匂いに敏感だったり執着する吸血鬼もいるのだとか」

「ふーん……」




 なんとなく会話が途切れてしまった。

 ちょうど頃合いだろう。時計を確認したわけではないが夕子はそう思い、椅子を引いた。怖いリンドウがやってくる前にと思ったのか、ランタナも夕子が促す前に席を立った。




「それではおれは――」




 ドアの半ばで夕子は足を止め、訊いてみた。




「ねえ、最近造血所でなにかあった?」

「いいえ? いつもどおりですけど?」

「そう……」




 ランタナはきょとんとした感じで瞬いたが、すぐに何もなかったかのように眠たそうな瞳に戻って、部屋を出て行った。


 夜が近づく。

 夕子は部屋を抜け出していた。

 小さなノックの音を刻む。それを待ち構えていたかのように内側からドアがひらき、ひと呼吸置いて、吸い込まれていくように夕子のうしろ姿がその中に消えていった。



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