碧 第9話 巨人の国
柱の影に入ると、空気がひやりと冷たくなった。
見上げても、柱の頂は白くかすんで見えない。表面は古木の幹のようにごつごつとしていて、ところどころに苔とも草ともつかない緑がこびりついていた。足元の窪みには澄んだ水がなみなみと溜まり、向こう岸がぼんやりとしか見えないほどの湖になっている。
「大きい方、って言いましたけど……大きすぎませんか、これ」
「足元の草も、私たちの背丈くらいありますね」
柱を見上げたままぽかんと口を開ける紬の隣で、心春が肩のあたりで揺れる草の穂をそっとかき分ける。すずなは柱の表面に手を伸ばしかけ、そこで指を止めた。木の肌にしては、妙に温かい。
ごうん、と腹の底を揺さぶるような音がして、二本の柱のうち一本がゆっくりと持ち上がっていく。その根元にあったのは、苔むした岩ではなく、藁を編んで作られた途方もなく大きな草鞋だった。
「柱じゃ、ない……」
すずなの喉から、かすれた声が漏れた。持ち上がった草鞋が空を覆うように三人の頭上を横切り、その影が地面を走る。遅れて吹き下ろしてきた風に、心春の体がふわりと浮きかけた。
「心春さん!」
紬がその腕を掴んで引き戻した直後、少し先の地面に草鞋が下ろされた。大地がうねり、土が波のように盛り上がって、三人はまとめて草むらに投げ出される。草鞋が再び持ち上がった跡には、深くえぐれた窪みが残っていた。その底から水が湧き出し、見る間に縁まで満たしていく。
「足跡が、湖に……」
心春が呆然と呟く。すずなは土を払いながら起き上がり、二本目の柱を、その上へ上へと目で辿っていった。脛、膝、その先は雲の中。雲の切れ間から、肩の上に渡された長い棒が覗き、棒の両端には太い藁の縄が垂れ下がって、その先に本物の山が一つずつぶら下がっている。天秤棒を担いだ巨人が、そこにいた。
「踏まれそうなのは、わたしたちの方でしたね」
紬が、乾いた笑いを漏らした。
「もう少しじゃ」
雲の上から、声が降ってきた。雷が言葉を覚えたような、低く重い響き。それだけで周りの木々から葉が一斉に散り、湖の水面に細かな波が立つ。
「あと一つ、運べば。この国の形が、できあがる」
三人に向けた言葉ではなかった。足元に誰がいるのかなど、少しも気にとめていない独り言だった。
「すみません! 私たち、話を聞きたくて!」
すずなは両手を口に添え、精一杯の声で叫んだ。けれどその声は、巨人の膝の高さにも届かないうちに、風にさらわれて消えていく。
「フィン、お願いします。私たちの声を、上まで」
心春の呼びかけに、透き通った翼が広がった。フィンが三人の声を風に乗せて雲の上へと舞い上がっていくが、半ばまで昇ったところで、巨人が大きく息を吐いた。ただのため息が嵐のような突風になってフィンを吹き飛ばし、三人のもとまで押し戻してくる。
『無理だよ、心春。あの息、嵐みたいだ』
翼をばたつかせながら戻ってきたフィンが、しょんぼりと心春の肩に降りた。紬が魔銃を空に向け、試しに一発撃ってみると、乾いた銃声が、ぽん、と情けない音を立てて空に吸い込まれた。
「聞こえてないですね」
「聞こえてないですね」
すずなと紬が、同じ顔で空を見上げた。
「追いかけましょう。どこかで、立ち止まるかもしれません」
すずなの言葉に、心春が頷いた。
「バザルト、お願いします。あの草鞋の高さまで」
バザルトが拳で地面を打つと、三人の足元が岩の柱となってぐんぐんせり上がった。巨人が次の一歩を踏み出そうと、草鞋をわずかに浮かせた瞬間、すずなは叫んだ。
「今です!」
三人は岩の柱から跳び、草鞋の縁から垂れた藁の紐にしがみついた。直後、世界がひっくり返った。
草鞋が持ち上がり、三人の体ごと空へ放り上げられる。風が耳元で唸り、眼下の森が見る間に遠ざかったかと思うと、次の瞬間には地面が迫り、どすんという衝撃が紐を伝って全身を揺さぶった。それが、一歩ごとに繰り返される。
「無理無理無理、これ無理です!」
「紬さん、手を離さないでください!」
「離しません! 離しませんけど、二度と乗りません!」
紬の悲鳴が、風の中で尾を引いていく。心春は目をぎゅっと閉じたまま、紐に額を押しつけていた。すずなは時の流れをほんの少しだけ緩めて着地の衝撃をやわらげながら、必死に前を見据えた。
十歩ほど進んだところで、巨人の足が止まった。
なだらかな尾根の上だった。巨人は天秤棒を肩から下ろし、二つの山をそっと地面に置くと、自分もその場に腰を下ろした。三人は草鞋から転がるように滑り降り、柔らかな土の上に大の字に倒れ込む。
「生きてます……」
空を見上げたまま呟く紬の隣で、心春がこくこくと頷いている。
すずなが体を起こすと、尾根の下に谷が広がっていた。その谷底に、家々が肩を寄せ合うように並んでいる。三人と同じ大きさの人が暮らす、村だった。家の外へ出てきた人々が、みな一様に尾根の上で休む巨人を見上げている。その輪郭が、ざらりとノイズに揺れた。
「あの、すみません」
谷へ下りたすずなが声をかけると、杖をついた老人が振り返り、三人の姿に目を丸くした。
「外から来なすったのか。あのお方の足元を歩いてくるとは、命知らずな」
「あのお方……だいだらぼっち、ですか」
「わしらは、だいだらさまと呼んどる」
老人は巨人を見上げ、深く息をついた。
「悪いお方ではない。山を運び、歩いた跡に湖をこしらえ、この国の形を作ってくださる。ただ、大きすぎるのじゃ。わしらのことなど、見えておらん。通るたびに畑が踏まれ、家が揺れる。鐘を鳴らしても、叫んでも、気づいてはもらえん」
村の入口に、大きな鐘が吊るされていた。何度も打ち鳴らされたのか、撞木の当たる場所だけが、すっかり擦り減っている。
「あと一つ、もう少し。だいだらさまは、わしの爺さまの、そのまた爺さまの頃から、ずっとそうおっしゃっとる。一度も、運び終えたことはない」
擦り減った撞木を見つめるすずなの頭に、藁の家の壁がふとよぎった。継ぎ足された新しい藁と、色の褪せた古い藁の、まだら模様。何度も、何度も繰り返されてきたものの跡。
すずなは尾根の上の巨人を見上げた。腰を下ろした巨人のそばに天秤棒が横たえられ、その両端の縄が、三人のいる場所からでもはっきりと見えて、すずなは思わず息を止めた。
太い藁の縄は、ところどころで毛羽立ち、ほつれていた。何本もの藁がばらばらに飛び出し、山を吊るしている片方の縄など、元の半分ほどの太さにまで痩せている。
「あの縄……」
「もう、何百年も替えておらんはずじゃ。だいだらさまは、気づいておられんのじゃろう。ご自分の手元すら、大きすぎて見えんのかもしれん」
老人の言葉が終わらないうちに、尾根の上で巨人が身じろぎした。
「さて。もう少しじゃ」
雷のような声とともに、巨人が天秤棒を肩に担ぎ直す。二つの山がゆっくりと地面を離れて宙に浮き、立ち上がった巨人が次の一歩を踏み出した。その足が向かう先は、谷の真上だった。
痩せた縄がぎしりと軋み、ぶつり、と藁が一本千切れる音がした。細い糸が切れるような音ではなく、大木が裂けるような音で、千切れた藁が大蛇のように身をくねらせながら森へ落ちていく。
村の人々の頭上で、山が、ゆっくりと傾き始めていた。
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