035 雨宿り
床板の軋む音がして、窓を眺めていた夕子は身体ごとうしろを向いた。
五畳ほどの殺風景な部屋が目に入る。中央にベッドと木製の四角いテーブル、それと揃いの椅子が一脚。あとは壁際に、備え付けではないクローゼット。まるで生活感がないのは、ここが寝に帰るだけの場所だからなのか。
正面のドアが開いて、きっかり時間通りに、白いタオルを抱えたこの部屋の持ち主が戻ってきた。
「タオルと着替えをお持ちしました。女性使用人に支給されている未使用品ですが、本当にこれで――」
ばちっと視線がぶつかると、レイは一瞬たじろぎ、俯いた。夕子がドアを見据えて待っているとは想定していなかったのだろう。「申し訳ございません」と、早口に謝罪し、テーブルの上にタオルを広げた。隠してあった白いシャツと黒いスカート、タイツらしきもの、それと下着類がパッケージされたと思われる黒い袋が並べられていく。
夕子はそれをぼんやり瞳に映していた。すべて取り出され、広げられたタオルがきれいに畳まれた後も、窓際に立ち尽くしたまま動き出せずにいた。
レイは、もう何度目かになる言葉を、それと感じせないほどやさしく繰り返した。
「濡れたままでは風邪をひきます。お着替えください」
「…………」
「お願いです、夕子様」
その言葉に、夕子はやっと重たい身体を動かした。のろのろと足を引きずってテーブルのほうへと進む。足を前に出すたび、重く濡れて身体に張りついた服から水が滴り落ちた。夕子の歩いた跡は、そこだけ雨が降ったように光っている。
テーブルに近づくと、レイは夕子を見おろす形にならないようにするためか、背を向けたまま横にずれた。
「部屋は内鍵となっています。忘れずにおかけください。もし何かありましたら、少しお待ちいただければ……」
「どこ行くの?」
驚いて、おもわず声が出た。
「まさか、グイドに知らせるつもり?」
「今頃グイド様も心配なさっているはずです。夕子様はこちらでお待ちください。すぐに戻ります」
「は……? だって……」
言葉がうまく出てこない。がつん、と頭を鈍器で殴られたような気分だ。ショックだけど、そのおかげでようやく、ぼんやりしていた頭が回り始めた。
この部屋に案内されたのはほんの十分前のことだ。
降りしきる雨の中、あの暗い森で夕子はレイと再会した。すぐに屋敷に戻ることはなかった。どうしても夕子はグイドに会いたくなかった。だからと言って行く当てなどない。雨に濡れ、冷たさに震えながらも、自分の部屋に戻ることを頑なに拒む夕子と、なんとしてでも夕子を屋敷に連れ戻したいレイとの押し問答は、ずいぶん長いあいだ繰り広げられた。
――お願いです、夕子様! このままでは本当に風邪を引いてしまいます。せめてどこかで雨宿りし、着替えだけでもしていただけませんか?
そう何度も訴えるレイの根気強さに負け、夕子はついに首を縦に動かした。
ひとつ、条件をつけて。
――……わかった。レイさんの部屋に行く。
――俺の……? いえ、あの、従者である自分の部屋にお連れするわけには……!
――じゃあどこも行かない!
ほとんど押し切られる形で、レイはうなだれるように頷いたのだ。
こうして思い返してみても、特別な約束をしていたわけでないのは明白だ。裏切られたと思うのはおかしいのかもしれない。そもそもレイは夕子ではなく、グイドに仕えている身だ。夕子の味方をすることこそが裏切りにあたるのだ。それなのに、頭の中では理性的な部分がそう告げながらも、感情的な部分ではまったくの逆のことを思わずにはいられなかった。
夕子は、レイの背中をきっと睨みつけた。
「言ったはずです。私、グイドに会いたくないって」
「理解しているつもりです。忘れたわけではありません。ですが、グイド様にお伝えするのが私の役目です」
「……グイドの従者だから?」
「そうです」
即答だ。レイの中には一片の迷いもないのだろう。
夕子はぐっと腿の横で手のひらを強く握り締め、数秒後、太い息を吐き出すとともにその手を離した。
「……そう」
その場でくるりと身を翻す。
「わかった」
「お待ちください!」
いきなり腕をとらえられた。反射的に振り返った夕子は顔を歪め、素早くその腕を引いた。振り払おうとする。そして――。
「離して!」
おもいきり両手を突き出した。それだけだ。
気づくと、レイの身体がうしろに傾き、そのまま突風に襲われたような勢いで吹き飛び、重い音を立てて壁に衝突した。ずるずると腰から崩れ落ちる。低い呻き声が洩れた。
小刻みに震える自分の手のひらを見おろしながら、夕子は信じられない思いで呟いていた。
「なに……?」
レイを見る。微かに呻いている。壁に背中をくっつけ、だらんと手足を伸ばし、顔は下を向いている。身長は夕子よりずっとあるし、線が細くても筋肉はついている。年上の男性だ。そんな大の男が、まさか小娘の自分が押しただけで簡単に吹き飛ばされるなんて――。
これも吸血鬼になって手にした力というやつなのか。だけど、レイだって同じ吸血鬼のはずだ。
苦しそうな声が聞こえ、はっとした。
「レイさん……!」
慌てて近寄ろうとしたとき、何かを踏んづけた感触があった。顔を下げると、踏み出した右足の足元に赤い小さな水たまりができ、その中に光を反射してきらめく破片が散らばっているのが見えた。ガラス片だ。すべて拾い集めるとちょうど小瓶くらいの大きさだろうか。
あっ、と口元に手をやった。
「もしかして……」
素早くレイに視線を向ける。どうやら押し飛ばされた衝撃から抜け出せたらしい。左肩を右手で抱くようにして、苦しげに身体を震わせている。息遣いが荒い。床に手をつき、起き上がろうとした。が、すぐに壁に戻り、おもむろに顔を上げた。
あのときと一緒だ。
熱病にうなされているようなその様相。辛そうな呼吸に合わせて上下する肩。脱力してしまったかのようにだらしなくひらいた唇。ひくひくする高い鼻もそう。いっぱいにひらかれた瞳孔は揺れ動きながらも、一点を――夕子の足元を見据えている。
「申し訳……ありません……。すぐにグイド様をお呼びして……」
「お腹すいてるの?」
ようやく夕子もその香りを喉の奥で感じ取った。新鮮なものとは呼べない。ほとんど匂いの薄れた、古い血液だ。
もう一度立ち上がろうとしたレイの胸を、夕子はそっと押した。あっけなく腰を落とし、熱っぽさと苦しさ、なにより訝しさをごちゃ混ぜにしたような表情で、レイは無言で問いかけてくる。
夕子はちらりと入り口に目をやった。ドアは閉ざされている。誰もこない。やるなら今だ。
レイの腰下のあたりを跨いで立ち、目を閉じ、ひとつ息をついてから、夕子は見おろして、言った。
「レイさん。もし、お願い聞いてくれるなら、私も……」




