036 無防備な獣
動き出すのは一瞬だった。どこにそんな力が残っていたのか、素早く立ち上がったレイは、次の瞬間、夕子の目前に迫っていた。夕子はとっさに目をつむった。衝撃が走る。が、首筋でもなければ、噛まれたわけでもない。だんっ、と押しのけられたのだ。
「え……?」
テーブルに手をついて身体を支えたまま、呆気に取られたようにレイを見る。レイも肩で息をしながら、熱にうなされたような赤い顔をこわばらせて夕子を見返す。そのまま時が止まったように見つめ合った。
と、ふっとレイの顔が下を向いた。
「……夕子様」
「な、なんですか?」
声がうわずる。驚きと緊張で息が詰まるほどドキドキした。
たっぷり沈默を置き、レイの呼吸も落ち着きを取り戻したのか、次に口をひらいたときにはいつものしっかりした声に戻っていた。
「風邪をひきます。これ以上体が冷えないうちにお着替えください」
「……大丈夫」
と、夕子は首を振る。
「どうせ部屋に戻るならそこで着替えます。せっかく用意してもらったのに申し訳ないですけど」
「気にする必要はありません。それが自分の仕事ですから」
「そうですね。理解しました」
そう力なく笑ってみせるが、レイは笑わなかった。
不思議なもので、今までにないほど夕子の頭は冷静だった。体中に冷たい血が巡り、それが高ぶっていた感情を急速に冷却したかのように心は平坦で、静まっている。どっと疲れが押し寄せてきて、夕子はふうっと息をついた。これ以上ここにいても無駄だ。
レイはテーブルの上のタオルを手に取り、目をそらしたまま、夕子の立っているほうへと差し出した。
「お使いください」
「ありがと――」
指先を掠め、白いタオルが足元に落ちた。夕子もレイも即座に動けなかった。形を崩して広がったタオルの、ところどころに赤い染みが広がっていく。ちょうど割れたガラス瓶の真上だった。
夕子は急いでしゃがみこみ、汚れたタオルを取り上げたが、「ったぁ……」とまたタオルを手放した。破片で切ったらしい。右手の人差し指にぷっくりと赤い雫が浮き出ている。
「あの、タオル落としちゃ……」
苦笑しながら振り仰ぎ、レイの顔を見た夕子は固まった。
驚きはすぐに消えた。背中をぶつけた衝撃とともに夕子は思い出していた。あの暗い森でのレイとの再会は偶然でもなんでもなかった。ちゃんと理由がある。なぜならあそこは――。
押し倒された夕子は、白い天井を背負って自分に馬乗りになる相手の姿をぼんやり見上げた。この部屋を満たす荒い息遣いも、時折指先に走るぴりっとした痺れも、どこか他人事のように遠く感じる。レイは、赤ん坊のように夢中で夕子の人差し指を吸っている。ぎゅうっと目をつむり、額に薄っすらと汗を浮かせ、首の付根まで赤く染めて。
無防備な獣みたいだ、と思った。
時間にしてほんの数十秒のことだったろう。
自分の行為にぎょっとしたかのように、突然レイはうしろに飛んだ。その瞬間、とらわれていた夕子の右手が自由になる。
「も、申し訳ありません!」
赤らんだ顔がぐしゃっといった感じに歪んだ。
夕子は、今にも泣き出しそうな相手から、唾液で光る指先へと視線を動かした。
「やっぱりお腹すいてたんですね」
「……っ」
「私が邪魔しちゃったから?」
戸惑ったように顔を上げたレイから静かに視線を外す。少なからずショックだった。あの森にあるのはただひとつ。
造血所だ。
夕子だってわかっている。レイは吸血鬼で、夕子がそうであるように彼もまた他者の血を求めずにはいられない。予備とは言え、造血所はそのためのものである。レイは間違っていない。責められるいわれも、夕子が責める筋合いもない。それでも、やはり許せなかった。
コンドルのことが思い浮かぶ。ランタナだって苦しんでいるはずだし、あの身をつんざくような悲鳴の持ち主も、こうしている今もすすり泣いているかもしれない。それなのに、グイドでもなくアリスでもなくリンドウでもなく、よりによってレイが、あの森にいた。
――夕暮れの子とは中間者だとも解釈できます。吸血鬼と人の間に立つ存在――それは果たして半端者でしょうか。もしかすると、どちらにも寄り添える存在なのではありませんか?
そう教えてくれたのはレイだった。
――ですから夕子様、あなたのその名はとても情け深く優しい、少しも恥じることのない素敵な名前だと、自分は思います。
レイがこの名前に新しい意味を与えてくれた。それを素敵だと思った。それなのにレイが――。
夕子は静かに息を吐いて、頭を床にこすりつけるようにして背中を丸める男を見おろした。がっかりだ。その反面、これからすることがやりやすくなったと安堵する自分がいた。
「顔上げてください」
レイの肩がわかりやすく揺れた。握られた拳が震えている。
おそるおそる顔を上げ、こちらを見上げたレイからは、すっかり熱が失われていた。打ちひしがれている。青ざめてこそいなかったが、悔やみきれないほどに後悔しているのか、夕子の言葉ひとつで窓から飛び降りるのではないかと思うほど、その瞳は頼りなく揺れている。
夕子は、意識して友好的な笑みを形づくった。
「大丈夫です」
びくりとまたレイの肩が動く。ただしさっきとはちがって、少しだけ期待したような色が瞳に浮かぶのを、夕子は見逃さなかった。
今度は自然に夕子の口から笑みがこぼれた。冷たく濡れたドレスに手をかける。
「大丈夫です。噛まれたわけじゃないし、レイさんはただ血を拭いてくれただけ。私、気にしてないです。だけど……次は、私のお願いを聞いてくれる番ですよね?」
重たい音をさせてドレスが床に落ちた。その向こうで、ふたたび床に額をつけて頭を下げたレイは、丸めた背中をこわばらせ、絞り出すような声で「……はい」と小さく返事をした。
朝方、夕子はベッドの上でぱちりと目を開けた。見覚えのない天井に細長い光が走っている。まだ時間が早いのだろう。カーテンの隙間から射し込む光は白んでいて、室内はぼんやりと薄暗かった。
ベッドから降りて窓辺に立つと、気が滅入るような音が聞こえてきた。
僅かにカーテンを横に引き、夕子は無音のため息を落とす。ザーザー降りの雨が窓の外から見える景色に降り注いでいる。
夕子は、少しカーテンをひらいて室内を明るくした状態でうしろを向いた。
部屋は、昨夜から手つかずのまま荒れている。テーブルには脱ぎっぱなしの濡れた服が乱雑に積み重ねられ、中途半端に離れた椅子は壁を向き、半乾きの床は部分的に薄っすら光っている。ここからでは見えないが、割れたガラス瓶とこぼれた血液は赤く染まったタオルを被ったままだろう。そして、正面のドアの前に膝を抱えて座る姿があった。レイはまだ寝ている。
「…………」
夕子はまた窓越しに外を眺めた。降りしきる雨。気の重くなるような鉛色の空。湿った空気。背後でレイが起きる気配がし、こっそり息を吐き出してからなんともないような顔をして振り返るまで、しばらく夕子は暗い瞳で窓の外を見上げていた。




