037 吸糖鬼
「昨夜は不在のようでしたが」
どきりとして、眠たい目をこすっていた手が止まる。夕子は声のした方に顔を向け、安っぽい尻尾が生えたメイド服を認めると、大きなあくびとともにテーブルの上に視線を戻した。読みかけの本は吸血鬼伝説を題材としたもので、二時間かけて数ページしか進んでいない。部屋に戻ってからずっとテーブルに向き合っていたが、ほとんど考え事をしているうちに時間が過ぎた。
「寝てたの」
と、夕子は本を脇に置き、テーブルに両肘をついた。指を組み合わせて顎をのせ、内心の動揺は表面に出さず、予め用意していた言い訳を口にする。
「疲れてたみたいで気づいたらぐっすり。どうして?」
「廊下に置かれてました」
「ああそれ……ね」
リンドウの手元に目をやり、夕子は表情を硬くした。朝の五時過ぎにこっそり自室に戻ってきたとき、ドアに立てかけるようにして一輪の白いバラが置かれていた。気づいてはいたが、無視してそのまま部屋に入ったのだ。捨ててくれればよかったのに、と夕子は思った。
テーブルの中央に載せられた花瓶はすでに白いバラでいっぱいだったが、リンドウはバランスを見ながら手元のバラを差し込む場所を探している。夕子は気づかれないように小さくため息をついてから窓のほうに顔を向けた。雨は強まったり弱まったりして、揺れ動く乙女心さながらに不安定な天気だ。
「本日のお茶会は難しいかと」
「ちょうどいいよ。クローゼットもまともになったみたいだし?」
それとなくテーブルの横に立つリンドウを窺ったが、涼しいというよりは無感動な顔をしていて何を考えているのかさっぱりわからない。夕子の考えが正しければ、一枚噛むどころか全部、この教育係の仕業だ。リンドウほど適した実行犯はいないのだ。
「びっくりしたよ」
着ているワンピースの胸元を軽く引っ張って、夕子は言う。
「示し合わせたかのようにこれだもんね」
この日のコーディネートは完璧だ。心安らぐ真っ黒なワンピースは飾り気のないシンプルなデザインで、タイツも靴も同じように黒一色、少し肌寒いので上着を羽織ったが、やはりそれも黒ときた。全身真っ黒スタイル。それも、朝っぱらから。
リンドウは、さあ、なんのことですか、という顔はしなかった。ドアの前に立ち、いつも通り眉ひとつ動かさずお決まりの言葉を告げ、深々と頭を下げる。
「それでは、朝食をお連れいたします」
その朝食は、あいかわらず無防備というか無遠慮だった。
ドアが閉まり、耳ざといリンドウがそう遠く離れてないうちに夕子のほうへぱたぱたと小走りでやってくると、出し抜けに大きな声で訊いてきた。
「今日のあめちゃんなんですかー?」
「しっ聞こえる!」
夕子は声を殺して叫んだ。
ランタナはあっと口に両手をやり、肩越しに入り口を振り返る。危ない橋を渡っていることに気づいていないのか、ほっとしたように息を吐いたのは一瞬で、すぐにまた夕子のほうに向き直ると両手を差し向けた。眠たそうな目が期待と興奮で輝いているのには、おもわず夕子の顔にも笑顔が広がった。
「金平糖でいい?」
「どんなあめちゃんです?」
「きれいだよ。カラフルで……宝石みたいかな」
「ワイルドです。お嬢様になると宝石も食べるとは」
恐ろしい勘違いをしたランタナがテーブルに座るのと入れ違いに、夕子は椅子から立ち、壁際に寄せた机に隠しておいた茶色い包みを手にして戻った。ランタナの目の前で包み紙をひらいてやると、熱のこもった吐息が歓迎した。
「ちっちゃいお星さまです」
さっそくランタナは黄色い金平糖を一つ掴んで、光に透かすようにして空中に掲げてみせた。
「気に入った?」
「あめちゃんはみんな好きです」
ぱくっ、とランタナは金平糖を口に放り込む。デコボコした感触を楽しんでいるのか、閉じた口元が楽しそうに動いている。幸せいっぱいという顔だ。早くもランタナの目は茶色い包み紙の上に戻って、次はどれにしようかと探し始めた。
夕子は心の中でほっと息をついていた。リンドウの目を盗んで使用人に頼み、毎回飴を用意してもらうのは大変だけど、それでランタナの笑顔が見られるのなら安いものだ。それにランタナは、今となってはただ一人の友人だ。
急に心細さに襲われて俯いた夕子の耳に、不思議そうな声が飛び込んできた。
「あめちゃん食べます?」
「私?……はいいよ」
夕子は顔を上げて笑顔をつくった。
「そんなに好きじゃないの」
「ざんねんです。おれは好きです。おれの命は血じゃなくて砂糖で繋げればいいのにって思います」
「砂糖で?」
夕子は黙ってランタナの続きを待った。
ランタナの手が迷いながら金平糖でできた山の上空を動く。次に選んだのは白と緑の二つの金平糖だった。緩みきった頬に片手を当て、嬉しそうに身体をくねらせながら味わうランタナは、本当に飴が好きなのだろう。
「吸血鬼じゃなく吸糖鬼。おれの理想です」
「すごく甘そうだね」
「甘々はやさしいです。砂糖を食べる自分も甘いし、砂糖でできてる体なので舐めても甘い。吸糖鬼がいるだけで周りは甘々です。みんな甘い思いしかしないです」
「それは……」
笑って流そうとした夕子は、しかしはっとしたように口を噤んだ。すぐに忘れてしまう自分のお気楽な性格を恨めしく思うのと同時に、いたたまれない気持ちに襲われる。夕子はテーブル越しの相手に勘づかれないようゆっくり顔を動かした。熱心な様子を装って、脇に置いた本の表紙をじっと読み込む。――『蘇る吸血鬼伝説』その文字が頭の中で躍って姿を変える。蘇る……吸糖鬼……伝説……。
ランタナののんびりとした声が、夕子を現実に引き戻した。
「ひょっとすると、お嬢様は吸糖鬼の親戚かもなんて」
「なあにそれ。ランタナの話はいつも難しくてわかんないよ」
「そーです? 実はシンプルです」
金平糖に触れていた指先を舐めるのをやめ、ランタナはこてんと首を傾げた。ぶかぶかのスーツの肩が奇妙な感じに片側あがる。いつ見ても子どもが大人の真似をしているように違和感しかない装いだ。それでも、ランタナは夕子よりずっと年上で、何も考えていないように見えてもやはり夕子よりずっと考えを持っているのだろう。
ランタナの手がゆっくりと襟元にあがって、シャツの上から首筋を掻いた。
「甘々はやさしいです」
「やさしいわけじゃないよ」
夕子は観念したように肩の力を抜き、背もたれに寄りかかった。正面のランタナをなるべく視界に入れないよう顔をそらして言う。
「案外ただのダイエッターかも」
「おおなるほど」
ランタナの口振りからは、真面目なのか軽いのかいまいち判断に困る。だから夕子は笑っていいのかどうかわからず、けっきょくいつも言葉が出てこない。その静かな時間に思い出すのだ。もしかしたら、それこそ目の前の相手の策略かもしれない。とろんとした眠たそうな瞳は今日も無言で尋ねている。
――忘れてないですよね? あの約束のこと。




