碧 第8話 次なる扉
テーブルを囲む三姉妹の姿を、三人はしばらく扉の外から眺めていた。
やがて藁の家の少女が、カップを両手で包んだまま顔を上げた。戸口の三人を見つけると、ぱっと椅子から立ち上がる。
「あ、まだいたの。入ってくればよかったのに」
「椅子が、三つしかないので」
すずなが答えると、少女は自分の座っていた椅子を見下ろし、それから妹の顔を見て、くすくすと笑った。
「そっか。三つで、ちょうどだもんね」
木の家の少女も立ち上がり、戸口まで出てくる。
「隙間風の分は、自分で直しておくわ。風の精霊さんにも、気にしないでって伝えておいて」
「はい。きっと、ほっとします」
心春が微笑むと、木の家の少女は満足そうに頷いた。
最後に、レンガの家の少女が椅子から降りた。扉の内側に立ち、三人を一人ずつ見上げていく。初めて会った時と同じ切れ長の瞳なのに、そこにはもう、値踏みするような硬さはなかった。
「ありがとう……」
かすれるような声だった。それだけ言うと、少女はふいと顔を背けてテーブルへ戻っていく。藁の家の少女が「照れてる」と囁き、木の家の少女が「聞こえてるわよ、きっと」と返した。
三人が家に背を向けると、丘の上に、使い込まれた木の扉に真鍮の取っ手の付いた、見覚えのある扉が立っていた。プレートの文字が、虹色の空の下で淡く光っている。
「帰り道、みたいですね」
紬の言葉に頷き、すずなは丘を上った。取っ手に指をかける前に一度だけ振り返ると、藁の家、木の家、レンガの家と、三軒の家が並んでいた。けれど灯りがともっているのは、一番奥の一軒だけだった。
すずなは取っ手を引いた。溢れ出した白い光が、三人を包み込んでいく。
目を開けると、そこは薄い青色の石の広間だった。振り返ると、今くぐってきたばかりの扉が、柔らかな金色の光に包まれている。手垢で鈍く光っていた真鍮の取っ手も、傷だらけだった木の表面も、内側から照らされるように淡く輝いていた。
「光ってる……。クリアした扉は、こうなるんですね」
「眠ってた扉が、目を覚ましたみたいです」
紬の呟きに、心春がそっと言い添えた。すずなは金色の扉から、隣に並ぶ二枚へ目を移す。最初から光る文字のなかった、残りの扉だった。どちらにも、プレートが掲げられている。
"Rotkäppchen"
"Der gestiefelte Kater"
「これ、何て書いてあるんでしょう。英語じゃ、ないですよね」
「ドイツ語、でしょうか。私も読めません」
紬と心春が揃って首を傾げる。すずながプレートの下に目を落とすと、一枚目には頭巾をかぶった女の子の横顔が、二枚目には長靴を履いて立つ猫の姿が、文字の下に彫り込まれていた。
「たぶん、赤ずきんと、長靴を履いた猫だと思います」
「流石です、先輩!」
「絵が、描いてあるので」
すずなが絵を指さすと、紬は一瞬固まり、それから何事もなかったように咳払いをした。
「……流石です、先輩」
「言い直しても、絵だと思います」
心春が口元を押さえて肩を震わせる。紬は聞こえないふりをして、くるりと広間の奥へ顔を向けた。
「あれ?」
その声が、少しだけ高くなった。紬の視線の先で、壁に並ぶ扉の一枚が、光る文字の明滅を止めていた。寝息のようだった光がふっと途切れ、"CLOSED"の文字が、砂がこぼれるように崩れて消えていく。
三人で近づくと、文字の消えた扉は、いつの間にか姿を変えていた。一枚の扉の真ん中に、上から下まで一本の線が引かれている。左半分には指先ほどの小さな彫刻がびっしりと刻まれ、右半分には、扉からはみ出しそうなほど大きな足跡が一つだけ彫られていた。そしてその上に、二つの題名が並んでいる。
「一寸法師と……だいだらぼっち?」
紬が読み上げ、目を瞬かせた。
「どっちも、日本の昔話です」
すずなは扉の表面に手を触れた。ひやりとした感触が指先に伝わってくる。けれど三匹の子豚の扉に触れた時のような、呼ばれる感覚はまだない。
「赤ずきんも長靴の猫も、外国のお話ですし。せっかくなら、こっちから先にしませんか」
「私も、そう思います。知っているお話の方が、落ち着いて向き合えそうです」
紬と心春の言葉に、すずなも頷いた。
「一度、エルフィさんに報告してからにしましょう。三匹の子豚のことも、まだ話してないので」
森の空き地に戻ると、木漏れ日の斑模様は、やはりほとんど動いていなかった。すずなの黒い霧で家に戻り、三人はその足で隣の戸を叩く。
「毎回来る必要はないと、言ったはずだが」
戸を開けたエルフィは、開口一番そう言った。けれどその手には、湯気の立つポットが握られている。テーブルの上には、カップが四つ並んでいた。
「準備、してくれてたんですか」
「窓から、霧が見えた」
紬の問いに涼しい顔で答えてから、エルフィの視線が三人の手元へすっと下り、右から左へ、もう一度左から右へと動いた。
「手ぶらか」
「あ」
すずなと紬の声が重なった。心春が申し訳なさそうに眉を下げる。
「すみません。パイ、焼く時間がなくて」
「別に、催促したわけではない」
エルフィはそう言って踵を返したが、その背中は、ほんの少しだけ肩が落ちていた。
三軒の家と三姉妹に狼の影、戦いの最中に覚えた土の魔法、そしてレンガの家の少女が自分で扉を開けたことまで、すずなは三匹の子豚の試練のことを順に話していった。エルフィは紅茶を口に運びながら、最後まで黙って耳を傾けていた。
「それで、加護を一つもらいました。Brick Wallです」
「見せてみろ」
すずなが意識を集中させると、目の前に赤褐色の光の壁が立ち上がった。レンガを積んだような規則正しい模様が、その表面に浮かんでいる。エルフィが指先に灯した光を軽く弾くと、光は壁に触れた瞬間、あっけなく跳ね返されて消えた。
「悪くない。力で崩れない守りを、受け入れることで解いたか」
「はい。たぶん、そういうことだと思います」
「なら、その加護は、ただ硬いだけの壁ではないだろう。使っていくうちに、分かることもある」
すずなが壁を消すと、エルフィはカップを置いた。
「それで、新しい扉が出たと言ったな」
「はい。一寸法師と、だいだらぼっちという、日本の昔話が二つ並んでいました」
「どちらも聞いたことのない名だ」
すずなは、二つの話をかいつまんで説明した。一寸法師は、指ほどの背丈しかない男の子が、お椀を舟に、針を刀にして都へ上り、鬼を退治する話で、だいだらぼっちは、山を担いで運び、その足跡が湖になったと言われる、途方もなく大きな巨人の伝説だ。
「小さい者と、大きい者か。両極端だな」
「扉にも、真ん中に線が引いてありました」
心春が言い添えると、エルフィは顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「一つの扉に、二つの名が並んでいる。なら、両方を越えなければ、扉を越えたことにはならんのかもしれん」
その言葉に、三人は顔を見合わせた。
「片方だけでは、駄目ということですか」
すずなが聞き返すと、エルフィは首を横に振った。
「分からん。私の見立てに過ぎん。だが、二つ並べたことには、何か意味があるはずだ」
エルフィは残りの紅茶を飲み干し、空のカップを置いた。
「気をつけて行け。何かあれば呼べ」
三人は揃って頷き、エルフィの家を後にした。戸が閉まる直前、背後から「次は、手ぶらで来るな」という声が追いかけてきた。
広間に戻ると、二つの名を持つ扉は、さっきと同じ場所で待っていた。すずなが表面に手を触れると、今度は指先に、かすかな引力のようなものが伝わってくる。扉はひとりでに、ゆっくりと内側へ開いていった。
溢れ出した白い光が引いた時、三人が立っていたのは、奇妙な場所だった。
足元から一本の線が地平線までまっすぐに伸び、世界を二つに分けている。右側には、見上げても頂の見えない巨大な柱が二本、少し間を空けてそびえ立ち、その向こうに本物の山がいくつも連なっていた。柱の足元には、湖のように広い窪みが点々と続いている。左側には、草の葉一枚が大木のように見える、小さな小さな世界が広がっていた。露の粒が、鞠ほどの大きさできらめいている。
「大きさが、めちゃくちゃですね……」
心春が困惑したように両側を見比べる。その時、頭の奥に声が響いた。
『一寸法師とだいだらぼっちの試練が開始されました』
「どちらから、行きましょうか」
すずなが尋ねると、紬が右手の巨大な柱を指さした。
「大きい方から、行ってみませんか。小さい方は、踏んじゃいそうで怖いです」
紬の言葉に、心春がくすりと笑った。すずなも頷き、三人は右側の世界へと足を向ける。
踏み出す前に一度だけ左側を振り返ったすずなの目に、水たまりほどの川が映った。その上にお椀が一つ、舟のようにゆらゆらと揺れながら浮かんでいて、そのそばで、針の先のような光がちかりと瞬いた気がした。
「先輩?」
「いえ。行きましょう」
すずなは前に向き直り、巨大な柱の影の中へと歩き出した。
背後で、お椀の舟が、水の流れにかすかに揺れていた。




